「薩英戦争」

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薩英戦争 ~ 大英帝国を驚かせた和魂洋才

軍艦7隻も送れば、薩摩藩も恐れをなして、すぐに生麦事件の賠償金を支払うだろうと、イギリス側は高をくくっていたが、、、

■1.鹿児島湾に現れた黒い軍艦7隻

文久3(1863)年6月27日、鹿児島湾の入り口にあたる大隅半島南部・小根占(こねじめ)の峰火台から狼煙(のろし)が上がった。3本マストの黒い軍艦7隻が一列になって、湾内に向かって進んでいるのを発見したのだ。各艦のマストにはイギリス国旗が掲げられていた。

イギリス艦隊の目的は、その前年に起きた生麦(なまむぎ)事件に関して、薩摩藩を武力で威圧して、賠償金を払わせようという事であった。横浜近くの生麦村で、藩主の父、島津久光の行列に騎馬のイギリス人たちが誤って入り込み、供回りの藩士たちが1名を殺害し、2名に重傷を負わせた事件であった。

イギリスの公使代理ジョン・ニールはまず幕府の責任を追及し、幕府はニールの要求する回答期限を何度も延ばしたあげくに、横浜港に停泊する12隻の英国軍艦に威圧されて、賠償金10万ポンドを支払った。

20数年前のアヘン戦争では、清国が禁止しているアヘンをイギリス商人が持ち込んだという事から戦争となり、負けた清国は莫大な賠償金と香港の地を奪われた[a]。

そういう先例があるだけに、イギリスの脅しは単なる威嚇ではなく、事件を利用して日本を植民地化しようという意図を持っている、と幕府は判断したのである。

幕府から賠償金をまきあげたニールは、今度は薩摩藩からの賠償金を要求した。幕府は、薩摩藩に関しては関与しないと逃げ、ニールは薩摩藩に直接要求するとした。ニールは、軍艦7隻の偉容を見れば、薩摩藩も幕府と同様、たちどころに自分の要求を受け入れるだろうと考えていたに違いなかった。これがイギリスの砲艦外交であった。

■2.鹿児島湾は要塞化していた

しかし、薩摩藩は当時の日本で最も軍備の近代化に力を入れていた。第8代藩主・島津重豪(しげひで、1745―1833)は、西洋文明に強い関心を抱き、長崎に入ってくる洋書を積極的に購入し、和訳させた。

前藩主・島津斉彬(なりあきら、1809―1858)は曾祖父・重豪の感化を受け、様々な西洋近代の文物の研究製造を行う集成館を設立した。そこでは大砲、小銃をはじめ弾丸、火薬、各種ガラスなどの製造を行った。また造船にも情熱を傾け、日本最初の国産蒸気船を建造している。

斉彬はアヘン戦争を欧米諸国の日本植民地化の前触れと判断し、その危機感から『阿片(あへん)戦争始末記』を著して諸藩に警告を与えた。同時に、最初に侵攻の対象となるのは、地理的に見て薩摩藩と考え、海岸防備に余念がなかった。

斉彬は安政5(1858)年に急死し、弟・久光の子の茂久が藩主となった。久光も斉彬の危機感を継承して、青銅砲の鋳造を推進させ、砲術の研究、訓練をさかんに行わせた。

特に生麦事件の後はイギリス艦隊の来襲も十分に予想されると判断し、それを迎え撃つために鹿児島湾を臨む10カ所に強固な洋式台場を構築し、それらに92門の砲を備えつけた。それらの台場に合計で5千名以上の戦闘員を配置し、火縄銃など旧式だが3千丁以上の小銃を配備した。

弾火薬は集成館で製造された精良品で、戦争が長期にわたっても十分持つように膨大な量が貯蔵されていた。外国商人から購入した蒸気船4隻も待ち構えていた。鹿児島湾は要塞となっていた。

■3.「もはや一戦を交えた後でなければ、談判には応じられぬ」

翌28日朝、艦隊は鹿児島城下前面1キロほどの沖で停止し、一斉に錨を下ろした。これまで眼にしたこともない蒸気艦の群れに城下の上町も下町も騒然とし、人声が飛び交い、家財を大八車にのせて山の手に避難する者が多かった。

藩の使者を乗せた船が旗艦に漕ぎ寄せた。使者は通訳によって将官室らしき部屋に通された。代理公使ニールは桐の箱を使者に渡して、国書が収められていると説明してから、冷たい目つきで言った。

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コノ国書ノ回答ハ、二十四時間以内ニスルコトフ要求スル。ソノ時間フ越エテモ回答ガナイ場合ハ、コノ国書ニ記シテアル如ク我々ハ自由行動フトル。
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恫喝(どうかつ)以外の何物でもない。これ以上の対話は不要だった。使者は軽く黙礼すると、連れだって部屋を出た。「無礼な夷賊(いぞく)め」と使者の一人は吐き捨てるように言った。

国書は、生麦事件の加害者を死刑にする事、犠牲者の身内に2万5千ポンドの賠償金を支払うことを要求していた。藩主・茂久の前に家老以下、藩高官が集まり、対応を議論した。その結果、まとめられた回答書は「本件について幕府からなんの指示も受けておらず、指令が来るまで長崎か横浜で回答を待って欲しい」というものだった。

これを読んだニールは「回答書ハ、我ガ大英帝国フ愚弄スルモノデアリ、極メテ愚カシク不快デアル」と険しい表情で言い、使者が反論すると、憤りをあらわにして、もはや一戦を交えた後でなければ、貴藩との談判には断じて応じられぬ、と脅した。

■4.砲撃戦

7月2日夜明け前、湾内の奥に停泊させていた三隻の蒸気船に英軍艦5隻が密かに近づき拿捕した。これは宣戦布告そのものであり、藩主茂久は総力を挙げて英艦隊を撃滅することを命じた。天候は急激に悪化して豪雨となり、風も強かった。各台場から一斉に砲撃が開始された。

艦隊司令長官クーパーは、拿捕した3隻の薩摩軍艦を保持しながら戦うのは不可能と判断し、それらの焼却を命じた。英兵たちが、艦内のめぼしいものを略奪した後、艦底に穴を開け、火を放った。

英艦には、最新鋭のアームストロング砲が装備されていた。これは砲身内に螺旋状の溝が切ってあり、椎の実型の砲弾が回転しながら飛ぶことで射程も長く、直進性に優れて命中精度も高かった。

一方、薩摩藩の砲は旧式の丸い弾で、射程も短かったが、四方八方の台場から砲弾が飛んできた。日頃の訓練精度も高かった。旗艦「ユーリアラス号」の艦橋近くで砲弾が炸裂し、戦闘指揮にあたっていた艦長ジョスリング大佐と副長ウィルモット中佐が即死した。

英艦隊も各台場に向かって激しく応射したが、風雨で艦の動揺が激しく、命中精度は高くなかった。不発弾も多かった。海面には至る所に水柱が絶え間なくあがり、砲声と風の音が湾内に響き渡った。「パーシウス号」は城下町の海岸に近づき、火箭(火矢)を市街地に放って焼き払った。正午から始まった砲戦は、午後5時過ぎまで続いた。

7月3日、英艦隊は戦死した11名を水葬にした後で、戦列を立て直し、台場と市街地を砲撃した。破壊されていなかった台場からは反撃があった。7月4日、英艦隊は弾薬や石炭の消耗から、引き揚げていった。1艦は損傷も甚だしく、自力航行ができずに、他の艦が曳航していった。

■5.「イギリスの残忍な行為」

鹿児島湾での戦争の第一報を横浜村にもたらしたのは、7月8日早朝に入港したイギリスの郵便船「コレルモンド号」だった。上海から横浜に向かう途中、日向沖で英艦隊に遭遇し、「ユーリアラス号」に同乗していた新聞記者から、記事を託されたのである。

横浜村の外国人たちは、7隻の英国艦隊が鹿児島に赴けば、薩摩藩は恐れをなして、ニールの要求を全面的に受けいれるだろうし、たとえ戦になっても勝敗は歴然としている、と信じ込んでいた。

ところが「コレルモンド号」に託された記事では、「ユーリアラス号」の艦長、副長が戦死するなど、約60名の死傷者を出し、各艦も損傷を受けたことが記されていた。記事は艦隊側の被害に紙面の大半を費やし、英艦隊敗北との印象が強かった。この記事に外国人たちは顔色を失った。

クーパー司令長官は、薩摩藩との交渉、戦闘の全容を本国に報告し、これが10月29日に公表された。その全文が翌日の新聞ロンドン・ガゼットに掲載された。

11月24日付けのニューヨーク・タイムズは、社説で「イギリスの残忍な行為」として厳しい非難を浴びせ、宣戦布告もなく、女、子供、病人が住む町を不意に砲撃した事を、非人道的行為だと糾弾した。

イギリスの新聞も、この戦争は大英帝国の名誉を傷つけるものだという記事をのせ、議会でも市街を焼いた行為は戦争の慣行に背くもので甚だ遺憾だ、という動議が提出されたが、多数派に否決された。

■6.「エゲレス国と和議をむすぶ」

一方、日本国内では、幕府の閣老たちは薩摩藩の予想外の善戦に喜びの声を上げた。朝廷からも薩摩藩への褒賞として、藩主茂久と久光にそれぞれ馬一頭が下賜され、戦闘に従事した藩士たちへとして金十枚があたえられた。

薩摩藩の死傷者は戦闘で10名、市街で9名と、イギリス側よりもはるかに少なかったので、この点では勝利と言えただろう。しかし、薩摩藩は少しも奢ることなく、英国艦隊がまた来襲する恐れありとして、準備に余念がなかった。

久光は英国艦隊が去るや、すぐに各台場を巡視し、実戦に携わった者たちからの建言を聴取し、砲弾よけの塁の構築など、防備強化を命じた。家を焼かれた者たちには、再建の費用を支給した。

さらに家老、側用人たちを集めて、意見を聞くと、「勝ち負けは五分五分」という意見が多かった。特に旗艦「ユーリアラス号」の速度、急反転などの性能と、乗組員の練度の高さを讃える声が多かった。砲も薩摩の旧式大砲の4倍もの射程を持ち、破壊力も圧倒的だった。それらの意見をじっと聞いていた久光が、口を開いた。

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照国公(先代斉彬)様は、異国の兵器とわが国の兵器との差はきわめて大きく、無謀の攘夷はわが国を亡ぼすことにもなる、と仰せられていた。このお言葉をいかに思うか。[2, p101]
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一同、身じろぎもせず、長い沈黙が続いた。今までの藩論は尊皇攘夷で統一されており、藩内には過激な攘夷論者も多い。この一言は藩を大混乱に陥らせ、久光自身の地位も危うくしかねないものだった。そこに、家老の小松帯刀や側役の大久保一藏が「攘夷反対」に同意する声をあげた。その後、言葉を発する者はなく、座敷に静寂がひろがった。

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それでは皆に問う。エゲレス国と和議をむすぶことについて是非をはかりたい。[2, p102]
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小松もその事を考えていたようで、すぐに賛成した。久光は続けた。

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国内は乱れに乱れている。内を整えて、しかる後に外にむかわねばならぬ。御国のためには、いかなるそしりを浴びようとも苦しくない。[2, p103]
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おりしも朝廷は長州藩と少壮公卿の思うままになっていて、攘夷親征を強く迫っている。それを制止するため、孝明天皇は久光の上京を切に願っていた。久光の言葉に、眼をうるませる者もいた。家老と側役たちは、互いにうなずきあった。

■7.「軍艦購入の斡旋を求めたい」

薩摩藩からイギリスに和議を請う恥辱は避けなければとってはならないとして、幕府に仲介の労をとって貰う形とした。代理行使ニールも、幕府仲介による薩摩藩との交渉を喜んで受け入れた。60余名もの死傷者を出し、本国やアメリカからも非難された戦争をもう一度、やり直す気はなかった。

ニールと交渉した重野厚之丞は藩校造士館に学んだ後、江戸で学び、英語の読み書きもできる俊英だった。重野は、英国艦隊がまだ交渉中にも関わらず薩摩軍艦3隻を奪ったことに対し、「人の物を無断で奪うことを、貴国の法では認めているのであろうか」と辛辣な口調で批判し、「戦争は当方から手を出したのではない」と主張した。

重野は議論の先手をとった上で、生麦事件に関しては「殺傷した者を処罰し、賠償金をお渡しする」と明言した。ニールの表情はたちまち和らいだ。重野はさらに、その条件として「軍艦購入の斡旋を求めたい」と述べた。ニールは驚き、部下と顔を見合わせた。

その軍艦が攘夷に使われるのでは、とニールは心配した。重野が、藩主も攘夷に強く反対していて、各国との和親を求めている、と説明すると、ニールはおだやかに言った。

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貴藩ガ我ガ国卜長ク懇親フ望マレルト言ウナラ、軍艦ノミニカギラズ他ノ物モオ世話致ス。[1, p134]
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イギリスは、薩摩藩も幕府や清国と同様、アジア的な停滞の中に眠っていると考えていたが、いざ戦ってみるとまったく違った姿を発見した。それは西洋文明を積極的に取り入れ、かつ、イギリスの騎士道精神に通ずる強い武士道精神の持ち主だった。

死力を尽くして戦った後に、この薩摩ならパートナーとして頼りになる、と思ったのだろう。

薩摩が薩英戦争で発揮した、近代文明を積極的に取り入れつつ、武士道精神を発揮する、という和魂洋才の姿勢は明治日本が国家的規模で再現し、イギリスとの信頼関係は日英同盟にまで発展していくのである。

                                       

(文責 伊勢雅臣)

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