意外!「戦艦大和」と「武蔵」はこんなに違う!!

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意外!「戦艦大和」と「武蔵」はこんなに違う!!

今月4日、米国のマイクロソフト社の共同創業者・ポール・アレン氏が公開した、旧日本海軍の戦艦武蔵とみられる沈没船の動画は、日本中に衝撃を与えた。艦首や主砲の台座などの様子から専門家の間では「武蔵に間違いない」という声があがっている。長らく正確な沈没地点も不明だった武蔵…その姿が明らかになる可能性が高まっている。

武蔵はどんな戦艦だったのか。おそらく日本で一番有名な戦艦大和の同型艦である。両艦が搭載していた、世界最大を誇った46センチ砲は、40キロ先の艦船を攻撃できた。完成当時、これほど遠くの敵艦を攻撃できる戦艦は大和と武蔵しかなかった。艦隊同士で海戦の勝敗を決する「大艦巨砲主義」の申し子というべき存在なのだ。

1945年、沖縄に殺到する米軍に対して、”海上特攻”を敢行し、悲劇の最後を迎えた戦艦大和は、『男たちの大和』など映画化されるなど、その存在がよく知られている。また、人気アニメ「宇宙戦艦ヤマト」では、戦艦大和が沈没した場所で、宇宙戦艦ヤマトが製造され、海底から宇宙に飛び立つシーンに胸を熱くした方も多いだろう。

しかし、武蔵は1944年のレイテ沖海戦で米軍との壮絶な戦闘の末、撃沈されたが、戦争映画でもほとんど出てこない。作家の吉村昭が書いた「戦艦武蔵」(新潮文庫)などで取り上げられているが、大和に比べれば、武蔵は影が薄いといえるだろう。

●大和と武蔵の相違点とは!?

一般的には、武蔵は大和の“コピー”だと思っている人も少なくない。だが、実際には、大和と武蔵には異なる点も多いのだ。

まずは建造された場所が違う。大和は広島県・呉にあった「呉海軍工廠」で建造された。つまり、国が自ら製造した。一方、武蔵は、民間企業である「三菱重工業長崎造船所」で建造されている。

三菱重工業の長崎造船所は、多くの軍艦を建造する一方で、日本と欧米を結ぶ客船も造っていた。そのため、艦船の内装の設計にも定評があったという。大和を製造した呉海軍工廠は、司令官が乗り込む施設の調度品を長崎造船所に依頼したという話もあるぐらいだ。大和よりも武蔵のほうが内装の質が上だったということだろう。

見た目も違う。一見すると、外観はほとんど同じだが、微妙な違いがある。軍艦の艦橋部分には、甲板と結ぶ「ラッタル」と呼ばれるハシゴが備え付けられている。艦長は艦橋で指揮をとり、各部署に命令を出す。ラッタルは各部署との連絡に重要な役割を果たしていた。ハシゴの踊り場の数が、武蔵より大和のほうが多かったと言われている。また、大和は艦橋最上部にある防空指揮所までハシゴが通じていたとされる。武蔵にはこれがなかった。

一方、装備された兵器はどうだったのか。主砲や副砲の数に違いはないが、攻撃をかける敵機を迎撃する機銃の数は、武蔵のほうが多かったといわれている。一説には敵機の攻撃から艦を守るために、機銃を増強したとされる。

両艦が最後に同時に出撃したのは同じレイテ沖海戦だが、大和には、敵機の攻撃を防ぐ目的で、12基の「12.7cm連装高角砲」という対空砲が増設されたのに対し、武蔵には、この対空砲の増産が間に合わず装備できなかった。このため、本来は対空砲を置く予定だったスペースに、機銃を設置した。その結果、武蔵の機銃のほうが多くなったとも言われている。

●武蔵のほうが”旗艦”を長く務めた

違いはほかにもある。太平洋戦争での連合艦隊の旗艦といえば、大和というイメージが強い。大和は42年2月から約1年間、旗艦だった。武蔵がその後を引き継いでいる。その理由は、司令部施設の機能が武蔵のほうが上だったからだ。武蔵は、44年5月まで1年2カ月あまり旗艦を務めた。つまり、武蔵は、太平洋戦争中の連合艦隊で、最も長く旗艦だったのだ。

また、武蔵は“世界一被弾した軍艦”と言われている。被弾数には諸説あるが、米軍の記録によると、武蔵は、レイテ沖海戦で爆弾44発、ロケット弾9発、魚雷25本が命中したという。だが、これだけの猛攻撃を受けても、武蔵は約5時間も沈まなかった。

沈まなかった理由は、魚雷攻撃を左舷と右舷にバランスよく受けたためとも言われている。だが、それだけではないだろう。武蔵の防御力や浸水に対する設計が優れていた証拠でもある。

武蔵の壮絶な最期を大和の艦上から目撃した宇垣纏中将は、この時の様子をこう書き残している。

「15時30分、艦隊は反転す。本反転において麾下の片腕たる武蔵の傍らを過ぐ。損傷の姿いたましき限りなり。すべての注水可能部は満水し終わり、左舷に傾斜十度くらい、御紋章は表しいるも艦首突っ込み、砲塔前の上甲板最低線漸く水上にあり」(「戦藻録」【著・宇垣纏、原書房刊】)

「注水」とは魚雷で損傷を受けて浸水した場合、艦のバランスを保つため、魚雷を受けた反対側にわざと海水を入れることだ。つまり、武蔵は、注水が可能な場所にはすべて水を入れて、なんとかバランスを保っていた。「御紋章」とは、日本の軍艦の艦首に取り付けられていた「菊の御紋章」を意味する。宇垣中将の記述は、艦首から砲塔がある前の部分が海水に沈みかけていたという意味だ。事実、武蔵は艦首から滑るように沈んでいった。

満身創痍…まるで、源義経を守るため、自ら盾となり、多数の矢を受けて、壮絶な死を遂げた武蔵坊弁慶のようだ。武蔵の防御力に驚愕した米軍は、のちに沖縄沖で大和を攻撃した時には、魚雷攻撃を左舷に集中させ、撃沈している。大和の最期も壮絶なものだった。

大和と武蔵、共に猛攻撃を受けて沈んだが、特に、武蔵のそれは世界の海戦史上で類がないものだった。今後の調査で沈没した武蔵の全容が明らかになることを期待したい。

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