日本を取り戻す12の言葉」

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以下は日頃述べていることの要約です。

1  天皇
2  大御宝・黎元(おほみたから)
3  知らす(しらす)
4  神語(かむかたり)
5  諸命以(もろもろの みことをもちて)
6  豈国(あにくに)
7  隠身(みにかくす)
8  結(ゆい・むすひ)
9  武・建(たける)
10 明察功過
11 君が代
12 数詞(かぞへことば)

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1 天皇
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日本という国号が最初に出てくる文献は701年の大宝令です。
そこには、ひとつまえの飛鳥浄御原令(689年)に、国号が倭国から日本に代わったという記述があります。
けれども天皇の存在は、それより1350年も前の神武天皇にはじまります。
日本は世界で二番目に古い国であるデンマーク(建国から約千年)よりも二倍以上も古い歴史を持つ国ですが、その日本よりも天皇の存在は古いのです。

その天皇は、いまも昔も国家の最高政治権力者ではありません。
Chinaの皇帝や西洋の王と同じだけの権力を持つのは、奈良平安の昔なら太政大臣だし、武家の時代なら将軍ですし、明治以降なら内閣総理大臣や三権の長であって、天皇はそうした政治の最高権力者よりも、さらに上位の存在です。

英語にはこのことを示す適切な単語がなく、そこで「シンボル(symbol)」という用語を使って現行憲法が記述され、それを日本語に訳す際に「国民統合の象徴」と書かれたわけですが、その意味するところは、天皇は国家権力の長ではなく、国家権力よりも上位にあるという一点です。

権力が国家最高の地位にあれば、その最高権力者に責任を追求することはできません。
これは国家最高の権力者が、国家最高の無責任者となっていることを意味します。
会社の社長が、権力権限はあっても責任は負わないというのでは、会社は潰れてしまいます。

日本が、世界最古の国家として歴史をつむいでいる究極の理由、それが国家最高権力者よりも上位に、国家最高権威としての天皇の存在を置いてきたという、この一点です。

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2  大御宝・黎元(おほみたから)
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天皇が国家最高権威であり、その国家最高権威によって、我が国の領土領民のすべては、天皇の「おほみたから」と規程されます。
「おほみたから」は漢字で書くと「大御宝」ですが、記紀はこれを「黎元」と記述しています。
「黎」というのは、私達が生きるのに必要な食物(穀物)のことです。
その食物をつくっている人たち、つまり生産者のことが「黎元」です。
社会の末端にあるように思われがちな民衆こそが、我が国最高の権威(天皇)によって「おほみたから」と規程されているのです。

ですから当然、天皇の下にあるものはすべて「おほみたから」です。
政治権力者も、一般の庶民も国土も、すべては天皇の「おほみたから」です。

そしてこのことから、権力者は、領土領民を私物化できなくなります。
権力者は、天皇から「おほみたから」である領土領民をお預かりしている立場です。

そこから権力を持つ者の役割は、領土領民が、豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくことが使命と規程されます。
世界中、もしかしたら21世紀となった現代においても、民衆はただの使い捨ての駒のようにしか認識されていないような国もある中で、我が国は、上古の昔から、全ての領土領民は「天皇のおほみたから」とされきた歴史を持ちます。

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3  知らす(しらす)
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政治権力者は、誰がどうみても「人」であって、神ではありません。
天皇は、我が国の最高神である天照大御神から続く直系のお血筋として、神々と直接つながるお役目です。
これを「知(し)らす」といいます。

つまり天皇の権威は、神々と直接つながるお血筋とお役目によって形成されています。
権力者よりも、神々ははるか上位の存在です。
従って、その神々とつながる天皇の存在は、権力者よりも上位となります。

権力者が、自分よりも下にいる人達を、自分の支配下にあるものとすることを「ウシハク」といいます。
「ウシ」は主人のことで、「ハク」は大刀を腰に佩(は)くというように、私有することを言います。

我が国の最大の特徴は、シラスの中にそのウシハクを内包させたことにあります。

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4  神語(かむかたり)
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神話(しんわ)という用語が近年では一般的ですが、神話という語は、英語の「MYTH」の翻訳語として、幕末につくられた新造語です。
ですから江戸時代以前には「神話」という語はありません。
ではなんと呼んでいたのかというと、「神語(かむかたり)」です。
幕末の翻訳家たちが「神語」という用語がありながら、意図して「神話」という用語を造語したことには理由があります。

私達は両親から生まれますが、それぞれの家系をたどると、だいたい400年くらい前までは、○○家といった、各家のご祖先をたどることができます。

ところが、それよりも、もっと古い時代までたどっていくと、すべての家系のご祖先は重なり合ってきます。

早い話、いま生きているひとりの人の祖先は、30代前には10億人の祖先がいなければならないことになってしまいます。

30代前というと、7百年前の鎌倉時代です。
日本の歴史は、新石器の時代の3万年前にまでさかのぼりますから、要するに日本人であれば、誰もが祖先がかぶっている・・みんな親戚であるということになります。

つまり、それぞれの家系ごとのご祖先ではなく、すべての国民に共通するご祖先の時代から伝わる歴史物語りのことを、昔は「ご先祖を上(かむ)の方にずっとたどっていった物語」として「かむかたり」と呼んだのです。

それはたいせつなご祖先からのメッセージであり、何百年、あるいは何千年という歳月を生きのびてきた教えです。

これに対し、英語の「MYTH」は「根拠のない作り話」という語彙があります。
私達のたいせつなご祖先からの贈り物である神語と、根拠のない作り話とされている外国文学を一緒にされたくない。
だから幕末の翻訳家は、神語に代えて、神話という用語を造語したのです。

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5  諸命以(もろもろの みことをもちて)
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その神語に書かれた重要語のひとつが、「諸命以」です。
普通は「もろもろのみこともちて」と読みますが、これですと11文字で字余りになりますので、七五調に整えて「もろもろの みことをもちて」と読み下したいところです。

この言葉は古事記に出てきます。
我が国初の男女神であるイザナキとイザナミは、その行動のすべてを、自分たちよりももっと古い神様である創生の神々の「もろもろ(諸)の」、「みこと(命)」のままに、つまりすべてをご神意によって行動してきたということを意味する言葉です。

神々でさえも、それより上位の古い神様の言う通りに行動したのです。
まして人の身であればなおのこと、神々のお命じになられるとおりに身を律して生きていかなければならない、とされてきたのが、日本です。

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6  豈国(あにくに)
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ではなぜ神々の命じるままに生きることが良いことなのかという理由が、日本書紀に書かれています。
それが「豈国(あにくに)」です。
「豈」という字は、神社などでよろこびのとき、楽しいときにのみ打ち鳴らす「楽太鼓」を示す象形文字です。
つまり神々は、よろこびあふれる楽しい国をお望みなのです。
そういう国を、私達日本人は、時代を越えて、みんなで作っていこうと努力を重ねてきた歴史を持ちます。
それが「豈国」です。

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7  隠身(みにかくす)
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ではどうして神々のご意向が大切なのかという理由が「隠身」です。
これで「みにかくしましき」と読み下します。
古事記には、万物創生の七柱の神々は、お成りになられると、すぐにそのすべてを、その神様の胎内に入れたと書かれています。
母体にとって、胎児はその一部です。
つまり私達の住む世界は、神々の胎内にあると古事記は説いているのです。

胎児には細胞があり、細胞のひとつひとつは、生まれては死ぬという代謝を繰り返しています。
私達ひとりひとりは、その細胞のひとつです。
そして私達が、よろこびあふれる楽しい元気いっぱいに育っていくことが、神々にとっての幸せでもあるし、神々の願いでもあるのです。
だからこそ、互いに協力して、みんなで幸せを築いていく。
自分だけの贅沢を求めたら、それは癌細胞です。

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8  結(ゆい・むすひ)
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この「みんなで幸せを築いていく」ために必要な概念が「結」です。
これは「ゆい」とも読みますし、「むすひ」とも読みます。
みんなで幸せを築くということは、誰かひとりの英雄がいい思いをすることではありません。
また、英雄によって世界を変えるというようなものでもありません。

どこまでも人と人とが結びつき、その結びつきの環を広げていくことで時代を築くのです。

人や政治をただ批判するだけでは、実は何も変わらない。
そうではなくて、よろこびあふれるたのしい国を築くために、ひとりひとりが結びついていく。

我が国では、そこがいちばんたいせつにされます。
これが「結(ゆ)い」です。

そしてその「結(ゆ)い」は、別な言い方で「むすひ」といいます。
「ひ」というのは、「霊」や「魂」のことで、「むす」は「産」で、新しい命を生むことを意味する漢字です。
つまり魂が、別な魂と結ばれて、新たな魂を授かり誕生させていく。
これを「むすひ」と言います。

一見すると、婚姻によって子が誕生することを言っているようにも見えますが、意味はもっと深くて、人と人とが結ばれること、神々と結ばれることなど、すべての「むすび」のことをいう言葉です。

そしてここが大切なのですが、むすぶのは「ひ」であるということです。
たとえば結婚は、もともとは「結魂」です。
人は魂が本体、肉体はその乗り物にすぎず、男女が結ばれて神様の前で魂をむすぶ儀式が「結魂の儀」であるわけです。

日本を取り戻すというのは、誰かひとりが先導者となって道を説くというものでもなければ、巨大資本によって新しい日本の支配者を作り出すことでもありません。
日本人同士が、互いに自分の魂の存在を自覚して、その魂と魂を結んでいくこと。
その輪が広がったとき、そこに本当の日本が蘇ることになるわけです。

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9  武・建(たける)
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人の世は、常に混沌がつきまといますが、その混沌を整えて、まっすぐにする力のことを「たける」といいます。
「たける」は「竹る」で、竹のように真っ直ぐにすることです。
日本武道は世界的に有名ですが、その日本武道は、人を殺すマーシャルアーツや、喧嘩や試合に勝つためのスポーツ、あるいは他人を支配するための武力や暴力などとはまったく異なるものです。

ゆがみを整えて真っ直ぐにする力の善用の心技体を鍛えるのが、我が国の武の道です。

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10 明察功過
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「功過を明らかに察しよ」と読みます。
「功」は功績、「過」は、あやまちのことです。

江戸時代、徳川将軍吉宗の治世の享保年間の20年、江戸の小伝馬町の牢屋に入れられた囚人の数は、ゼロ人です。
これはお役人がサボっていたからではなくて、お役人がそれだけ一生懸命仕事をした結果です。

火事に例えるとわかりやすいです。
火事の多い消防署は、常に大忙しです。
消火をし、人命救助にあたる消防士は、民衆のヒーローです。

けれど、本当は火事そのものがないほうが良いのです。
ですから本来の消防署の役割は、起きた火災を消火することもさりながら、火事そのものの発生を抑止するということが肝心です。

そのためには、所轄地域をくまなくまわり、火災防止の啓蒙運動をし、防火体制や万一のときの消火設備の点検をし、あるいは放火被害に遭いそうなところは、事前にチェックして対策を講じる、放火しそうな人間には、絶対にそれをさせないように、周囲で注意する体制を築くとともに、そういう人間を最初から隔離するなどの活動が必要です。

けれど、それをやる消防士は、ヒーローになるどころか、「うるさい奴らだ」と敬遠されます。
それでも予防処置をする。
そうすることで民衆の暮らしを守る。
それこそが消防士たちに与えられた最大の天命です。

消防だけでなく、警察も、お役所も、災害対策も学校教育も、すべてあらかじめ読んで対策を講じる。
ほんのわずかな徴候も見逃さない。
イジメなんて起こさせない。
これが人の上に立つものに与えられた憲法(いつくしき のり)です。

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11 君が代
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国歌である「君が代」の君は、大君、すなわち天皇のことを意味します。
ですから古今和歌集(905年に奏上)に、はじめにこの歌が紹介されたときは、歌い出しは「わがきみは」となっていました。
ただそれが、およそ百年後の1018年に成立した和漢朗詠集では「きみがよ」に変化した、実はここが大事なところです。

古来、大和言葉で「き」は男、「み」は女を意味します。
ですから、いざなう男でイザナキ、いざなう女でイザナミですし、翁(おきな)、嫗(おみな)という言葉もあります。

「千代に八千代にさざれ石の巌となりて」と歌は続きますが、さざれ石というのは、我が国固有の岩石で、小さな石が寄り集まって巨大な岩石となっている石のことです。

また「八」は霊数で、「たくさんの」を意味しますから、千代に八千代には、千年の時を越え、また数え切れないくらいたくさんの千年を積み重ねた未来永劫、はじめはたった二人の結びでも、子が生まれ、孫が生まれ、子々孫々にいたるまで何千人、何万、何十万、何億万の未来永劫に至るまで、そして苔の産すまで、ずっとずっと幸せにいようね、というのが、続く歌詞の意味になります。

おそらくは、君が代が祝の賀歌として日本中に広まっていく過程の中で、「我が君は」の初句が、男女の結びを意味する「君が代」に代わっていったのでしょう。

そしてそれを平安中期の藤原公任は、朗詠のための歌集、つまり歌うためのソングブックとして和漢朗詠集を編纂するに際して、世間に流布した婚姻の儀の際の歌謡として広く歌われていた「君が代」を収録し、それが現代にまで歌い継がれているわけです。

前にも書きましたが、世界で二番目に古い国家がデンマークです。
そしてそのデンマークと同じだけ古くから、ずっと歌い継がれてきた歌が「君が代」です。
古いということは、それだけで価値のあるものです。

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12 数詞(かぞへことば)
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1〜10までを数える際に、
「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな、や、ここ、とぉ」
という言い方が古い昔から行われてきたことは、ご存知の通りです。
日本語は言霊によって成り立ち、一語一音一義が特色の言語です。
そして数詞(かぞへことば)には意味があります。

「ひ」 霊(ひ)のことです。何事も御霊が先です。
「ふ」 生(ふ)のことで、御霊(ひ)から生命が誕生します。
「み」 身(み)誕生するのが「身」です。
「よ」 世(よ)身が織りなす世です。
「い」 齋(い)「いつき」とも言いますが、不浄を清めた神聖なという意味です。
「む」 無(む)は神聖を意味し無であることによって億兆に心が通います。
「な」 菜(な)食のことです。
「や」 家(や)住まいです。
「こ」 子(こ)子供たちです。
「と」 戸(と)戸がひらきます。

まとめると、肉体が今生を生きているということだけでなく、永遠の生命である御魂の存在を自覚し、その御魂の乗り物である身が織りなす世を清め、自分自身を無とすることで億兆と心を通わせ、衣食住を足り、子どもたちの未来を担い、新しい世を築いていく。
そのために私達は生きているというわけです。

もちろん「ひ」は火、「ふ」は風、「み」は水を表すといった説もありますし、「九十」の九は「苦」であり、苦を乗り越えることで「十」、すなわち「充足に至る」という説もあります。
他にも諸説あります。

古い日本語の言葉は、意味は八通りに深さがあると言われます。
八は霊数で「数え切れないくらいたくさんの」を意味しますから、やさしい解釈から奥深い解釈まで、幾通りもの解釈があるのです。
ですから、上に述べた数詞の意味は、そのなかのごくひとつであるにすぎません。

ここで日本を知るにあたっての重要語のひとつに数詞(かぞへことば)を選んだのも、実はそこが理由です。
表面上の意味を読んで、それだけでわかった気になって思考停止に陥るのは、実にもったいないことです。
そこから更にもっと奥を極めていく。
それができる面白さを持つのが日本文化ですし、その楽しさ、おもしろさのなかに、まさによろこびあふれる楽しいクニを取り戻す鍵があるのだと思います。

もっと言うと、縄文以来1万年以上に渡って続く太くて古い文化が日本にもともとあるのです。
そしてその文化は私達の生活や人生に密着し、言霊となって日本文化を形成しています。

だから日本人は、諸外国から様々な文物が入ってきても、それを柔軟に消化していくことができるのです。
もし、元になる文化がなければ、ただ外国の文化に染まるだけです。
染まるのではなく、採り入れる。
かぶれてはいけません。

かぶれたら、おそ松くんのイヤミになって笑われるだけです。
そうすることで、より良い豈国(あにくに)を築いてきたのが日本人です。

外国から入ってきた人や、日本人と取引する人たちは、日本人の寛容さの前に、自分たちのわがままが通ると勘違いします。
なかでも魂という概念を持たない、西洋社会にあるような宗教的価値観さえも持たない人たちは、我が身の利益ばかりを望みますから、一時的には日本を利用することによって巨利を得ることができたりします。
けれど決して長続きしません。

メッキが剥がれ自滅します。
それはまるで日本外史にある「鎧袖一触(がいしゅういっしょく)」のようなものです。

日本人の本質を突いた深い文化の前に、目先の欲望など、まるで歯が立たないのです。

それが日本であり、日本の持つ底力です。

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