「韓国の厚顔、新羅の厚顔」

画像の説明

日本に不実を重ねていながら、ちょっと経済的に困ると、平気で「スワップしてちょうだい」と言ってくる厚顔ぶり。実はいまに始まったことではなくて、1400年前からまったく変わらぬ彼の国の姿です。

660年の百済滅亡の際、貞操を守って死を選んだ百済の宮中の女官たちが、落花岩から錦江に身を投げたときの模様が描かれています。
皐蘭寺は、身投げした宮女達の魂を慰めるために建てられたお寺です。

その身投げの様子が、まるで花びらが断崖から舞うようだったということで、岩場に付いた名前が落花岩です。
サイパン島の玉砕の際のバンザイクリフと同じことが、1400年前にも起きていたわけです。

この絵の向かって右端には、そうした女官たちを追い落とそうと攻めてきた敵軍の様子が描かれています。
その敵軍は馬に乗り、剣を振りかざしてやってきています。

ご覧いただくと、兜(かぶと)に特徴があります。
頭頂部に突き出た突起物があります。
この兜の突起物は、唐の軍に、新羅の軍にもあるものですが、大きな違いは、唐軍のものは全金属製、新羅の突起は布製です。
絵は、明らかに金属突起ですから、この絵に描かれている敵方の軍隊は、唐の軍隊である可能性が高いといえます。

つまり、百済落城の際の戦いは、「唐と新羅の連合軍が百済を攻め滅ぼした」のと一般に言われていますが、絵を見る限り、攻めているのは唐軍であって、新羅ではないのです。
ここにも1400年前も現在も、何も変わらない半島の特徴があります。

半島人は、日頃は日本人と比べて、ガタイも大きいし、態度も大きいし、すぐに威張るし、日頃はニコニコしていても、ちょっと凄(すご)むと、本当にヤクザ屋さんのように恐ろしい人に早変わりするし、そうなったときの彼らは、本当に目の前にいる人をコロシかねないような凄みがあります。

つまり、怖い人達です。

ところがいざ戦いとなると、彼らは先の大戦のときもそうでしたけれど、敵が攻めてくると、すぐに「哀号(あいごう)」と叫んで銃を放り出して四散してしまうのです。

ですから正規の戦いのときに使えない。

日常の生活においては、普通の人なら誰だって人と争いたくないし、仲良くしたいし、揉め事は避けたいものです。
ですから多少、言い分があっても、ぐっとこらえて周囲に自分を溶け込ませようとします。

ところが彼らは、そうした平時において、すぐに凄んで、相手を恫喝し、自分の言い分を通そうとします。
突然、キレて大声を張り上げたり、手を出したりするわけですから、そういう意味では怖い人たちです。
ひとことでいうなら、それは「不良」です。

戦いの勝敗を決するものは、責任感です。
ハイスクールで、昔の不良の番長グループは恐ろしい人たちでした。
しかし、本当の戦いには、彼らは使えないのです。
なぜなら不良だからです。

不良には責任感が欠如しています。
そして責任感のない者は、戦(いくさ)には使えないのです。

このことは、誤解をしている人が多いようなので、わかりやすく例えると、宇宙戦艦ヤマトです。

昔の西崎義展プロデュースの宇宙戦艦ヤマトのたとえば「愛の戦士たち」の物語は、いまから見れば、絵も古いしダサいです。
けれど、どんなに追い詰められても、ヤマトの乗組員たちは、決して職場放棄をすることなく、逃げることなく、最後の最期まで持ち場をまもって勇敢に戦い続けます。

どこまでも真面目なのです。
それは持ち場を護るという責任感の発露です。

ところが10年ほど前に、そのヤマトの実写版ができ、またアニメも映像をとても美しくしたものが公開されました。
ストーリは元のままです。
けれど全然ヒットしませんでした。
当然です。

主人公の古代君にしろ、森雪にせよ、主な登場人物が特別な才能のあるただの不良として描かれているからです。
アニメの沖田艦長に至っては、ただ威張っているだけの人になっています。

わが国の人たちは、特別な才能がいくらあっても、責任感の欠如した者は戦えないことを、本能で知っているのです。
けれど日本人のような顔をしていて日本語を話し、日本国籍があるのかないのかよくわからないような人たちには、そこがわからない。

だから才能ある不良を「かっこいい」と思う風潮があるようです。
しかし現実には、いくらかっこよかったとしても、不良は不良です。
最先端兵器の部品に不良品があったら、実戦で役に立たないのと同じで、現場に不良がいたら、戦いは無理です。

話を戻します。
もともと半島にあった高句麗、新羅、百済は、いずれも倭国に朝貢をしている倭国の部下の国でした。
なぜ部下になったかといえば、神功皇后の三韓征伐があったからです。

部下となった国は、宗主国(この場合は倭国)に毎年、朝貢の使者を送らなければなりません。

ところが高句麗の朝貢の使者を、新羅が襲って、使者が持っていた朝貢の品々を奪うのです。
この事件がきっかけとなって、雄略天皇の時代に、再び新羅征伐が行われます。

戦いが始まれば逃げるのが彼らの常套手段です。
結局、新羅王は捕まり、二度と倭国に歯向かわないことを誓うのですが、それにしても度重なる不逞行為です。
信用できない。

そこでこのときに、新しくはじめられた手法が、
「国王の跡取りの王子を、倭国に人質に出す」
という制度でした。
国王が、倭国に牙を向ければ、王子が殺されるのです。
するとその国は跡取りがいませんから、国が滅ぶことになります。

これはたいへんに効き目のある(実効力のある)方法となりました。
そしてこの手法は、そのまま源氏や平家が周辺豪族を従えるときの手法として受け継がれ、それがモンゴルの大帝国の制度として引き継がれ、さらにモンゴル以後には、ヨーロッパの王国において、貴族の跡取り息子を王宮の近衛兵としてお城に置いて、貴族が外地で裏切ったら、即その子を殺すという方法で受け継がれました。

その意味では、たいへんに大きな世界的影響を与えたアイデアであったといえます。

この王子を人質に出すという習慣について、百済は二つ返事でこれを受け入れました。
問題の新羅も、渋々ながら、受け入れました。
ところが高句麗は受け入れを拒みました。

なぜ拒んだかの理由は明白です。
王子を人質として倭国に出すには、新羅の領土を通過しなければならないのです。

ところがその行列が、いつ新羅によって襲われるかわからない。
ですからあまりにリスクが大きすぎて、おいそれとは案を受け入れることができなかったのです。

しかし王子の提供を拒むということは、高句麗は倭国という後ろ盾を失うことを意味します。

そこで高句麗が行ったことが、徹底的な国内の軍事力の強化でした。
これは当然のことで、後ろ盾がないということは、どこまでも自国の存続のためには、自国が強くなければならなかったからです。

中原(ちゅうげん)に隋が誕生したとき、隋は度重なる高句麗との戦闘で疲弊し、わずかな期間で滅んでしまいます。
そこまで高句麗が軍事強国となっていたのには、こうした背景があったのです。

ここまでの流れからすると、新羅が悪者、百済は良い人たちという感じがするかと思います。
ところがその百済も、倭国の朝廷の高官に賄賂を送って、当時の半島南部の倭国の直轄地を、勝手に百済の領土に取り込んでしまうというデタラメをしています。

ことがバレて、天皇がたいへんにお怒りになり、そのため「ごめんなさい」とばかりに百済が倭国に贈ったのが、唐の高僧と、唐の仏像と、唐の仏教経典です。

これがいまでいう「仏教伝来」です。

「仏教伝来」というと、なにやら文化の高い百済が、低い文化の倭国に「仏教を教えてやった」ものだとする説がありますが、とんでもない大嘘です。

そもそも百済は倭国の属国です。
しかもお詫びのためにと贈ったのが、いずれも唐のものであるということは、百済単独では、倭国に誇れる財物が一切なかったということです。

歴史とは、皮肉なものです。
倭国からの信用を失った百済に、新羅はその後もちょくちょくと百済にちょっかいを出しては、百済の領土をすこしずつ簒奪していきました。
これは真正面からの戦争ではなく、まるで暴力団がシマを広げるような手法での侵食です。

結局気付いたときには、百済のもともとの領土はほぼすべて失われ、百済の領土は、以前、倭国から賄賂で奪った土地だけになっていました。
地図で見るとき、滅ぶ前の百済が南下しているのこうした事情によります。

ところがその時点で百済が持っていた領地は、元の倭国の直轄地です。
そしてここに住む住民たちは、自分たちは倭人であるからと、百済への税の支払いを、まる100年、拒み続けていいました。
彼らは、登記上の土地の所有が百済になってしまっていたにも関わらず、税は倭国に進んで収めていたのです。

これが何を意味しているかというと、百済の王室がものすごく貧しくなり、兵の動員力も失われていたということです。

ちなみにこの時代の税は、現代日本における税とは意味が異なります。
税は基本的にお米ですが、収めたお米は災害時の備蓄食料として役所によって2年間保管され、万一の飢饉のとき、備蓄米だけでは食料供給が不十分となったときには、役所が別な豊作だった地方のお米をその地にまわしてくれることによって、被災地の人々は、いざというときには、自分たちが収めたお米以上のリターンをもらえるという仕組みです。

つまり税は、そのまま、いまでいう万一の災害保険の意味合いがあったわけで、災害保険をかけるなら、誰だって、信用のある、しっかりとした損保に保険金を払います。

つまり嘘つき百済は、民衆の眼からみても信用できなかったのです。

このあたり、実は新羅と百済の国柄の違いにもなっていて、
百済政府は暴力的ではないけれど嘘つき。
新羅政府は暴力的だけれど支払いは良い。
という違いがあったようです。

さて、こうした状況のもと、中原にある唐は、隋を滅ぼした高句麗を征伐するために、お得意の「遠交近攻」戦略を行使します。
高句麗の反対側にある新羅に唐の兵を送り、高句麗を北と南から挟み撃ちにする戦略です。

しかしそのためには、百済を先に滅ぼしておく必要があります。
そこで唐は、(形の上でだけは)新羅とともに、百済に攻め込み、百済を完全に滅ぼします。
このときの絵が、冒頭の皐蘭寺の壁画に描かれています。

正面に出てきて戦いを挑むのは唐軍です。
ただし、勝敗が決した後に出てきて、女性たちを蹂躙するのは新羅兵です。

それがわかるから、百済の王宮の女官たちに遺された道は、崖から飛び降りることだけだったわけです。

滅んだ百済を復興するために、倭国は兵を半島に出兵させました。
まる三年戦って、百済の復興はないことが確認されました。
そもそも百済を復興してほしいから、なんとしても倭国から兵を出してくれと言ってきた百済の豊璋王子(ほうしょうおうじ)は、そくさくと前戦を放棄して、高句麗に逃げてしまったのです。

これでは意味がないからと、倭国は半島からの撤兵を決意。

唐の水軍の見守る中、白村江から倭国に兵を引き上げようとしたときに、いきなり倭国と唐の両軍に火矢を射掛けて、この両軍を大混乱に陥れたのが、新羅です。

こうして新羅は、百済を得、続いて唐軍の力を借りて高句麗を滅ぼし、半島全域を手に入れました。
けれど、それは新羅の努力ではなく、唐軍の奮戦によるものです。
唐は、ついに怒り、新羅征伐を決意します。

ただし、このときもお得意の「遠交近攻」戦略です。
半島全域が新羅のものになったということは、その新羅の後背地にあるのは倭国です。
ですから唐は、倭国に使いを送り、「一緒に新羅を攻めよう」と持ちかけます。

ところがこのとき事件が起こりました。
なんと、新羅までもが、
「唐が攻めてくるので、倭国に助けてもらいたい」
と、倭国に救援を求めてきたのです。

そもそも、新羅がちょこまかと悪さをするから、半島で大きな戦いが起こったのです。

唐を招き入れたのも、新羅です。
そしていざ戦いが始まると、自分たちは逃げてばかりで、常に唐軍の傘の下に隠れていたのが新羅です。

戦いを終えて倭国が引き上げようとすると、いきなり倭国と新羅両方に火矢を射掛けて、両軍に多大な損失を負わせ、このときに1万人もの倭国兵の若者の命が奪われています。
それだけのことをしでかしておいて、倭国に救援要請を、平然ともちかけてくる。

まったく恥という概念がない。
常にご都合主義なのです。

このことは、唐にとっても、おどろくべき恥知らずであって、倭国と唐の戦いが終わると、新羅はちゃっかり「半島全域は新羅のものだ」と、のたまうわけです。

これには唐もびっくりで、ついに唐は新羅を攻める決断をするわけです。

いまでも、あれだけ日本に不実を重ねていながら、ちょっと経済的に困ると、平気で「スワップしてちょうだい」と言ってくる厚顔ぶりですが、それはいまに始まったことではなくて、1400年前からまったく変わらぬ彼の国の姿です。

みなさんがこのときの倭国の政治責任者ならどのように決断されるでしょうか。

唐と一緒になって、嘘つき新羅を攻めれば、朝鮮半島南部の元の倭国の直轄地くらいは取り戻せるかも知れません。
けれど、そうなればなったで、今度は倭国が唐の正面に出ることになります。

つまり唐と倭国の戦いが始まることになります。

当時の倭国の施政者の答えは明確でした。それは、
「唐にも新羅にも味方をせず、どちらの援軍要請にも応じない」
というものでした。

そもそも倭国は争いを好みません。
それにこれまでの経緯から、もう半島と関わることはまっぴらごめんだったのです。

ねずさん

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