「鎌倉幕府の崩壊と児嶋高徳」

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日本は、建国以来の危機にあると言われています。
その日本を守り救うのは、我が国の歴史伝統文化の中に根付いてきた本来の日本の形を常識化することにあります。

ただ外国批判や、国内の一部政治勢力批判だけでは、決して国は変わらない。
古いものと新しいものを融合し、よりよい日本を築いていくこと。
そのために必要なことは、正しい知見であろうと思います。

戦前までは学校の教科書で紹介され、大楠公と並び称される忠臣として誰もが知る日本の常識でありながら、戦後はまったく存在自体をかき消されてしまった人に、児島高徳(こじまこうとく)がいます。

児島高徳は、鎌倉時代後期にあたる、正和元(1312)年、備前の国(いまの岡山県東南部)の児島郡の人です。

元弘二(1332)年、鎌倉幕府は、すでに財政が破綻状態に至っていました。

幕府というのは、いまでいうなら行政府の中心のようなものですが、行政が財政破綻に陥(おちい)ると、公共事業が全面的にストップします。

いまなら、上下水道のメンテナンスが行われなくなり、上水道の貯水タンクは掃除されなくなって、水が汚れ、汚れた水の検査も行われず、下水も排水処理が行われませんから、下水道がヘドロでふさがり、道路は補修されませんからデコボコ道となり、道路の白線もすり切れて消えたまま放置されます。

公営の病院も廃館となり、入院患者は放置されます。論功行賞も行われず、もちろん公務員の給料も払われません。公的サービスが停止しますから、年金や恩給も支払われず、公共工事も全面ストップ。警察も行政のうちですから、警察機能も停止します。

また、災害発生時の消防活動も停止、被災地への食料支援や、災害の復興工事も全面的に停止します。
いま日本のすぐお隣に、まさに財政破綻寸前の国がありますが、自業自得とはいえ、それはおそろしい事態です。

鎌倉幕府は、相続制度が源氏の制度そのもので、財産は子たちに均等配分するという仕組みでした。

当時の財産は「田んぼ」でしたから、田んぼを等しく分けるという意味で、これを「田分け」といいます。
「このたわけ者めがっ!」の「たわけ」です。

相続の均等配分制度は、いまの日本の民法の相続制度とほぼ同じものですが、この制度のもとでは、いかなる大金持ちであったとしても、7代経過すると、誰もが貧乏になります。

鎌倉時代でいえば、広大な田んぼを分割相続を繰り返せば、最後には相続した田んぼでは、飯を食べていくことができない耕地面積になってしまう。

財政破綻にひんした鎌倉幕府は、そこで何度か徳政令(とくせいれい)を強行し、御家人達の借金をゼロにします。
しかしこれは今風に言うなら、御家人たちを強制的に全員自己破産させるようなものですから、御家人は社会的信用を失い、いっときは借金から免れても、次にはもっと生活が苦しくなります。

そして御家人達の生活破綻は、実はそのまま御家人達が行う庶民への行政サービスの停止を招きます。

そこに大地震が起こります。

しかし災害が発生しても、御家人にも幕府にも、被災地支援を行うための財政の裏付けがありません。
結果、庶民の間に飢饉が起こり、多くの人が死に至ります。
ところが人が死んでも埋葬する行政サービスが機能していない。
すると街中いたるところに、腐乱屍体が転がり、その屍体を媒介にして伝染病が蔓延(まんえん)します。

ますます多くの人が亡くなるわけです。

こうした事態を受け、ひとり立ち上がったのが第96代後醍醐天皇です。
「もはやこれ以上、財政破綻に陥った幕府に政治を委ねるわけにはいかない!」

後醍醐天皇は、倒幕のための準備を進めていきます。

ところが後醍醐天皇は、ひとつ大きな問題を抱えていました。
それは実は後醍醐天皇よりも、もっとずっと前の第88代後嵯峨天皇の時代のことです。

もともと皇統は、第41代の持統天皇の時代に、もっとも霊統の濃い男系男子の長子が、機械的に次の天皇になると決められていたのです。

これは、皇位をめぐって血で血を洗う争いが起きないようにするためです。

ところが鎌倉時代、源氏の将軍が頼朝、頼家、実朝の三代で絶えてしまったため、4代将軍、5代将軍と摂関家である藤原家から将軍を向えていたのです。

これを「摂家将軍」といいます。

ところが次の6代将軍を決めようということになったとき、幕府の北条時頼が、次の将軍として、後嵯峨天皇の長男を要求したのです。
こうして生まれた将軍のことを「宮将軍」とか「一品(いっぽん)将軍」といいます。

「一品(いっぽん)」というのは、御皇族に対してのみ与えられる律令制のもとでの最高位です。

ところがこのことは、「霊統上位の長男が次の天皇となる」という古代からの慣習を破り、その(本来天皇になるべきはずの)長男が、鎌倉将軍職に下るということを意味します。

次の天皇は、もちろん次男の後深草天皇です。
ということは、次の次の天皇は、後深草天皇の子という順番になるはずです。

ところが、そうなると鎌倉に下った長男は面白くない。
なぜなら自分の子が、本来なら天皇になるはずだからです。

その怒りを逸らすために、後深草天皇の子にあとを継がせず、後深草天皇の次の将軍には三男の亀山天皇が即位します。
しかし、そうなればなったで、ではその次の天皇に誰がなるかが問題になります。

鎌倉将軍となった長男の子か
次男の子か(これを持明院統といいます)
三男の子か(これを大覚寺統といいます)

結局、話し合いの結果、以後の天皇は持明院統と大覚寺統で、交互に皇位に就くということで、とりあえずの決着をみるのですが、さらにそのまた子(つまり孫)の世代になると、皇位継承権者が、今度は4人に増えてしまうのです。

これは次の世代では、8人、その次には16人。
順番に皇位を交互に継ぐとはいっても、これはおよそ不可能なことになります。

もともとそういう問題を抱えているところに後醍醐天皇がおいでになったわけです。
後醍醐天皇は、上の三男の血筋、つまり大覚寺統です。

後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の協議は、通報があって六波羅探題に知られるところとなり、関係者は全員逮捕、後醍醐天皇は隠岐の島に流罪、次の天皇は、幕府の推薦によって光厳天皇が即位されます。

しかし、
これもまた問題だったのです。
そもそも後醍醐天皇は、我が国のスメラミコトであり国家最高権威です。
その最高権威を、天皇の臣下である将軍が逮捕し流罪にしてしまったわけです。

「これはとんでもないことだ!」
と怒る武士たちがいたのです。

そのなかのひとりが児嶋高徳で、児嶋高徳は隠岐島に流罪となって護送される後醍醐天皇をなんとか奪回しようと、二百の決死隊を率いて護送団を追うのです。

けれど護送団がどうしても見つからない。
そこで児島高徳は、せめて志だけでも伝えようと、杉坂峠の天皇の宿所の庭の桜樹の幹を削って、十字の詩を書きました。
それが、

天莫空勾践
時非無范蠡

という漢詩です。

意味は、「天が古代中国の越王・勾践を見捨てなかったように、このたびのことでも范蠡の如き忠臣が現れて、必ずや帝をお助けする事でしょう」というもので、この話は忠臣児島高徳の故事として、戦前は学校の教科書でも紹介され、日本人なら誰もが知る「日本の常識」となっていました。

文部省唱歌もあります。
尋常小学唱歌第六学年用に掲載されているもので、

♪ 船坂山や杉坂と、
御あと慕ひて院の庄
微衷をいかで聞えんと、
桜の幹に十字の詩

天勾践を空しうする莫れ。
時范蠡無きにしも非ず

とっても難しい漢字がいっぱい使われている歌詞ですが、こうした歌が唱歌として歌われ、小学生でさえ、その意味をちゃんとわかっていたというのは、実にすごいことだと思います。

現代のゆとり教育とはずいぶん違う。

大切なことは、子たちに単に漢字の意味がわかるかわからないかということではなく、こうした歌を幼いうちに覚えれば、長じてその意味がわかるようになったときに、社会の役に立つ、まさに「大人になる」ということです。

そのときに意味がわからなくても、ずっと後年になって意味がわかるということは、数多くあるものです。

児島高徳の漢詩にある勾践(こうせん)というのは、中国の故事に出てくる越王のことです。

勾践は、古代中国の春秋戦国時代の越王で、隣国の呉の王の闔閭(こうりょ)を破ります。

闔閭の子の夫差(ふさ)は、お家再興を誓い、毎日寝苦しい薪(たきぎ)の上に寝て、悔しさを忘れないようにしました。
これが「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の「臥薪(がしん)」の逸話です。

そして再起した呉王の夫差は、見事、越王勾践を会稽山(かいけいざん)で打ち破ります。

敗れた勾践は、愛する妻を夫差に妾(めかけ)として差し出すという屈辱を受けます。

このときの悔しさを忘れないようにと、「勾践」は野良仕事の毎日の中で、いつも苦い「胆」をそばにおいて、これを噛み、「会稽山の恥を決して忘れない」と誓い続けます。

そして努力を重ね、ついには夫差を滅ぼす。
これが「臥薪嘗胆」の「嘗胆(しょうたん)」の逸話です。

勾践には、信頼する部下がいました。

それが范蠡(はんれい)で、范蠡は、敗戦の屈辱を受け、何もかも失った越王勾践に富めるときも貧しいときも常に変らぬ忠誠を誓い続けて勾践を守り続けます。
そして勾践が決起したとき、見事夫差を討ち滅ぼしています。
この逸話が、

「会稽(かいけい)の恥をすすぐ」という忠臣物語です。

つまり児島高徳は、自分を「范蠡」になぞらえて、自分の気持ちを後醍醐天皇に伝えようとして、上の漢詩を書いたわけです。
ところが桜の木に書かれたこの文字を見つけた鎌倉の後醍醐天皇護送団は、誰ひとり、詩の意味がわからない。

実際はどうだったのかはわかりませんが、『太平記』は、後醍醐天皇を支えた反鎌倉方の忠臣となった武士たちを、非常に教養の高い武士たちとして描写しています。

おそらく、我が国が天皇の知らす国であることを、教養として身に付けているのかいないのか。

そのことが、後々の世まで影響する大事であるという基本認識のもとに『太平記』が書かれているからであろうと思います。

いま日本は、建国以来の危機にあると言われています。
その日本を守り救うのは、我が国の歴史伝統文化の中に根付いてきた本来の日本の形を常識化することにあります。

ただ外国批判や、国内の一部政治勢力批判だけでは、決して国は変わらない。

古いものと新しいものを融合し、よりよい日本を築いていくこと。
そのために必要なことは、正しい知見であろうと思います。

ねずさん

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