『米百俵』

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『米百俵』の逸話は、2001年に当時小泉内閣発足時の総理の国会所信表明演説の際に、引用され、このことから同年の流行語となったことでも覚えておいでの方も多いのではないかと思います。

『米百俵』の逸話は、幕末の戊辰戦争で官軍に敗れた長岡藩が、その後、藩の禄高を6分の1に減じられてしまったことで、藩がたいへんに貧しくなり、このとき藩主の親戚の三根山藩の牧野氏がみかねて、長岡藩に米を百俵送ってくれたことを端緒とします。

このとき藩の藩の大参事であった小林虎三郎が、その百俵のお米を、すぐに藩士たちみんなで食べてしまうのではなく、これを元手に藩に学校を造ろうと提案しました。

しかし、藩士の誰もが腹を減らしているのです。
藩士だけなら我慢もしましょう。
妻子が目の前で腹を減らしているのに、どうして、目の前にあるせっかくの米を「要らぬ」ということができましょうか。
藩士たちの言い分と、小林虎三郎の意見は真っ向から対立しました。

結果は、小林虎三郎の意見が通り、藩校が造られました。
このときの小林虎三郎の、

「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」という言葉は、あまりに有名です。

今回申し上げたいのは、このとき小林虎三郎が動議した「教育」とは何かということです。

事件のさなかに小林虎三郎はおもしろいことを言っています。
それが、

「こうした苦しい状況に藩が追いやられたのも、もとをたどせば、官軍と自藩の戦力の違いを見誤り、ただ感情に走ったことにある」
という言葉です。

つまり、彼我の戦力をしっかりと分析し、戦えばかならず勝つだけの見込みをしっかりと付け、また勝った後のこと、負けた場合のことまでもしっかりと思考をめぐらせて戦いに臨むことが大事だと言っているのです。

長岡藩は「常在戦場」という言葉を藩是としてきた歴史を持ちます。
しかしその「常在戦場」という語は、同時に「常勝戦場」という戒めでもあるのです。

これは名人の碁や将棋に似ているかもしれません。
先の先まで読み通して、次の一手を打つ。

どうしたいのかというビジョンに、それを実現するための全体戦略、個々の戦術、それらを総合して、一手一手を正確に打っていく。
碁や将棋を志す人なら、誰もがそのようにします。
けれど、名人になれるのは、ごく一握りです。

ではどうやって、そうした名人級の国家ビジョンや戦略家を育成するのか。実はこれは、誰もが欲しながら、誰もがなれるというものでもないのです。

ひとことでいえば、天才の育成です。
早い話、今の時代に石原莞爾が100人いたら、日本はあっという間に強靭な国家になる。

そうした天才を育成する道は二つあります。
ひとつは、優秀な人材を集めて、特別強化を図ることです。
東大や医大の専門コースを置いた高校のようなものです。

もうひとつは、社会全体のレベルを上げることです。
要するに学校の統一模試でいえば、全体の平均点を上げることです。
これは、そのようにすることで、より天才を育みやすい社会が育成されます。

偏差値40の高校で、偏差値75以上の生徒を育成するのは不可能に近い。
けれども、全体の偏差値が60になれば、75以上の生徒もたくさん輩出できるのです。

小林虎三郎の「百俵の米を学校建設に用いる」というのは、この全体の偏差値を上げることを目するものです。

ただし、条件があります。
それは西郷隆盛の言葉にあるものです。
「一格の国体がなければ、どんなに優秀な人材を集めても、すべて水の泡だ」という言葉です。

「格」というのは「不動のもの」のことを言います。
ですから西郷隆盛は、「国が不動の国是を打ち立て、これを常識化しなければ、どんなに秀才を育てる努力をしても、すべては水の泡だし、むしろ悪い方向にしか向かない」と言っているのです。

このことは、鳩ぽっぽによって、我が国の常識といってよいほど、証明されています。

つまり、国家として何が大切なのかという、明確な国是がはっきりとし、その中において、日本人全体の資質を上げる努力がなされ、そうした社会の中から生まれたひとにぎりの秀才を、国家ビジョンや全体戦略を考え実施することができるように育成していくというプロセスが大切だということです。

誰もが戦略家になれる可能性を持っています。
しかしその戦略が、売国や反日のための戦略としてしか用いられなかったり、個人的利益を得ることにしか向けられなかったりしたら、何の意味もないのです。

古事記の神話は、その「一格の国体」を明らかにするものです。
その「不動のもの」を神様の語り(神語り)として、万人に共通のアイデンティティにしたのです。

こうすることによって、国民全体の民度を上げたのです。

私達が古事記を学ぶ理由も、そこにあります。
我が国の不動の価値観ないしは、その価値観のもとになるアイデンディディを古事記からあらためて学ぼうとしているのです。
その目的がなければ、古事記をいくら詳しく知ったところで、ただ知識が豊富という以外、何の意味もなくなってしまうのです。

大国主がウサギを助けた?
それを知ってどうしようというのでしょう。
天照大御神が岩屋戸にお隠れになられた。
だからどうだというのでしょう。

実は大国主が築いた大いなる国が流通や経済を重んずる国であったこと、天照大御神が岩屋戸からお出ましになられたのは、実は八百万の神々が自己の責任に目覚めたからであること、そしてそれらがどのように私達の生活に関連しているのかを明確につかんでいくこと。
そういうことが大事なのです。

そしてこれが「一格を定める」ことにつながるのです。
つまり幹となる不動の原点を定めるのです。

たとえばいまの日韓関係について、あくまでも民衆の価値観が経済重視なら、政府が経済封鎖に踏み切れば、その間隙を縫って密貿易をしたら、大儲けできる可能性があるでしょう。

あるいは、韓国内に向上などの資産を持つ会社や、取引先を持つ会社は、日韓の国交の悪化は、どうしても防ぎたいことになるでしょう。
しかしそのために、我が国の安全と安心が脅かされるとするならば、果たしてそれらは見過ごすべきことといえるのか。

なんでもそうですが、人が生きていくことも、企業や国家が日々直面する問題への対策も、すべては判断の連続です。

その判断のひとつひとつが、より良いものになっていれば、先々は繁栄するし、場当たり的なら、よそに利用されるようになるのです。

つまり判断には、モノサシが必要なのです。

そのモノサシの根幹になるのが、神語(神話)です。
そして日本人には、日本の神語(神話)があります。
そこには、日本人の三万年の知恵が込められています。
その三万年の知恵を、千三百年前に集大成したものが『古事記』です。
その古事記を「動物のウサギが、サメとお話しましたぁ」などという単なる荒唐無稽な童話にしてしまうのは、あまりに浅はかなことです。

そして古事記を、学ぶことにより、私達は日本人としての不動の「格」を手に入れることができます。
言い換えれば、判断のもとになる核心を手に入れることができるわけです。

こうすることによって、全体の平均レベルが格段に向上することになります。

そして平均レベルがあがれば、有能な戦略家を得ることができるようになっていく。
歴史も神話も、偉人の逸話を学ぶことも、すべては、そのために行われているのです。

そしてそのことを、昔の人は、「学問」と呼んだのです。

ねずさん

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