「日本を取り戻すために必要なこと」

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能力と行為が再検証され、新たな行為に向けて能力が育成されて、その能力が最大限に発揮されたとき、新たな世界が広がります。

そのために必要なことは、日本の原点と原型がどのようなものであったのかを再確認していくことにあるのではないでしょうか。家の建替えと同じです。いまの家が老朽化したからと批判や文句ばかり言っていても何も変わらないのです。

今の日本の現状を憂う人はたくさんおいでになります。
あきらめている人もいます。
憂いを訴える人もいます。
危機だと訴える人もいます。
いまの日本が、どれだけ危険な情況にあるのかの情報を拡散しようとする人もいます。

そうすることで問題意識を共有化し、なんとかして日本を少しでも住みよい、良い国にしていこうとしています。

10年前の2009年に日本の心をつたえる会を立ち上げた頃もそうでした。
この年の8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙で、民主党が政権第一党になり、鳩山由紀夫内閣が誕生しました。
「もう時間がない。立ち上がろう!」当時、よくいわれた言葉です。

けれどあれから10年。
民主党内閣は、3年で政権の座を失い、自公連立政権の時代となり、安倍内閣は憲政史上最長内閣となったけれど、では日本は、良い方向、日本人にとって、日本が住みよい国に、災害に強い国になったかと問えば、みなさまの答えはいかがでしょうか。

ひたすら危機を訴えても、議論になるのは盛り蕎麦かかけうどんか、あるいは桜を見るのは違法なのかといった、愚にもつかない議論ばかり。
日本をとりまく外交上の危機、日本の産業の活性化、人々の所得の増加といった目先の問題のみならず、これからの高齢化の時代を、日本はどのように乗り越えていくのか、その高齢化の時代とともにやってくる人口減少の時代において、日本がどのようにして産業を守り、日本人の所得を増やし、福祉を充実させていくのか。

教育をどのようにしていくのか。

そういった本来、国政で行われるべき議論は、まるでほったらかしといっても良い情況が続いています。

「だから野党が悪い」という人もいます。
しかし国会というのは、国民の縮図です。
国民の民度が低ければ、国会のレベルも低くなるのです。あたりまえのことです。

このことは、お隣の国の国会を見れば一目瞭然です。
しかも日本の民度は、段々にお隣の国に近づいているどころか、人によってはそれ以下に落ちているという人もいます。

はたしてこれからどうしたら、子や孫に、少しでも良い時代を、すこしでも良い未来をのこしていくことができるのでしょうか。
それは、子や孫を持つ世代にとって、本当は自分が生きること以上にたいせつなことといえるのではないでしょうか。

企業にたとえてみます。
たいてい、どの会社においても、会社の現状を憂いて、「このままじゃダメだ」と仰る人がいるものです。

では、会社が、そういう現状憂い型社員ばかりになったら、その会社はおおいに発展するのでしょうか。

このことが投げかける問題提起は深刻です。
現に、国政においては、問題提起や危機を訴える活動ばかりが目立つからです。

では、会社を発展させ、社員の給料を倍増させるためには何が必要でしょうか。

「いまだって努力しているのに、いきなり倍にしようなんて無理だよ」と思う方がおいでかもしれませんが、平成年間が始まった頃、日本人と米国人の年間所得は、ほぼイーブンでした。

そして電気ガス水道光熱費や、ガソリン代などの社会インフラのためにかかる費用は、米国は日本の半分以下でした。
つまり同じ所得であっても、米国の方が日本よりも実質所得が高いという情況にありました。

ところがそれから30年。
いまでは日本人と米国人の年間所得は、3倍の差になりました。
日本人の平均所得が下がり、米国が右肩上がりを続けた結果、所得そのものが米国人は日本の3倍。

しかも社会インフラにかかるコストが低い分、米国のほうが日本よりももっと暮らしやすい国になっています。

チャイナはどうでしょうか。
チャイナの2001年の平均年収は193万円でした。
ところが2015年には、それが748万円です。

富裕層と呼ばれる人たちの人数は日本の3.5倍、年収は日本の総理よりも多い2900万円以上です。
日本はどうでしょうか。

良い悪いではなく、これが現実の結果です。
そしてこうした結果がありながら、国会で議論されるのは、桜の花見に寿司が出たのか出なかったのか・・・。

結果というものは、行動から生まれます。
行動があるから結果があるのです。
そしてはっきりといえることは、この20年の日本の行動がもたらした結果が、これであるということです。

では、どうしたら、日本はもっと豊かになることができるのか。
災害が発生しても安心して暮らせる国になるのか。
老人が外国人に殺害されてタンス預金を奪われ、若い女性が拉致され、それこそ性奴隷にされるようなリスクの起こらない国にすることができるのか。

これが日本人のニーズです。

そのニーズを満たすために、では何が必要なのでしょうか。
それは行動を変えることでしょうか。
野党が愚にもつかない質問とやらを繰り返すことを法で規制すれば、問題は解決するのでしょうか。

イソップ物語に、金の卵を産むガチョウの物語があります。
物語では、欲をかいたおじさんが、ガチョウの胎内にきっと黄金が詰まっているに違いないと、ガチョウを殺してしまって、すべてを失うというお話でした。

では、金の卵を、ガチョウにもっと産んでもらうためには、おじさんはどうしたら良かったのでしょうか。

ガチョウを可愛がり、ガチョウを大切に育てることであったということは、誰にでもわかる簡単な答えです。

そしてこのことは、成果を手中におさめたいのなら、成果を出すための能力の維持と増加を図らなければならないということも同時に教えてくれています。

このことを、パフォーマンス(Performance)と、パフォーマンス・カパビリティ(Performance Capability)のバランスと言います。
日本語で言えば、行為と能力のバランスです。
行為を良くするためには、能力を増強しなければならないということです。

会社に例えるなら、社員の資質が向上し、社員ひとりひとりが持つ能力が十二分に発揮できる情況を築き、さらにこれまでの行動を大きく変え、企業成果を飛躍的に向上させることができるだけの人材を育成することです。

そしてそのために必要なことはパラダイムの転換です。

パラダイムというのは、認識の枠組みということです。
ベビーブームのときに、ベビーカーを作っていた会社は、飛躍的に発展することができました。

けれど少子化の時代になると、需要が落ち込み、次々とそうした会社は倒産に追い込まれました。

ところがある会社では、それまでに蓄積されたベビーカーのノウハウを利用して、老人向けのカートを造りました。
これが大ヒットとなりました。

自分たちの会社が、ベビーカーの会社だという認識の枠組みだけなら、年々縮小する市場規模の中にあって、生き残りは難しかったことでしょう。

けれどその会社が、市場構造の高齢化という市場ニーズに気付き、あらためて「自分たちの会社には、より良いカートを作ると技術がある」というように認識の枠組みを変えたときに、それまでとはまったく異なる分野で成功の機会を得ることができたわけです。

これが、いわゆる「パラダイム・シフト」とよばれるものです。
日本語に訳せば「認識の枠組みの更改」です。

要するに、能力と行為が再検証され、新たな行為に向けて能力が育成されて、その能力が最大限に発揮されたとき、新たな世界が広がるわけです。

おなじことを日本という国家にあてはめるならば、日本の持つ能力と、日本の行為が再検証され、新たな日本の進むべき行為にむけて、日本人の能力が最大限に発揮できるようになれば、日本は必ず復活することができる、ということになります。

そのために必要なことは何かといえば、最大の課題は、日本という国の持つ歴史伝統文化の再検証であり、日本人としての誇りと自覚の覚醒、それによる日本の行為の再検証、ということになります。

家の建替えと同じです。

いまの家が老朽化したからと批判や文句ばかり言っていても何も変わらないのです。

また気象風土の異なる国や地域の家がどんなに素晴らしいものに見えたとしても、災害が多くて高温多湿の日本で、そうした家屋が通用するかは、また別な問題です。

つまり日本には日本の風土に合った家でなければ、結果としてそれは危ういものにしかならない。

文化も同じです。

その国には、その国の長い歴史伝統文化に育まれた歴史があります。
とりわけ日本では、何千年も前から続いた実績ある文化が現実に存在し、その文化性はいまなお生きています。

そうであれば、日本を変えるその原動力となるものへの答えもまた、歴史や伝統、文化の中にありそうです。

ところがそういう意味であらためて日本の歴史伝統文化をおさらいしてみると、これがとんでもない事態になっています。

百人一首の名歌の数々は、いずれもお色気ものの、まるで三流のエロ週刊誌のような解釈がまかり通っているし、古事記は大切でおもしろいというから本を読むと、天宇受売(あめのうずめ)という日本女性の高い地位の象徴(神々のお声を直接お伺いできるのは女性神である天宇受売神だけ)は、天の岩屋の前でまるでカンカン踊りでもしたかのような下品な存在として描かれている。

万葉集は令和の元号のもとにもなった素晴らしい書といいながら、その中身を見ると、実弟の妻を、美人だからと、子供までいるのに兄貴が奪い取ったとか、偉大な女性天皇が実は傲慢不遜な女帝だったとか、もうめちゃくちゃとしかいいようのない解釈がまかり通っています。

そして最悪なのは、そのまかり通った誤った解釈に基づいて、そこから更に妄想を膨らませて、さらにそれらを貶める、はたしてそれを努力と読んでいいのかどうかわかりませんが、そういう努力が何十年も払われ続けてきているわけです。

ねずさんが、古典をはじめたのも、実はそこにひとつの理由があります。
日本が立ち戻る、つまり日本にもとからある能力と行為を再検証し、日本人が日本人としての能力を最大限に発揮できるようにしていくためには、日本の原型がどこにどのようにあったのかを再確認していかなければなりません。

そして日本の国柄が形成されたのは、外圧を前に日本を立て直そう、そして新たな未来を築こうとした7世紀と、19世紀の明治維新です。

このうち、明治維新については、つくる会などで、多くの先生方が再検証を行っていますが、7世紀については、その時代に、神話が整理統合され、漢字と仮名を併用する新たな文化が生まれているにも関わらず、いまだちゃんとした解析が行われていません。

そして今般、百人一首の解析で得た大和言葉の認識方法と、古事記の再解釈で得た原文の漢字から読み解く手法の積み上げを経て、漢字で書かれた万葉集を原文から読み解くという機会を得ることができました。

その結果得ることができた事実は、これはもうひとことで申し上げることができないくらいの、凄みを持った万葉の世界です。

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