「脅威は常に大陸発、半島経由」

■1.世界で冷笑される韓国「狂乱」外交

最近の韓国外交の「狂乱」ぶりには、呆(あき)れ果てた日本国民も多いだろう。武器への転用が可能な戦略物資の横流しが疑われる事案が多発していることから、アジアで唯一の「優遇国」待遇(ホワイト国指定)から外す、という措置を日本政府が発表すると、WTOのルール違反として(世界貿易機関)に提訴すると脅した。

「優遇」を外されると提訴する、という論理は国際常識からして理解不能であるが、WTOで相手にされないと今度は報復として韓国側も日本をホワイト国から外すと発表。WTOルール違反だと訴えた内容を、自国でやり返したわけである。さらに、それだけでは足りないと思ったのか、防衛秘密を共有する軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄まで決めた。

二つの報復措置とも韓国側にダメージが大きいと言われている。特にGSOMIA破棄はアメリカが強く懸念を表明していたもので、トランプ政権もいよいよブチ切れてしまうかも知れない。

こうした韓国の動きに、他国も呆れているようだ。

欧州も、東南アジア諸国も、残念ながら、韓国が関係のない国際会議においても、所構わず日本批判をし、必死で支持を得ようとしている姿を冷笑し、そして、外交的な常識がない国との見方を固めています。[1]

■2.門前払いされたハーグの密使たち

「外交的な常識のない国」というのは、今に始まった事ではない。近現代史をたどれば、それが韓国の本性であることが分かる。

例えばハーグ密使事件がある。明治40(1907)年6月に、オランダのハーグで開かれていた第二回万国平和会議において、日本によって奪われていた外交権回復を訴えるべく、3名の密使が国王の親書と委任状をもって会議に参加しようと画策した事件である。

国王の親書と委任状は、平和会議の主唱者であるロシア皇帝ニコライ2世宛てであったが、ロシアは日本の天皇陛下あての万国平和会議への招聘状を持参しなければ参加を許すことはできない、と門前払いした。次いで密使たちは主催国オランダの外務大臣に会って会議参加許可を懇請しようとしたが、外務大臣は日本公使の紹介がなければ引見できないとして、面会すら拒否した。

他の各国代表からも、韓国の使者3名に参加の機会を与えるべしとの意見が出ることはなかった。要は、すべての国から、密使たちは黙殺されてしまったのである。

各国の態度は、当時の国際状況から言えば当然であった。ロシアは日露戦争後に結ばれたポーツマス条約で、韓国における日本の優越権を認めていた。

また、アメリカは日本と結んだタフト協定で、韓国とフィリピンにおける双方の支配を承認していた。イギリスとは日英同盟の改訂の中で、韓国に対して日本が「指導、監理及ビ保護ノ措置」を採る権利を承認していた。米英露という世界の大国が、韓国は日本の保護国であると認めている以上、他の国々も「右へ倣え」をするのが当然だった。

弱肉強食の帝国主義が支配する国際社会で、弱小民族が生き延びるためには、大国内の少数民族、あるいは保護国になる事が最善の選択だった。長らく中国の属国に甘んじ、それからロシアの支配下に入りと、日清・日露戦争の火種を作った韓国が、今さら将来の見通しもないままに「日本から外交権を回復したい」などと夢想を訴えても、聞いてくれる国はなかった。

ハーグの密使たちの行動は、現代の韓国が「関係のない国際会議においても、所構わず日本批判をし」て「冷笑」され「外交的な常識がない国」と見なされている姿に重なってしまうのである。

■3.条約を破りと、すぐにばれる嘘を平気でつく
 
もう一つ、ハーグ密使事件と今回の日韓紛争との共通点は、韓国が条約を平気で破る信義のなさである。当時韓国が日本と締結した第二次日韓協約では、日本政府が1名の「統監」を京城(ソウル)に駐在させ、「外交ニ関スル事項ヲ管理スル」と定めていた。

初代統監・伊藤博文は、ハーグ密使事件を日韓協約の明らかな侵犯であり、日本に対する公然たる敵意を露わにしたもので、その責任はまずもって国王高宗にありとする旨を首相・李完用を通じて通告した。

しかし国王は事件については「朕の与(あずか)り知るところに非ず」と弁明した。伊藤は「もはや虚言を弄して取消すべきにあらず、ハーグに於て陛下の派遺委員は委任状を所持することを公言し、かつ新聞紙上に日本の対韓関係を誹謗(ひぼう)したる以上は、彼等の陛下より派遺せられたることは世界の熟知する所である」と述べた。[2, p159]

伊藤の怒りに韓国の宮廷は狼狽し、使いを派遣して弁明に努めたが、伊藤は沈黙で答えた。韓国の内閣は善後策を検討し、取り得る手段は国王の譲位あるのみ、と奏上した。国王がこの奏上を退けたので、宮廷はさらに困惑し、伊藤に直接、国王を説得するよう依頼までした。

伊藤は国王には会ったものの、「かかることは韓国皇室の決すべきことで国王の臣下ならざる自分がその是非を云々する立場にはない」と言い残して王宮を後にした。国王はついに翻意して皇太子・純宗に王位を譲った。

条約を結びながら、公然とそれを破るような行為をとった点。しかも、そんな事をしたら日本側が怒ると予想もしていなかった点。日本側に問い詰められると、皇帝が「自分は知らない」とすぐにばれるような嘘をついた点。こういう外交音痴ぶりは、現在の韓国政府そのままである。

■4.中央アジア的暴力は必ず朝鮮半島を経由してやってくる

日本にとっての問題は、このように信頼できない隣国とどう付き合ったら良いのか、という事である。特に、その国が我が国の安全保障上、重要な要衝であるとしたら。

文明史的にユーラシア大陸を見れば、その中央部に生まれた遊牧民族が周辺を侵略するというパターンの繰り返しだった。蒙古の大船団が日本を襲い、騎馬軍団が東ヨーロッパにまで侵入した。

梅棹忠夫は『文明の生態史観』の中で、ユーラシア大陸の中心部から生まれる勢力を「中央アジア的暴力」と呼んだ。それは近代においてはロシアや中国の軍事的圧力として、日本を圧迫した。その際には、必ず朝鮮半島を経由して日本に迫ってくる。

日清戦争も日露戦争も、中国やロシアという中央アジア的暴力が朝鮮半島を支配するのを阻止するための戦争であった。日清戦争後の下関条約は、第一条に「?國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス」と朝鮮を清国支配から解放することを定めた。

しかし、三国干渉で日本がロシアの圧力に屈すると、常に強きにつく韓国はロシアに臣従するようになり、これが日露戦争の原因となった。そこで日露戦争後のポーツマス条約では、前述のように韓国における日本の優越権を認めさせたのである。

 それでも韓国はハーグ密使事件のような騒動を起こす。この裏切りと嘘かりの半島国家を経由してやってくる中央アジア的暴力を防ぐには、併合しかない、と日本政府は決断したのである。

■5.「日本が大陸アジアと付き合ってろくなことはない」

梅棹忠夫氏は宮沢喜一首相の私的懇談会にゲストスピーカーとして招かれた際、「日本が大陸アジアと付き合ってろくなことはない、というのが私の今日の話の結論です」と話を切り出して、委員全員が呆気に取られたそうだ。[2, p272]

確かに日清日露の大戦役は朝鮮半島を巡って戦ったものだし、その後、朝鮮から満洲に勢力圏を伸ばした事によって、中国進出を目論むアメリカとも戦う羽目になった。日本は朝鮮、満洲に厖大な投資を行って近代産業の育成に取り組んだが、敗戦によって、それらすべてを中央アジア的暴力に奪われてしまった。

日本の韓国併合は、朝鮮半島の直接統治によって、中央アジア的暴力の通路を遮断しようという目的だった。それを「侵略」として批判することはたやすい。しかし、中央アジア的暴力を食い止めるために、他にどんな手段があったろうか。[2]の著者・渡辺利夫・拓殖大学学事顧問は、近代日本の歩みを見直した上で、こう結論づける。

半島の混乱は清露いずれかの介入を招くというのが歴史的経験則であり、これが日本に危殆を招くことも歴史的経験則であってみれば、日本にとっては朝鮮半島を支配下におき、最終的にはこれを併合するという選択は不可避のものであった。

韓国併合は「大陸アジアと付き合ってろくなことはない」悪手であった。しかし、日本にとって、それ以外に朝鮮半島経由でやってくる中央アジア的暴力を食い止める方法はなかった、と言うのである。

■6.防衛戦略は「防衛線」だけの問題ではない

近年の中国の経済発展と軍事的膨張によって、東アジアの情勢はいよいよ日清戦争前に酷似してきた。中国共産党政権という「中央アジア的暴力」からいかに国を守るか、という我が国の宿命的安全保障課題はいよいよ緊迫度を増している。

この課題に対して「防衛線をどこに置くか」という議論が、地政学的な戦略論議として行われている。日韓併合は防衛線を朝鮮半島北端まで遠ざけた。さらに防衛戦を満洲地方の先に遠ざけようとしたのが満洲事変だった。

現在の日米韓同盟では防衛線を38度線に置いている。昨今の韓国の左翼反日政権は韓国を中国・北朝鮮の側につけようと狙っているようで、そうなると防衛線は一気に対馬海峡まで接近することになる。これは我が国の安全保障への大きな脅威となる。

しかし、ここで考えなければならないのは、冒頭で述べたように韓国は信頼できる国ではない、という点である。韓国が現在のように日米側についていたとしても、いつ裏切られるか分からない。そうならないように、またそうなっても大丈夫なように手立てを考える必要がある。逆に韓国が中朝の側についても、同様の不安を彼らに与えるだろう。

安全保障とは、直接の軍備の問題だけでなく、いかに味方を増やし、敵を減らすか、のゲームでもあるが、味方なのか敵なのか、向背定まらない国はこのゲームをさらに複雑にするのである。

■7.日露戦争の成功要因

いかに味方を増やすかに関しての見事な戦略で勝ったのが日露戦争であった。国際政治面での日露戦争の勝因は以下の3つであると考えられる。

1)日英同盟。英国はインド、シンガポール、マレーシア、香港などを植民地としていたので、これらの港でバルチック艦隊は補給の妨害を受け、かつ艦隊の情報が着々と日本にもたらされた。これらが大きな助けとなって、日本海海戦におけるバルチック艦隊撃滅という世界海戦史上、最大の勝利が実現したのである。

2)欧米での世論戦。金子堅太郎はアメリカ各地での講演で、日露戦争はロシアの言うような「白人国家の『黄禍』との戦い」ではなく、「古代専制国家ロシア 対 近代的民主国家日本の戦い」であることを訴えた。同様にダートマス大学講師・朝河貫一や岡倉天心などが著書を出版し、親日世論を育てた[a]。こうした努力により、日本は欧米金融市場から厖大な戦費の調達ができた。

3)民族解放支援 明石元二郎・陸軍大佐はロシア帝国が支配しているフィンランド、ポーランド、ルーマニア、さらにはロシア国内の革命勢力に厖大な資金援助を行い、独立運動、革命運動を活発化させた。これにより、ロシア帝国は足下の動揺から対日戦争を続ける余裕がなくなった。

明治日本は近代的軍備と練度、志気でロシアを凌駕していただけでなく、当時の国際政治においても、味方を増やし、敵を減らすための見事な戦略をとっていたのである。韓国の外交音痴ぶりとは対照的な外交巧者ぶりであった。

さらに明治日本は脅威の通路である朝鮮半島に拘泥せず、脅威の根源である中央アジア的暴力そのものを相手にした事も、現代の我々が学ぶべき点であろう。朝鮮半島は常に強きに靡(なび)く。今までは韓国も揺らがなかったのはアメリカが絶対的に強大だったからだ。近年、中国の軍事力・経済力が強くなってきたので、そちらに靡こうとする一派が力を得てきたのである。

我が国の防衛・外交戦略としては、あくまで脅威の本源である中国にどう立ち向かうか、が本質的課題であり、それが解決しない限り脅威の通路である韓国と北朝鮮の問題も解決しない。

■8.我が国2千年の宿命的安全保障課題

日露戦争での3つの勝因は対中国でもそのまま適用すべきものだ。

まず当時の日英同盟が、今日の日米同盟にあたる。さらに当時の英国植民地に相当するのが、東南アジア、オーストラリア、インドなどで、これらの国々との連携を強め、中央アジア的暴力を封じ込める体制が必要である。

第2の国際世論戦は、現代日本が最も苦手とする分野である。現在は安倍首相の個人的才能と努力に頼っているが、民間も含め、国を挙げての強化が必要だ。

第3の民族解放支援。現在の中国はウイグル、チベットなどでかつてのロシア帝国よりも暴力的な民族弾圧を続けている。昨今の香港の大規模デモも、中国共産党政権の暴力支配から身を守る運動と位置づけられる。同時に韓国内の保守派への支援や、北朝鮮人民の圧政からの解放運動支援もありうる。しかし、こうした点に関しては、日本はほとんど手を打てていない。

現在の韓国問題は、中央アジア的暴力からいかに国を守るか、という我が国2千年の宿命的課題の一環として考える必要がある。こういう巨視的・歴史的な課題認識を持った国民が増えていくことで、脅威に立ち向かう日本政府への的確な後押しができるはずだ。

                                   
   (文責 伊勢雅臣)

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