「21世紀の大改革とは」

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21世紀の大改革とは

今日の記事は、URLにあるように、ねずブロの第4000話です。ここまでやってこれたのも、ひとえに皆様のおかげです。心から感謝申し上げます。

今年は今上陛下の御譲位、新天皇の御即位が行われます。
こういう年には、正邪の識別が明確になるという特徴があります。
いまこの瞬間にどんなに巨大な権力をもっていても、邪は滅びの道をたどります。

そして昭和から平成に代わって以降、日本の形が大きく変化したように、新しい価値観が台頭します。
日本がいま、生まれ変わろうとしています。

先日、額田王の歌を万葉仮名で読み解くという試みをご紹介しましたが、カナで書かれたものと、万葉仮名で読むときと、実は意味合いがまったく異なっていることにあらためて衝撃を受けられた方も多いかもしれません。
簡単に要約すると、額田王の有名な歌、

あかねさす紫草野行き標野行き
野守は見ずや君が袖振る

は、万葉仮名では、次のように書かれています。

【題詞】天皇遊猟蒲生野時額田王作歌
茜草指  武良前野逝  標野行
野守者不見哉  君之袖布流

題にある「天皇遊猟蒲生野時」というのは、668年5月に行われた天智天皇ご主催の蒲生野での遊猟会を指していて、仮名で書かれている歌にある「紫草野行き標野行き」は、カナではどちらも「行き」ですが、万葉仮名では「武良前野逝 標野行」と、「逝」と「行」を使い分けて書いてあるわけです。

使い分けているということは、そこに何か意味があるということですから、漢字の意味をひとつひとつ紐解いていくと、この歌の現代語訳は次のとおりになります。

アカネ草で染めるように指し示す
バラバラな世を立て直す良き武の力
その指し示す道行きを
地方豪族たちも見て
大君の指導(袖振り)を受け入れていくことでしょう

要するに、天智天皇が催された遊猟会の席上で、霊力を持つとされた額田王が、一見、ただ「野守りに愛情表現を見られてしまい恥ずかしいですわ」と詠んでいるようでいながら、その実、天智天皇の御徳を讃えている歌を詠んでいるとわかるわけです。

天智天皇(御在位668-672)は第38代天皇で、もとの名前が中大兄皇子であり、乙巳の変で蘇我入鹿を討ったことでも有名です。
この事件について、人によっては「クーデター」と書いている方もおいでになりますが、それは間違いです。

クーデターというのは、もともとフランス語で「国家に対する一撃」を意味する言葉で、暴力的な手段によって下位の者が国家権力に打撃を与える政変のことを言います。

乙巳の変の場合、蘇我入鹿は権勢を誇った一大権力者ではありますが、それを討ったのは皇子です。
我が国では、政治権力よりも上位にご皇室があります。
従って乙巳の変は上意討ちであって、クーデターには該当しません。

ではなぜ中大兄皇子が蘇我入鹿を討ったのかといえば理由は明確です。
蘇我入鹿は、大臣という天皇の臣下の立場にありながら、事件の前年(644年)に築いた甘樫丘の邸宅を、部下たちに「宮門(みかど)」と呼ばせ、また自分の子女を皇子、皇女と呼ばせ、さらには畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行したのです。

要するに蘇我入鹿は、その富を背景として天皇を僭称したのであって、これを放置すれば、天皇の地位が簒奪される危険があり、さらには天皇と権力が一体となって、我が国古来の国家最高権威と国家最高権力を立て分けるという国家存立の基本を我が国は失うことになってしまうのです。

さりとて皇極天皇が直接蘇我氏を討伐することはできません。
天皇は国家最高の権威であって、討伐は政治権力が行うことだからです。
そこで皇子であられる中大兄皇子が立ち上がり、我が国が歪むことをただしたのが乙巳の変です。

中大兄皇子は、蘇我氏を討つと、すかさず大化の改新を行っています。
大化の改新での最大の眼目は公地公民制です。

天皇や諸豪族がそれぞれに所有していた土地や人民等をすべて天皇のもの(おほみたから)とする。
つまり、もともと土地も人民もすべては神々がお生みたもうたものなのだから、それぞれの諸侯が「俺のもの」にするのではなく、すべて神々のものであるという原点に還るというのが、公地公民です。

そして最高神である天照大御神からの直系の御子孫であられる天皇が、神々に代わって土地や民衆を「おほみたから」とする。
ただし、天皇は天照大御神からの直系の子孫として国家の最高権威であって、政治権力は揮(ふる)わない。

学者さんによっては、その後も豪族たちの土地所有は変わらずにあるのだから、実際には公地公民制は機能しなかったとしている先生もおいでになりますが、これまた考え違いと言わざるを得ません。

公地公民になったとしても、たとえば上総国を治める豪族がもとからいたとすれば、その豪族の地位も、豪族の管理する土地も人民も、当該豪族の所有のままであることには、公地公民制の前も後も、まるで変わりがないのです。

変わるのは、民衆の地位です。

公地公民制が敷かれることによって、民衆は豪族の私的所有民(つまり『俺のもの』)ではなくて、民衆はどこまでも天皇のものであり、豪族はその天皇の民を預かっている立場となります。

そうすることによって、権力者はどこまでも天皇の民である民衆が、豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくことが課題であり、権力者はそのための存在になります。

公地公民制がなければ、民衆は権力者が自己の贅沢な暮らしのために使役する隷民となります。

見た目の形は、豪族の下に民衆がいることに違いはありません。
けれども、その民の位置付が天皇の「おほみたから」であるのか、豪族の私有民であるのかでは、天と地ほどの開きがあるのです。

けれど、こうした体制を敷くことは、なるほどそれが民衆のためであり、世のため人のためになることであったとしても、民衆の中には公然と豪族に反旗を翻したり、あるいは豪族によっては、上辺は朝廷の意向を受け入れながらも、実際には民衆に対する苛斂誅求を改めないようなケースは、全国レベルで見れば、当然あったであろうことは容易に想像できることです。

つまり公地公民制を布いたからといって、もちろんそれが上古の昔から伝わる我が国の伝統であったとしても、これに逆らう人(要するに反対派の人)というのは、いつの時代にも必ずあるものです。

ですから改新の詔を発布したからといって、すぐに我が国の習慣が改まるわけではないし、とりわけ地方や中央の有力豪族の反発もあることでしょう。

しかもこの時代、白村江の戦いの敗戦によって、いわば中央の権威は地に落ちてしまうのです。
そうした中にあって、大化の改新をすすめて、あらためて天皇を中心とした世の中を取り戻すためには、誰かが強引なやり方で悪者になるしかありません。

中大兄皇子は、見事にその役割を果たし、天智天皇として天皇即位後には、ほぼすべての豪族たちは、我が国の国家としての理想を理解するようになります。

そして、そんなときに行われた天智天皇主催の遊猟会の席で、額田王は、「大君の指導(袖振り)を受け入れていくことでしょう」と、冒頭の歌を献上しているわけです。

ちなみに表向きの歴史は、このあと道半ばにして天智天皇が倒れられ、息子の大友皇子が第39代弘文天皇に即位(即位の儀はなかったという説もあります)され、これを不服とした天智天皇の弟の大海人皇子が弘文天皇を討って(壬申の乱)、第40代天武天皇に即位されたことになっています。

ところが不思議な事に、天智天皇と天武天皇、そしてその後に続く持統天皇の向かおうとした統治の方向は、実はまったく同じです。
しかも持統天皇は、天智天皇の娘であり、天武天皇の妻でもあります。

我が国では古来、人心をひとつにするために、トップにある人が、一部の反対派の人たちの恨みを一身に集めて殺害もしくは討ち滅ぼされ、これを滅ぼした人によって、政策の反対派ともとからの賛成派が一体となっていくということが、間々行われてきた歴史を持ちます。

この時代においても、おそらくは、天智天皇と天武天皇は、兄弟そろって国をひとつにまとめるために、まずは兄の天智天皇がすべての泥をかぶる。

すると改新の反対派の人たちは、いきおい意見を押し付けられることになる。
そこでその反対派の人たちを弟が取りまとめて、兄の路線の後継者(兄の子の大友皇子)を討つ。

これにより反対派は溜飲を下げていうことを聞くようになるし、賛成派の人たちはもともとちゃんと趣旨を理解しているから、問題なしということで、国がひとつにまとまる・・・ということが起きたのではないかと、個人的には思っています。

天皇の存在は、日本という国号よりも古く、そして天皇は権力者ではなく、上古の昔から国家最高権威です。

天皇親政とは言っても、天智天皇の大改革は、天智天皇が中大兄皇子であった時代です。
天皇即位後は、弟の大海人皇子や中臣鎌足などが表舞台での政治を行っています。

天武天皇即位後は、実際に政治の現場で辣腕をふるったのは、後に持統天皇となる鸕野讚良皇后(うののさらひめみこ)です。
そして持統天皇の時代に、政治権力をふるったのは我が国初の太政大臣となった高市皇子(たけちのみこ)です。
要するに、権威と権力の建て分けに、ものすごく大きなこだわりをみせているのです。

いずれにせよ天智天皇、天武天皇、持統天皇のこの時代に我が国は
1 律令制(法制度)の確立
2 行政機構の整備のための都の造営
3 国内のアンデンティティ統一のための史書の編纂
という3つの大事業を通じて、我が国を天皇を中心とした完全な統一国家とする道を歩んでいます。

そしてこの7世紀の大改革こそ、実は「神武創業に還れ」という大事業であり、それは上古の昔から続く「何事も神々の命(みこと)を以て」とする神国日本の原点に回帰する運動であったといえます。
明治維新も、実はそれと同じことが行われている。

神武天皇の即位は、紀元前660年というのが定説です。

近年では二倍年歴法によって、神武天皇の時代は3世紀頃になるのではないかという説もあります。

しかし神武創業も、もとをたどれば天照大御神の高天原の統治や、国譲りといった神語りをベースにしています。

神語りというものが、いつの時代に生まれたものかについては、諸説ありますが、縄文時代の始まりが1万7千年の昔に遡ることを考えれば、ゆうに1万年以上もの昔からの我が国の形を、あらためて国家の形としたのが、神武創業であり、7世紀の大改革であり、19世紀の明治維新であったのであろうと思います。

いま私達は、いまいちど日本という国を取り戻そうとしています。
そしてその取り戻すべき日本の形は、すべての民衆は天皇の「おほみたから」であるとする、シラス国日本です。

今年は今上陛下の御譲位、新天皇の御即位が行われます。
こういう年には、正邪の識別が明確になるという特徴があります。
いまこの瞬間にどんなに巨大な権力をもっていても、邪は滅びの道をたどります。

そして昭和から平成に代わって以降、日本の形が大きく変化したように、新しい価値観が台頭します。

日本がいま、生まれ変わろうとしています。

ともに笑顔で邁進してまいりたいと思います。

ねずさん

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