「真実を探る」

真実を探る

ただの絵空事ではなく、真実を探る。
そこから新たな日本構築の手がかりを得る。
それは、いっけんすると、古いことをしているようでいながら、実は、本当に価値ある日本を築くということなのではないかと思います。

記紀に示された我が国の根幹は、「よろこびあふれる楽しい国」にあります。

これを『豈国(あにくに)』と言います。
「豈」という字は、神社などに置かれている楽太鼓(がくたいこ)の象形文字です。
楽太鼓は、婚礼の儀などお祝いの席、よろこびの席でのみ打ち鳴らす太鼓です。

日本の国が抱えている国債残高はおよそ1兆円です。
だから「国は借金まみれだ、たいへんだ」といいます。
けれど、借金という以上、お金を貸している人がいるわけです。
では、国に誰がお金を貸しているのかというと、日本国民です。

ということは、国債発行残高は、国にとっては借金ですが、国民にとっては貸金、つまり財産であるということを意味します。

つまり1兆円の国債発行残高は、日本国民(計算を簡単にするために日本の人口を1億人としますと)からみると、国民ひとりあたり、およそ1千万円の預金を持っているのです。

「国は借金まみれだ、たいへんだ」という言論は、
裏返しに言えば、
「国民は莫大な財産を持っている。たいへんだ」という議論です。
それで困る人って、いったい誰なのでしょうね。

そう言われると、「むっ、それはチャイナか、コリアか!(怒)」と短絡的思考に陥る人がいますが、少し違います。

実は、これを問題視しているのが、財務省です。
つまり日本国内の省庁が問題視している。

「えっ!?財務省は国民の財産が増えることを問題視しているの?」
それもまた違います。
財務省が問題視しているのは、日本政府です。

日本政府が国民に国債を発行し、その国債を日本国民が買っている分には、何も問題はないのです。

国債発行残高が増えることは、国民の財産が増えることですから、それは良いことだからです。

このことは、銀行と預金者の関係と同じです。
銀行にとって預金残高が増えるということは、銀行にとって負債(借金)が増えることを意味します。

預金は消費者からの預り金だからです。
その預金残高の大きな銀行がメガバンクで、つまり銀行は借金が多ければ多いほど良いという不思議な商売ということになります。

ただし、その預金として預かったお金が、全額不良債権化していたらどうなるのでしょう。

実は戦後、日本政府によって海外にばらまかれ、もはや返ってくる見込みのないお金が、およそ1兆円です。

もちろん、そのお金は、国債発行によって得たお金がそのまま右から左に動いたわけではなくて、巨額の郵貯残高であったり、年金財源であったりします。

しかし、お金はお金であって、出どころがどこであれ、お金に違いはないのですから、ものすごく簡単に図式化すれば、日本政府が発行した1兆円の国債発行残高は、そのまま海外に不良債権となって消えた・・・ということになります。

これが何を意味しているかというと、日本国民がせっせと稼いで貯めたお金が、日本政府によって、まるでダンプカーで捨てるように海外に横流しされ、不良債権化している、ということです。

ミツバチが生まれてくる子供たちのために、一生懸命働いて蜂蜜を作ったら、できた蜂蜜を日本政府がまるごと奪って、どこかに捨ててしまった、というわけです。

ついでに言うと、海外にお金をばらまいた場合、おおむねその2割が関係者の懐にキックバックされます。

そのキックバックは、当然のことながら庶民のふところに還元されることはなく、一部の人たちの巨大なポケットに吸い込まれていきます。
結果、国民はちっとも豊かにならない。

財務省が問題にしている焦点がここです。
政府が国債を発行するのは構わない。
けれど、そのお金がただ闇雲に海外にばらまかれ、その一部が一部の人だけのふところに入るという、ここを問題視しています。

だから消費増税に賛成だとか反対だとか、いきなりその議論にはまだ行かないでください。

結果は増税になりましたが、問題の焦点はそこにあるのではないからです。

ちなみに、この「2割を勝者の大将が取る」という還元の仕組みは、古くは源氏の制度であり、それがそのままモンゴルの大帝国の報酬システムとなり、植民地時代の投資家の取り分となり、いまでは国債謀略の取り分となっているシステムです。

奪った富から、まず2割を大将が取り、残りの8割を9人の将軍で分かちます。

将軍は自分の取り分から2割を取り、残りを9人の部下に分け与える。

源氏もモンゴルも、この方法で末端の兵士まで全員が(たとえ戦いで死亡していたとしても)受け取れるというシステムでしたが、現代では、将軍クラスが独占して下に分けないのだから困ったものです。

米国では、年間のGDPの5割を上位10%のお金持ち層が独占してしまう。

話が脱線しましたが、要するに財務省は、国民の富が横流しされていることを問題にしているのであって、闇雲にただ増税を主張しているのではない、ということを、まずご理解いただきたいのです。

財務省の主張する財政の健全化は、実はこのことを言っています。
事業仕分けのような、国内に必要な事業を停止せよと言っているのではないのです。

また、左翼の人たちが、暗い顔をして「政府の借金が〜〜」と言っているのは、要するに自分たちが銀行に預けた富が、いつの間にか消えてしまっていて、それで本当に自分たちの富は安全なのかということを問題にしているというのが、その本質です。

なぜなら、国債を買っているのは、国民ではなく、自分たちが預金をしている金融機関だからです。

預金を払い戻ししてもらおうと思っても、払い戻すお金が海外に消えて空っぽになっているから、大丈夫か大丈夫かと、心配しているわけです。
だいたいリベラルというのは、自分では働かない高所得者層が多いから、そういう心配になるのですが、これもまた筋違いです。

戦後の日本は平和をお金で買うという国家となりました。
これは自前の軍事力を持たず、自立自存を自ら否定し、でも平和でいたいというわけですから、当然そのような国になります。

そしてこの仕組を上手に利用して、濡れ手に粟で一儲けをする限られた一部の人まで出ているわけです。

しかしそのことが、国民にとって幸せなことか、といえば、答えは一概には決めつけることができません。

平和であることは誰もが望むことですし、それがお金で買えるなら、それはそれで良いことといえるからです。

しかも日本人は、なるほど経済の成長は平成の30年間停滞したとはいえ、50年前と比べたら、若者の貧困とか言いますけれど、たとえば50年前なら、学生の下宿はトイレは共同だし、部屋にエアコンや冷蔵庫などなかったし、風呂は銭湯があたりまえでした。

自炊するにも、電気炊飯器を持っている学生など、ほとんど皆無で、誰もがお鍋でご飯を炊いたものです。

最近ではこの「お鍋でご飯を炊く」というのが、意外と炊飯器よりも美味しいということで見直されつつあるのだそうですが、それは炊くお米が新米だからで、50年前までは古々米が主流でしたから、鍋で炊くご飯は、あまりおいしいものではなかったりしたものです。

さて、問題の本質が、国民が稼いだお金が、海外に流出して不良債権化しているということにあるのなら、解決の道は自然と見えてきます。
お金を海外に流出させるのではなく、政府が国内で使用すれば良いということだからです。

こういうことを申し上げると、「箱物財政はけしからん」と、要するに海外流出金からキックバックをもらいたい人たちが騒ぎますが、そういう馬鹿者がいるから困るのです。

そもそも日本は災害大国です。
地震もあれば台風もやってくる。
津波もあるし、火災もあるし、疫病対策だって必要です。

原発の必要性は認めますが、すでに建設から60年以上経過し、コンクリートの耐用年数をはるかに越えてしまった原発が、いまや3分の2を占めます。

高速道路も、トンネルも橋梁も、その大半は前の東京五輪(1964年)前に築かれたものです。

やはり耐用年数を越えてしまっている。
つまり、全国のトンネルは、いつ崩落してもおかしくないし、地下鉄などの設備も、崩落の危険が日に日に高まっているのが現状です。
また、洪水が起きた時の地下鉄対策は、まだまだ端緒に付いたばかりです。

発電は水力発電に切り替えるべきという議論もありますが、水力発電に必要なダムは、ダムの後ろに必ずダム湖ができます。
そのダム湖は、年々、上流から流れてきた土砂が堆積し、日々浅くなっていきます。

だいたい、ダムを観たことがある方なら誰もが知っていると思いますが、ダム湖の水が透明で美しい水であるようなダム湖は、国内にほぼ皆無です。

どのダム湖も水が汚い。
汚いということは、その汚れが湖底に堆積するということです。

河川も同じです。
高い堤防を築いても、泥水が流れている現状では、川底は年々浅くなります。

これらに溜まったヘドロをすくうこと、また水を綺麗に保つようにしていくことは、すくなくとも現時点において、ほとんど行われていないことです。

そうした「災害対策のための国土強靭化」には、莫大なお金がかかります。

個人的には、年間100兆円くらいの規模で、政府が財政出動して国土強靭化を図るのでもちょうどよいくらいではないかと思います。

そうした工事に携わる人には、最低賃金を、日当5万円くらいにする。
つまり20日働いて月収100万円です。
その労働者を集めて働かせる親方は、月収1千万円くらいもらえる仕組みであっても良いと思う。

要するに現場(飯場)で3年働いたら誰でもベンツのAMGをキャッシュで買えるくらいにするわけです。
ただし、工事に手抜きがあったら、即、排除する。
二度と工事に戻ることはできない。

工事の入札も、ですから価格の安さではなく、工事の正確さ、丁寧さ、要するに質で決まるわけです。
それくらいの仕組みにしても良いと思う。

つまり、国富が国民にちゃんと還元できるようにする。
これらはいまの政治の枠組みでは、かなりの困難が伴うであろうことです。

けれどそれをしなければ、日本列島という災害の多い国で、国民が豊かに安心して安全に暮らすことができないのです。
なぜならよろこびあふれる楽しい国と災害対策国家は表裏一体の関係にあるからです。

日本は、神々の創生の昔から、国民の幸せを第一とする国のシステムを築いてきた国柄を持ちます。
ところがその日本型システムは、戦後GHQによって米国型システムに変更されてしまいました。
表面上は変わりません。
けれど、その根幹に変更が加えられてしまったのです。

このことをパソコンに例えるなら、OS(オペレーティングシステム《英: Operating System》)が変わってしまったということです。

しかし歴史が浅く、災害経験の少なく、平時を前提としたなかで、国際関係や自分たちの富だけを考え行動すれば足りる国と、毎年台風がやってきて、40年も生きていれば誰もが震度6以上の地震を体験する国とでは、その基本となるOSが違ってあたりまえです。

そしてOSそのものを変更するなら、ではもともとの日本の形がどうなっていたのかを、私達はしっかりと見極め、取り戻して行かなければならないと思います。

私は、その答えは日本の古典にあると思っています。
しかしその古典は、異なるOSのもとで、異なる解釈が加えられ、いまやただの絵空事にされてしまっています。

悪いことに、頭の良い学者さんほど、そうしたドグマに陥ってしまう。
これは、ひとむかし前に、頭の良い人ほど共産主義にひっかかったことと同じといえます。

ただの絵空事ではなく、真実を探る。
そこから新たな日本構築の手がかりを得る。
それは、いっけんすると、古いことをしているようでいながら、実は、本当に価値ある日本を築くということなのではないかと思います。

ねずさん

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