「 古墳に見る先祖の心」

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古墳に見る先祖の心

古墳は「死せる遺跡」ではない。その形からは、我々の先祖の生き様と精神生活が見えてくる。

■1.世界三大墳墓の一つ、仁徳天皇陵

「仁徳天皇陵(大仙古墳)」を含む「百舌鳥(もず)・古市古墳群」が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関によって、世界遺産に登録すべきと勧告を受けた。6月のユネスコ世界遺産委員会で、正式に登録が決まる見通しとなった。

古墳は世界でもユニークな文化遺産ながら、なぜか激増する外国人客たちの注目も浴びていなかった。日本側のアピールが不足しているからだろう。それも現代の日本人自身が古墳の歴史的意義を理解していないため、と思われる。

そのユニークさの第一は、世界三大墳墓の一つとされる大きさだ。最大の古墳・仁徳天皇陵(大仙古墳)は墳丘長525メートル、墳丘基底部の面積で121万平方メートルである。東京ドームの建築面積が47万平方メートルだから、その2.5倍以上もある。

ちなみに世界三大墳墓の残りの二つ、クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵に比べると、長さ、底面積は仁徳天皇陵がダントツながら、高さはピラミッドの146メートル、体積は始皇帝陵の300万立方メートルがそれぞれトップを占めている。[1]

■2.400年にわたって16万基近くも作られた古墳

大きさよりも重要な古墳の特徴がある。第16代仁徳天皇陵だけではなく、その後も第15代応神天皇陵425m、第17代履中天皇365mと巨大古墳が切れ目なく続いていることだ。墳丘長が200mを超える古墳が35基、100m以上のものに至っては302基もある[2]。

文化庁の平成28年度調査によると、我が国全体では大小含めた総数で15万9636基もの古墳(横穴含め)がある。県別で古墳がないのは北海道、青森県、秋田県、沖縄県のみである[3]。約16万基というと、現在のコンビニ店舗数が6万弱だから、その3倍近いと考えると、いかに多いかが実感できよう。

これだけの数の古墳が、東北地方南部から鹿児島に至るまで広範囲に、しかも3世紀半ば過ぎから7世紀末頃まで400年にわたって作り続けられた。

秦の始皇帝は自身の陵とともに阿房宮や万里の長城の原形を作ったが、人民はその過重な負担に耐えかねて、広範な反乱が起こり、中国最初の統一王朝・秦はわずか15年で滅んでしまう。それに比べて我が国の古墳がかくも多数、広範囲に、かつ長期にわたって造り続けられたのは、きわめて対照的だ。そこにこそ我が国の国柄が潜んでいる。

■3.関西国際空港の埋め立て工事に匹敵

仁徳天皇陵の建造に必要とされた工事量が大林組によって推定されている。陵の盛土の総量は140万立米、現在の10トンダンプトラックで25万台に相当する。これだけの土を民衆がモッコで運び、盛り土を木ベラ、竹ベラなどで均一にならした後に、足で踏み固める作業を行った。

墳丘斜面にはこぶし大の葺石(ふきいし)がびっしりと敷き詰められ、その数約536万5千個、重さにして1万4千トン。5.8キロ離れた石津川の上流で採掘され、水路を堀削して、船で運ばれたと想定された。また各段のテラス(斜面の途中で段をなす平坦部)に並ぶ直径35センチほどの円筒埴輪は推定1万5千本。

これだけの作業量をこなすのに必要な労働力は、のべ680万7千人、ピーク時に2千人を動員したとしても、15年8か月かかると推定された。必要経費は現代の貨幣にして約8千億円、関西国際空港の埋め立て工事に匹敵するという。[5]

始皇帝のように権力で人民を使役していたら、その過重な負担に耐えかねて、反乱が起こるのも当然だ。しかし、我が国では仁徳天皇陵に限らず、それに継ぐ大きさの古墳が次々と、多数、作られている。それが400年も続いたのであるから、国民の側にもその建造を受け入れるだけ理由があったはずだ。

■4.高句麗の古墳と比較して

松木武彦・国立民俗博物館教授は、サントリー学芸賞を受賞した『旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記 (全集 日本の歴史 1)』で、日本と朝鮮半島の古墳の比較をして次のように述べている。

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東アジア各地の墳墓が最大に達するのは四世紀後半~五世紀前半である。その大きさでは日本列島の古墳が群を抜いていることがわかる。[5, p317]
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しかし、その性格はまるで違う。

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同じころに大型化した高句麗の古墳は、最大のものでも一辺が八五メートルと、日本列島のものよりは小さい。しかし、その内容を見ると、切石や石組みの技術で精妙につくられ、四世紀以後の王陵は上部に瓦葺きの建物を載せる。高いレベルの技術者集団の高度な編成がなければ、このような建造物の造営は困難に違いない。

これに比べて、列島の前方後円墳は、技術の高低、労働の質と量でいえば、土や石の採掘・運搬・積み上げという比較的低いレベルの単純労働が集積された結果といえる。高句麗の王陵は王権お抱えの技術者集団による注文建設、列島の大古墳は、それ自体がまつりとしての意味合いをもった集団労働、というような色彩が、それぞれ濃かったと考えられる。[5, p324]
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やや突飛な例えをお許し願えれば、北朝鮮の喜び組と日本の盆踊りの違いと言えようか。首領様お抱えの喜び組なら、歌や踊りで「高いレベルの技術者集団の高度な編成」を披露できようが、その規模はせいぜい数十人、数百人レベル。それに対して、日本の盆踊りは全国津々浦々で催され、参加者数は数十万人、数百万人の規模になりうる。

芸術的レベルは別として、国家国民にとって、どちらの方が価値があるかは、言うまでもない。

■5.「まつりとしての意味合いをもった集団労働」

これだけの大工事を、日本の各地で400年にわたって続けたエネルギーはどこから来たのだろう。松木教授の「それ自体がまつりとしての意味合いをもった集団労働」という言葉がヒントとなる。

松木教授は古墳における副葬品を沖ノ島の宗像(むなかた)大社沖津宮の巨石群に手向けられた献納品と比較する。品目は鏡・刀剣・球類・滑石製の農耕具・甲冑・馬具などと古墳と共通で、航海者が船路の安全を祈って献納したものだ。

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このことは、沖ノ島の巨石に宿って海上交通の安寧を護ることを期待されていた超自然的存在と、大型古墳の主とは、同等のものとして扱われていた可能性を示す。沖ノ島の超自然的存在を神と呼んでいいなら、死せる古墳の主もそれに準ずる存在と認識されていたことになる。[5, p309]
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田中英道・東北大学名誉教授によれば、高く丸く盛り上がった「円」の部分は「高天原」を思わせる。そこに埋葬された天皇や首長は生前にまつわる人物、家屋、馬などをかたどった埴輪に囲まれ、神となって高天原に住まわれると考えられた。「方」、即ち四角い部分はこの世、葦原の中つ国である[6]。

古墳の巨大かつ壮麗な偉容は、高天原に戻った神が自分たちを今も見守って下さっている、という安心を与えただろう。そのような巨大古墳を、今は神となった先帝を偲びつつ、ムラを挙げて造る。その作業自体が民衆に共同体としての帰属感を与える「まつりとしての意味合いをもった集団労働」だったに違いない。

■6.民に安心と豊かさを与える大工事

古墳の建造には実利的な目的もあったようだ。当時全国に広がりつつあった水田開発に伴う灌漑工事、ため池造成からもたらされた土量を盛り土に使った、という説がある。長さ90mの前方後円墳と約109m四方の溜池が同じ土工量だとする試算がなされている。[7,8]

大林組による仁徳天皇陵での土量の計算では、内壕と外壕の掘削土量では巨大な盛り土の半分程度しかなく、不足分はどこからか持ってこられたものである、という。当時の気候寒冷化に伴い、海水面が下降して、広がりつつあった大阪平野で大規模な治水工事が行われた。そこから大量の土量が得られたと想像しうる。

古事記には、仁徳天皇の御代に茨田堤(うまらたのつつみ、寝屋川市あたりの淀川の堤)、依網池(よさのいけ、大阪市住吉区庭井、大和川沿い)、難波の堀江(ほりえ、淀川・大和川の水を海に通すための運河)、小橋江(おばしのえ、大和川の氾濫を防ぐために掘った運河か)、墨江(すみのえ)の津(大阪市住吉神社付近に設けた港)を造られたとの記事がある。

水田耕作が食料獲得の中心となった時代では、農民は農閑期があったはずだ。その期間を用いて、天皇が主導する土木工事により水害防止や水田開発を図ることで、民衆は自分たちの生活がより安全に、より豊かになっていく事を実感しただろう。そう感じた民衆が仁徳天皇を慕い、崩御後に巨大墳墓を造って、自分たちを末永く見守っていただきたいと祈ったことは想像に難くない。

■7.平和的に全国をカバーしたネットワーク

我が国の古墳で、興味深いのは、その厖大な数だけでなく、前方後円墳というユニークな形状が畿内を中心に、鹿児島から東北地方南部まで広がっていることだ。これは大和朝廷の権威がそれだけ広がっていたことを示している。

松木教授は、前方後円墳が広く普及する三世紀前半の土器の出土状況を分析して、たとえば、纏向遺跡(まきむく、奈良県桜井市)からは、瀬戸内以西や東海、東北までの各地で作られた土器が出土することから、三世紀に入る頃には、全国的な流通ネットワークが構築されていたと結論づける。

その中心が纏向で、そこにある箸墓(はしはか)古墳が最古級の前方後円墳と見なされている。墳丘長278メートルの巨大古墳で、宮内庁は第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓と治定している。

土器の広域の流通から、松木教授は次のように述べる。

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ネットワークの中心的存在となった纏向や、それに次ぐ博多湾岸・大阪湾岸、さらに各地の拠点となったムラは、すでにみてきたように、ほかのムラを征服したり支配したりして大きくなったのではない。
環濠などの防御施設をもたず、はなはだ開放的である点からみても、さまざまな地域からそこをめざして集まってきた人びとによって、それらは巨大化したことが明らかだ。[5, p298]
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こうした全国的なつながりを通じて、天皇や皇族の墓として作られた前方後円墳が地方豪族によって真似され、全国的に広まっていったと考えられる。当時の日本は、すでに大和朝廷を中心とする全国的な文化的・政治的共同体であった。

記紀によれば、初代・神武天皇は「天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか」と述べて即位された[a, p211]。その時期は2世紀末という説を本講座では紹介した。[b]

それから1世紀ほど経った第7代孝霊天皇の時代あたりから、我が国は文化的・政治的共同体として、無数の、しかし同じ様式の前方後円墳を作り続けていくのである。あたかも「一つ屋根の下の大家族のように」。

■8.古墳は現代人の精神生活に繋がっている

前方後円墳の築造は6世紀末頃に終わる。前方後円墳が天皇陵として代々連続して造られたのは、第30代敏達天皇の河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ、墳丘長113メートル)が最後のようだ[8]。

敏達天皇の崩御は西暦585年。その前代、29代欽明天皇の13年(552)年に百済から仏像と経文がもたらされ、これが我が国における仏教伝来の始まりとされている。仏教を奉ずる蘇我氏と、神道を護ろうとする物部氏が闘った丁未(ていび)の乱が587年。日本最初の仏教寺院として飛鳥寺が創建されたのが、この6世紀末とされている。

すなわち6世紀後半は我が国に仏教が浸透し、同時に古墳の築造が終わった時期であった。田中教授は、次のように指摘する。

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そしてそれ以降、古墳にかわって、仏教のお寺がお墓になっていくのです。つまりお寺が、人間のお墓が置かれる場所になるのです。このことによって、古墳が消滅していき、そして神社は、お寺とは別の機能をもつのです。神社は、神様の飛来する、神が降りられる場所となるのです。[6, p153]

神社というものの多くは、そのほとんどはお寺がつくられた後につくられているのですが、それ以前は、古墳を中心とした社が、神社としての役割を果たしていたからであろうと考えられるのです。
これは、天皇陵とされるような古墳をめぐってみてもわかるように、そこには必ず鳥居があって、神社として祀られています。[6, p194]
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つまり、6世紀後半以降、古墳の役割は寺院と神社に分担された。現代の我々はお寺で先祖の霊を祀り、神社で神様に家内安全を祈るが、御先祖様たちはその両方を古墳に対して行っていたのだろう。こう想像すれば、一生懸命、古墳を造り、拝んでいたご先祖様の思いも想像することができる。

古墳は今も我々の精神生活に繋がっている我々の直接のご先祖様からの遺産である。この点こそ、すでに現代人とは断絶した「死せる遺跡」であるピラミッドや始皇帝陵との本質的な違いだろう。

                                       

(文責 伊勢雅臣)

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