「和の国」の子育て

210 - コピー

「和の国」の子育て

「しっかり勉強して、良い会社に入りなさい」ではなく、「世のため人のために尽くせる人間になりなさい」と教えるべきでは。

■1.政府チャーター機で救われながら、ウィルス検査は拒否した2人

新型肺炎に襲われている武漢から日本政府の派遣したチャーター機で帰還した206人のうち、2人がウィルス検査を拒否して帰宅した。これにはネットでも怒りの声が燃え上がった。この反発に驚いたのか、その後、2人は検査を申し出たという。

この2人は、戦後教育の典型的な失敗事例のように見える。自分がもしウイルスに感染していてばら撒いたら、周囲の人々にどれほどの迷惑をかけるか考えもせずに、ただ自分が検査を受けるのが嫌だ、という自己中心的な態度をとった。周囲の批判でその誤りに気がついたようだから、人格に問題があるというよりも、誤った教育を受けたせいだろう。

現代日本の教育は、「国家権力」や「体制の圧力」を敵視し、ひたすら個人の権利を神聖視する。かつて、京都の府立高校での制服導入に反対して、6名の高校生がジュネーブの「国連<子供の権利>委員会」で「人権侵害」を訴えた。国連の委員からは「スイスに来て意見が言えること自体が恵まれている」(スウェーデン)などと諭(さと)された。

高校生だけでこんな事は実行できないから、生徒を焚きつけた大人が裏にいたはずだ。彼らの思想がいかに社会常識から乖離した、歪んだものか、この事例は端的に示している。

■2.社会に寄生しつつ、社会を敵視したルソーの思想

個人の人権を神聖視し、「国家権力」や「体制の圧力」を敵視するのは、「近代教育学の祖」と言われるルソーの思想の影響だろう。ルソーはこんな主張をした。

生まれたときから他の人々のなかにほうりだされている人間(=文明社会の中でそれに適合するように育てられた人間)は、だれよりもゆがんだ人間になるだろう。
偏見、権威、必然、実例、わたしたちをおさえつけているいっさいの社会制度(=文明社会の自生的制度)がその人の自然をしめころし(=野獣性をもつ「自然人」に成長させずに)、そのかわりに、なんにももたらさない。

ルソーは人間は本来、一匹狼のように生きる「自然人」であると考えたのだが、それは科学的事実からはほど遠い空想である。現代の人類学によれば、人間は初めから群れの中で互いを守り合い、助け合って生き延びてきた。狼のような牙も爪も持たない人間がアフリカで一人で生きていたら、すぐに猛獣に食われて絶滅していたろう。

そして群れの中で互いに助け合って生きるためには、当然、そのためのルールが必要であった。たとえば、仲間が猛獣に襲われたら逃げずに助けなければならない、食料が底をつきそうになったら、まずは弱い女性や子供に食べさせなければならない、等々。こういうルールによって、一人一人は弱くとも、共同体として生き残ってきたのである。

ルソーの言う「わたしたちをおさえつけているいっさいの社会制度」とは、そのルールが発達したものであり、それがなければ、そもそも人間は生き残っては来られなかった。
 
「野獣性をもつ自然人」というルソーの空想は、自分自身の生い立ちから生まれたものだろう。誕生時に母を亡くし、父親には10歳の時に棄てられた「一匹狼の浮浪児」として、盗みや詐欺の常習犯だった。

そんな「自然人」にとっては、「汝盗むなかれ」というルールすら、「わたしたちをおさえつけているいっさいの社会制度」と見えたのだろう。

ルソーはそう主張しながら、盗みや詐欺によって自分が共同体に「寄生」している事を矛盾とは思わなかった。こういう歪んだ人間観の持ち主が「現代教育学の祖」とされたのである。そんな「現代教育学」に育てられたら、政府チャーター機で助けられながらも、ウイルス検査は拒否するという人間が出てくるのも当然だろう。

■3.「人間は共同体の中で生かされる」という認識

こう考えると、「人間は共同体の中で生かされる」という人間観は、真っ当な教育を考える上での大前提だと思われる。

たとえば、モーゼの十戒は「隣人に関しては偽証してはならない」と戒め、会津藩の「什(じゅう)の掟」では「嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ」と教える。文化の違いから表現に差はあるが、嘘を言うことを禁じている点は共通している。

なぜ嘘がいけないか。嘘は共同体を破壊するからである。共同体の中で助け合って生きるには、互いへの信頼が欠かせない。嘘をつく人は、自己の利益のために他者を犠牲にするので、互いを支え合う共同体の同胞にはなり得ないのである。

近隣諸国には「息を吐くように嘘をつく」と評される人々もいるが、彼らは国や社会を自らの帰属する共同体として見なしていない。彼らが帰属し、助け合う共同体は親族である。だから親族間では嘘はつけない。

■4.「思いやり」という能力

ただルールや掟とは「○○すべからず」と言う禁止条項であって、共同体を支えるために「○○しよう」という前向きの行動を生み出すものではない。共同体の維持発展には、一人一人が共同体全体に尽くす事が必要であり、人間は進化の過程を通じてその能力を獲得した。それが「思いやり」である。

そのために人間は表情を持った。嬉しいときには喜んだ表情をし、苦しいときには苦しげな表情する。他者の表情から、人間はその思いを推察することができる。推察だけではない。他者が喜んでいるときにはその喜びが自分に伝わり、苦しんでるときには自分も苦しい気持ちがする。そのような他者との共感能力が人間には備わった。

例えば電車の中で座っている自分の前に、杖をついたお年寄りが立ったとする。そのお年寄りがつらそうな顔をしていたら、自分もその辛さを感じとり、それを軽減しようと席を譲る。その結果、お年寄りが喜べば、その喜びが伝わって、自分の喜びにもなる。こうして他者との共感によって、他者のために尽くそうとする思いやりの能力が人間には備わっている。

ウィルス検査を拒否した2人は、自分の行為に関して周囲の人々がどのような気持ちを抱くか、想像できなかったようだ。それだけ共感と思いやりの能力が未発達だったのだろう。

他者の心を察して、自分の事はさしおいても、他者の辛さや悲しみを減らしたい、喜びを増やしたいと思うのは、成熟した人間の行為である。教育とは、子供たちから、そのような人間らしい能力を引き出すものでなければならない。

■5.「人間の真の幸福と健康は、ひとえに良き人間関係から」

思いやりを持つのは他者のためだけではない。そこから生まれる良き人間関係が真の幸福と健康をもたらす、という結論が、科学的研究からも得られている。アメリカのマサチューセッツ総合病院で、76年にも亘(わた)って742人のアメリカ人の人生を追跡した調査研究である。

このプロジェクトの4代目の研究責任者ロバート・ワルディンガーは、調査から判明した事を次のようにまとめている。[Waldinger]

1. 家族や友人、共同体と結ばれた人々は、そうでない人々よりもより幸福、健康、長寿である。孤独は命を縮める。
2. 家族や友人がいても喧嘩ばかりしているのでは、健康に良くない。大切なのは、暖かい繋がりである。
3. 良い繋がりは身体的健康のみならず、脳にも良い。頼れる人が側にいると、記憶力の減退も少ない。

他者との信頼しうる暖かい繋がりこそが、人間を幸福・健康にする、という。人間は共同体の中でこそ、健康で幸福な生活を送れるのである。

■6.「幸せとは人の役に立ち、人に必要とされること」

さらに興味深いのは、人間はこの思いやりを自発的に行おうという「本能」を持っていることである。それを利他心と呼ぶ。利他心は人間の本能の一部である、という事は、上述の電車内の事例から簡単に見てとれる。

杖をついたお年寄りが前に立っているのに席を譲らなかったら、我々は居心地悪い思いがする。思い切って席を譲って感謝されたら、清々しい思いがするだろう。利他心は満たされなければ不快となり、満たされれば快感を覚える。これが「利他心が本能である」ということの証明である。

チョークなどを製造している日本理化学工業は知的障害者を社員の7割も採用している事で有名だが、その発端は近所の施設から知的障害者2人に作業体験をさせて欲しいと頼まれたことだった。彼らに簡単な作業をして貰うと、いかにも嬉しそうな表情をして、真剣に取り組んだ。

工場で働いているよりも施設にいたほうが楽なのに、なぜ彼らはこんなに楽しそうに作業するのだろうか、と大山さんは不思議に思った。その疑問を解消してくれたのが、ある禅寺の和尚さんだった。曰く「幸せとは人の役に立ち、人に必要とされること」。この幸せとは施設では決して得られず、働くことによってのみ得られるものだと、大山さんは気がついた。

人間は人に必要とされ、人に感謝されることによって、自らの利他心を満足させ、幸せになれる。そういう幸せも、やはり共同体の中でしか得られない。

■7.利他心は人間の能力を増大させる

また、利他心は人間の能力を増大させる、という研究結果もある[中野]。これも我々の日常体験から、理解しやすい。たとえば、オリンピックのメダル総数を見てみると、次のような不思議な傾向が見てとれる。

・1968~1984 平均27個/大会
・1988~2000 平均17個/大会
・2004~2016 平均35個/大会

なぜ1988~2000年ではメダル数が大幅に落ち込み、その後は一挙に2倍になったのか。筆者の推定はこうだ。まず1980年代初頭に歴史教科書問題や慰安婦問題が発生し、80年代を通じて蔓延した自虐史観教育により、国家は悪いもの、という通念が広められた。

その頃に教育を受けた青年たちが、88年以降にオリンピックに参加する年頃になると、「国のために頑張る」とは言えなくなり、「オリンピックを楽しみたい」などという言い草が流行した。

自分の楽しみのためにオリンピックに参加したのであれば、競技中の苦しさに耐えきれずに、メダルをとれなくとも「もういいや」と諦めてしまう。最高度の技量レベルを競うオリンピックでは、ギリギリの所でのもうひと踏ん張りがなければ、メダルには届かない。メダル数の大幅減はそのせいだろう。

90年代には、多くの人々の努力で自虐教育もだいぶ薄らぎ、平成11(1999)年には国旗国歌法も成立した。その結果、国の代表として頑張ろう、とする姿勢が復活した。この姿勢により、2004年以降のメダル数が倍増した、と考える。

たとえば、女子レスリング吉田沙保里選手は、2004年のアテネから3大会連続で金メダルをとったが、2016年のリオでの決勝戦に敗れると「たくさんの方に応援していただいたのに、銀メダルに終わってしまって申し訳ない」と号泣した。彼女の気持ちの強さは、応援してくれる人々のために戦う、という所から来ていたのだろう。

スポーツでも仕事や学問研究でも、利己心でやっていたのでは、自分一人が満足してしまえば進歩も止まってしまう。それに対して利他心でやっていれば、無数の人々を満足させようとするために、もうこれで十分という限界がない。これが利他心によって能力がより伸びるというメカニズムだろう。

しかしここで気をつけるべきは、伸ばすべき能力とは人によって異なる、という事である。例えばラグビーでも、足が速くてタッチダウンの得意な選手、スクラムに強い選手、防御が上手い選手など、様々な能力が補完しあって、強いチームが生まれる。

各人の個性と適性に合わせた能力の育成が重要である。そしてそこは「好きこそ物の上手なれ」で、まずは各人の好きな分野から、能力を伸ばしていくべきだろう。

明治天皇は五箇条の御誓文とともに下された御宸翰(国民へのお手紙)で、「天下億兆、一人も其処を得ざる時は、皆朕が罪なれば」(すべての国民がひとりでもその処を得られない時は、みな私の罪であるので)と書かれた。一人一人がその多様な特性を伸ばして、それぞれの持ち場で力を発揮することが、生きがいにもつながる。これが我が国古来からの人間観であった。

■8.正しい人間観に基づいた「和の国」の子育てを

ルソー流の一匹狼的人間観から、共同体的人間観に転換することによって、教育の目的も大きく異なってくる。一言で言えば、従来の「しっかり勉強して、一流大学に進み、一流会社に入りなさい」ではなくて、「自分の長所を伸ばして、世のため人のために尽くせる人物になりなさい」であろう。

「一流会社に入りなさい」では、生徒の利己心を刺激しているだけだ。それでは自己の権利を要求するばかりで、他者の迷惑を考えない大人になりかねない。あの検査拒否した二人のように。

逆に「世のため人のために尽くせる人物になりなさい」と教えることで、子供の利他心を引き出し、それが原動力となって、やる気が出て、能力も伸び、本人の幸福にもつながる。こういう人間が増えれば共同体全体も幸福になり、そこに帰属する人々の幸福も増進する。

我が国は古来から、人の和を大切にする文化伝統を持ってきた。それが世界トップレベルのおもいやりと利他心に満ちた「和の国」を築いてきた。この「和の国」にふさわしい教育をとり戻さなければならない。そのためには、現在の教育が基づいている誤った「一匹狼的」人間観の是正から始めなければならないのである。

                     
                

(文 伊勢雅臣)

コメント


認証コード9086

コメントは管理者の承認後に表示されます。