「令和」~『萬葉集』に込められた大伴家持の祈り

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■1.「人々が美しく心を寄せ合う」

新元号「令和」の出典となった「初春の『令』月(れいげつ)にして 気淑(よ)く風『和』(やわら)ぎ」は、天平2(730)年正月13日(太陽暦2月8日)、太宰府の長官・大伴旅人(おおとものたびと)邸での梅見の宴の光景だ。そこで主客あわせて32人が梅をテーマに1首づつ和歌を詠んだ。

安倍首相は「令和」の説明の中で、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という意味が込められている、と語った[a]。たとえば客の一人、萬葉集中の代表的歌人、山上憶良(やまのうえのおくら)は次の歌を詠んでいる。

春されば まず咲くやどの 梅の花 ひとり見つつや 春日(はるひ)暮らさむ
(春が来ると真っ先に咲く家の梅の花、この花を、ただひとり見ながら長い春の一日を暮らすことであろうか)

この歌を万葉学者の伊藤博・筑波大学名誉教授は大著『萬葉集釈注』で次のように評している。
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そして、この花は、あの人と離れてひとり見ながら春一日を過ごすには惜しんでも惜しみきれない花だという切なさは、今から二年前、この屋敷で妻大伴女郎を失った旅人の孤独の心境でもある。・・・ 一首の恋歌仕立てのあわれさが、今日の主人への慰みとなっている。優雅な思いやりで、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。[1, 1182]
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このような「優雅な思いやり」も、「人々が美しく心を寄せ合う」光景の一幕である。

■2.「しきしまのみちの御まつりごと」

『萬葉集』の編纂者と目される大伴家持(やかもち)は旅人の子で、この宴の時には12、3歳。旅人のもとで育てられていたので、この宴を柱の陰から、のぞき見くらいはしたかも知れない。

それから16年後、天平18(746)年正月、奈良の都に雪が積もった際、家持は元正上皇の御在所での雪かきに加わり、その後の酒宴で、上皇から雪の歌を作れと詔(みことのり)を受けて諸臣に混じって、次の歌を献じた。

大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れどあか(飽)ぬかも

この雪見の宴も「人々が美しく心を寄せ合う」一幕であった。富山県立図書館に長年奉職しつつ、立山の歴史や越中における万葉の研究をされた廣瀬誠氏は、この宴について次のように語られている。

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それにしても、この都での雪の賜宴は家持生涯忘れえぬものであったらう。「聊(いささ)か此の雪を賦して各其の歌を奏せ」との詔(みことのり)に応じ、諸臣作歌献上した盛儀こそ「日の大朝廷(みかど)」の理想的な姿であった。後世風にいへば「しきしまのみちの御まつりごと」であった。[2, p313]
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この光景は現代も続けられている「歌会始の儀」とよく似ている[a]。この「しきしまのみちの御まつりごと」への思いが「将来の『萬葉集』全巻奏上の念願となって、家持は全力こめてこの集の編成に努力したのでなからうか」と廣瀬氏は推測する。とすれば、『萬葉集』自体が「人々が美しく心を寄せ合う」ことを理想として生み出された文化財なのである。

■3.越中での「人々が美しく心を寄せ合う」世界

この年の6月、家持は越中守に任ぜられた。当時は聖武天皇のもとで東大寺の造営、大仏の建立に国家の総力が傾注されていた時代であった。越中は東大寺が多くの田を持つ経済的基盤であったから、その地方長官は大任である。廣瀬氏は言う。

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家持は繰り返し「大君の任のまにまに」と歌ってゐる。集中、この語の使用は八例。そのうち六例までが家持だ。[1, p315]
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まさに「大君の任のまにまに」、天皇の御信任にお応えしようと、家持は勇躍、越中に赴いたのだろう。

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越中在任中の歌を見れば、家持の生活は張りつめ、作歌にも油が乗ってゐる。張り切ってゐたからこそ、越中の風土、山川草木すべてが新鮮に溌剌として心に映り、それを力強く歌ふことができた。そして五年間の越中在任中に家持は歌人として大きく成長を遂げた
のであった。[1, p316]
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翌19年2月、大病に伏した家持に、部下の大伴池主(いけぬし)は、次の歌を贈って慰めた。

山峡(やまかひ)に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ
(山あひに咲いている桜を一目でもあなたにお見せできたら、何を不足に思いましょう)

これに応えて家持は次の歌を返した。

あしひきの山桜花一目だに君とし見てば吾(あれ)恋ひめやも
(山の桜花を一目でもあなたと共に見られたら、わたしはこんなに花にあこがれましょうか)

ここにも「人々が美しく心を寄せ合う」世界があった。

■4.「海ゆかば」

天平21(749)年、陸奥国から黄金が発掘され、建立中の大仏に塗る黄金の不足を憂慮されていた聖武天皇に献上された。天皇は喜ばれて、長文の宣命(せんみょう、国文体の詔勅)を発せられた。

その中で聖武天皇は大伴氏の昔からの言立て「海ゆかば」を引用された。これを伝え聞いた家持は感激し、「陸奥国より金を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌」長歌及び反歌三首を詠んだ。その中の一節が、現在まで歌い継がれている「海ゆかば」である。

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・・・海ゆかばみづく屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、顧(かへり)みはせじ
(海に行くのなら 水に浸かった屍 山に行くのなら 草むした屍をさらしても 大君のお側で死のう 後ろを振り返ることはしない)・・・
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廣瀬氏は、この長歌を「家持の生涯で最長の大作、かつ最高の力作」としながらも、次のように添える。

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家持の歌には両極がある。片方の極は「うらうらに照れる春日にひばりあがり心かなしも独し思へば」であらう。そしていま一方の極はこの「海ゆかば」百四句の長歌だ。この長歌、もりあがる感動がうねりを打って迫ってくる。[1, p319]
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「心かなしも独し思へば」という思いがあってこそ、大君のお側では「顧みはせじ」という悲壮な覚悟が生まれてくる。その悲しみ、苦しみのない猪突猛進では「感動がうねりを打って迫ってくる」事はありえない。

■5.「民安かれ」のための「顧みはせじ」

それにしても家持の「顧みはせじ」という覚悟はどこから来ているのか。聖武天皇の宣命ではこの言立て引用の前に「天の下の百姓(おおみたから)衆(もろもろ)を撫で賜ひ恵(めぐ)び賜はく」と書かれており、これを受けて家持は長歌でこう詠んでいる。

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老人(おいびと)も 女(おみな)童(わらは)も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴(たふと)み 嬉しけく いよよ思ひて
(老人も女子供もめいめいの満足するまで、いたわっておやりになるので、このことがなんとも貴く、いよいよ嬉しく思って)
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大君の民を思う大御心を「貴く」「嬉しく」思う心が「海ゆかば」につながっている。廣瀬氏はここから次のように指摘する。

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天皇の御まつりごととは、老人・婦人・子供に至るまで、その願ひを叶へ、喜びを分かつ、現代風に言へば社会福祉であると信じ、従って「大君の任のまにまに」執り行ふべき行政の目標もここにあると家持は固く思ってゐた。「老人も女童も、しが願ふ心足らひに、撫でたまひ治め賜」と「海ゆかば水づく屍」とは、家持にとって表裏一体であった。この重要な一点を見落してはならぬと思ふのである。[2, p224]
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「民安かれ」とは神武天皇以来の皇室の伝統的な祈りであった[b]。その祈りを実現しようとの覚悟が「顧みはせじ」との決意を生み出しているのである。

■6.防人たちへの共感

天平勝宝7(755)年、兵部少輔(ひょうぶのしょうしょう、軍事担当官)となっていた家持は東国から招集された防人(さきもり)たちの歌を集めた。これが『萬葉集』中、百首近い「防人歌」として残された。廣瀬氏はその一部をこう紹介している。

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筑波嶺(つくばね)のさ百合(ゆり)の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹そ昼もかなしけ
と、ふるさと筑波山のユリの花のイメージに結びつけて妻のいとしさを、いささか艶めかしく歌って居る。この作者が同時に「霰(あられ)ふり鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみいくさ)にわれは来にしを」と決然たる一首もとどめて居ることは重大である。[2, p266]
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一人の防人が妻を恋うる歌の次に皇御軍の一員として出征する決意と誇りを詠った。そこに家持は自らの「顧みはせじ」と同じ覚悟を感じたのだろう。廣瀬氏は言う。

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戦時中、「大君のしこの御楯」等の数首だけを強調し「滅私奉公」の題目としたのも一面的であったが、戦後、その反動で、防人歌のセンチメンタリズムを強調し、あるいは厭戦的、反戦的などと説くのも、勝手な曲解である。・・・
「私(わたくし)に背(そむ)きて公(おおやけ)に向ふ」(聖徳太子・憲法十七条)、父母を恋ひ妻子を恋ひ故里を恋ひ、その悲しみのゆらぐがままに祖国防護の任におもむいた防人の悲痛な心持は、百首の大群作となって萬葉集の巻末を飾り、われらの前に力強く生きて渦巻いて居るのである。[2, p267]
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■7.「いや重け吉事」

天平勝宝8(756)年、聖武天皇は崩御され、その翌年、橘奈良麻呂は権勢を振るう藤原仲麻呂を打倒しようとしたが、事は事前に発覚し、関与した人々は投獄されたり、処刑された。橘一族と親しくしていた大伴一族も多くの人々が歴史から姿を消した。家持にも仲麻呂から誘いがあったと思われるが、大君に仕える志から、派閥争いには加わらなかったようだ。

家持は危うく難を逃れたが、藤原氏の策謀であろう、因幡守に追いやられた。少納言の地位からすれば左遷である。その因幡において、天平宝字3(759)年正月1日、家持は国郡司たちを集めて宴を催し、そこで次の歌を詠んだ。

新しき年の始めの初春のけふ降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)
(新しい年の始めの正月の今日降る雪のように吉事がもっともっと積もれ)

家持はこの歌をもって、『萬葉集』を閉じた。正月の大雪は豊年の瑞兆と考えられていた。

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おそらく家持の目には、天平十八年(七四六)正月、上皇の御所で詔に応じて雪の歌を奏した光栄、そして張りあひのあった越中在任五カ年間の大雪の印象が、重ね写しになって見えてゐたであらう。[2, p323]
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こうした「人々が美しく心を寄せ合う」光景を思いつつ、家持は国全体に対して「いや重け吉事」と祈ったのであろう。

■8.家持の祈り

家持はその後、薩摩、伊勢、相模と地方勤務を重ね、最後に陸奥において延暦4(785)年、70年近い生涯を閉じた。その死の直後、桓武天皇の寵臣・藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、大伴一族の者が下手人として逮捕された。尋問の結果、家持が首謀者とされ、その遺体は葬ることを許されず、大伴氏の財産・所領はことごとく没収された。

「大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」と詠った家持にしては、あまりに酷(むご)い最期だった。しかし、これによって『萬葉集』の草稿も、他の財産とともに朝廷の書庫に収められたのだろう。
もし、家持の最期が平穏だったとしたら、同時代の他の歌集と同様に散逸していた可能性が高い、と廣瀬氏は推測する。

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「顧みはせじ」と詠んだ家持は、たとへ自分の屍が路傍に捨てられ、草むす屍となったとしても、そのことによって自分が身命かけて採録編纂した『萬葉集』が日本国に残り、日本民族の宝となったことを心底から喜んでいるに違いないと私は思ふ。[2, p326]
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そして、自ら『萬葉集』に収録した父・旅人の宴席の章句から、1200余年後に「令和」の年号が採られた事を知れば、泉下の家持は祈りを新たにするだろう。「人々が美しく心を寄せ合う」理想の国家の実現に向けて「いや重け吉事」と。

                                       (文責 伊勢雅臣)

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