「ウクライナの歴史」

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ウクライナは飢饉のときの2年間で、1千万人の国民と家畜たちが死んでいきました。
さらに第二次大戦で、民族の4分の1にあたる700万人の兵士が死亡しました。
大戦後もソ連の内政によって400万人から1000万人が殺されました。

画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

さて、この小説のなかで重要な役割を果たしているのが、「ウクライナ」です。
黒海の北側に位置するこの国は、かつてはソ連の一部となっていました。
そしてソ連の一部となることで何が起き、そしてなぜ彼らは独立の道を選んだのか。

今回はウクライナの歴史を考えてみたいと思います。

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ウクライナは、もともとはロシア発祥の地で、ヨーロッパの穀倉地帯と呼ばれる豊穣な土地です。
ほとんどの国民は、敬虔なロシア正教の信徒です。
そのウクライナに、旧ソ連の前身となる「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」が誕生したのが、大正8(1919)年のことです。
ソビエト連邦は、このウクライナに出来た「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」に、大正11(1922)年になって「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」、そして「白ロシアソビエト社会主義共和国」等が合併して出来上がった連邦国家です。
だから「ソビエト連邦」と言います。

細井平洲は53歳で、徳川御三家筆頭の尾張藩に招かれました。
そして藩校明倫堂(現、愛知県立明和高等学校)の学長になりました。
百姓の小倅(こせがれ)が、徳川御三家の教育掛の学長に就任したのです。

江戸時代の身分制が、世界にあるような固定的なものでなかったということは、この一事をもってしてもあきらかです。

先日、錦鯉の由来の記事で、上杉鷹山をご紹介しましたが、今回はその鷹山の師匠であった細井平洲(ほそいへいしゅう)のお話です。
大正時代から昭和初期に活躍した日本のキリスト教思想家でもあった内村鑑三は、著書の『代表的日本人』の中で、細井平洲を「当代最大の学者」と称賛(しょうさん)しています。

さて、上杉鷹山は米沢藩主として、藩校を設立しています。
その藩校の名前が「興譲館(こうじょうかん)」です。
そしてこの名前は、細井平洲が名付け親であったといわれています。

藩校というのは、藩の政治を担う優秀な人材を育てるところです。
いまの大学のように、若い学生に教育を施すのですが、その性格は大学というより、むしろ昨今の大手企業がよく設置する「研修センター」に近い機能を持ちます。

ですから一般教養だけでなく、藩政から幕府の政治、それらを実施する上での心構え、具体的進め方に至るまで、広範な教育を行うところでもあります。

江戸時代の武士たちは、参勤交代に付随して江戸詰めになります。
このとき当然、諸藩の武士たちとの交流があるのですが、そのとき、どこに出しても恥ずかしくない人材を育成するところでもあったわけです。

その藩校の名称の依頼を受けた細井平洲が付けた名前が「興譲館」であり、鷹山以下、当時の米沢藩士たちは、この名前を歓迎しています。
「興譲」は「譲(ゆずる)を興(おこ)す」と書きます。
細井平洲の教えの根幹にあたる理念です。

人を人として敬い、譲り合う生き方を徹底することによって、人間関係の良好な地域社会を築き、これによって国を繁栄に導くという思想です。
「自分さえ良ければ」という個人主義や、人を所有して支配し収奪する人類社会の対極にある思想です。

「譲る」という言葉は、単に人に与える(分譲、禅譲、謙譲、譲歩)するばかりではありません。
「譲」という漢字にはもうひとつ意味があるからです。

それが「責譲(せきじょう)」です。
歪(ゆが)みがあったときには、その歪みに対して徹底的に相手の責任を問う。

つまり「興譲」は、断固として悪を許さないという、武士としての絶対の信念があるのです。

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