「「岩倉具視率いる遣欧使節団が日本をたったのは1871(明治4)年のこと…

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岩倉具視率いる遣欧使節団が日本をたったのは1871(明治4)年のこと。政府要人に加え欧米への留学生58人も乗船。その中の5人は、新しい5千円札の顔になった津田梅子ら6~14歳の女性だった

▼山川捨松という少女もいた。本名は咲子。出発に際して母親が名を改めた。「いったん異国に捨てるが成長して帰ってくるのを待つ」-。当時の米国は、現代なら宇宙に旅立つほどの隔絶感か。娘を10年間も送り出す壮絶な覚悟が伝わる

▼捨松は明治新政府の旧敵、会津藩家老の娘だった。「敵味方区別無い人材登用」「女子の積極的社会参加」。新国家建設への高い理想は、同時に諸外国へ日本は文明国だとのアピールも狙ったのだろう

▼統一地方選が昨日終わった。新しい首長や議員の顔触れを見ると、先日の小欄でも触れたように女性の進出はまだ道半ばだと感じる。150年もたって、なぜ? 女性参画の先陣を切った梅子や捨松は首をかしげるかもしれない

▼九州では既に女性の知事や市長、県議会議長も誕生している。女性の重用自体に抵抗感はあるまい。ただ、壁があるのは事実。一度には取り払えなくても、その高さを低くしていく工夫と周囲の理解が必要だろう

▼さて。捨松には健次郎という兄がいた。現在の九州大の初代学長を務め、九州工大の創設にも関わった。学者一家らしく、女子英学塾を開いた梅子を捨松も生涯支援したという。

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