「漢字」

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亀甲文字や鹿骨文字を組み合わせて新たな意味を持たせると、それが会意文字(漢字)になります。
会意というのは「意味を合わせた」というもので、いわば漢字の熟語のようなものです。

単漢字よりも熟語の方が、はるかに多くの意味を込めることができるように、単音の神代文字よりも漢字のほうが、一字に複数の意味をもたせながら、さらに複雑な意味をもたせることができるようになります。

私達の祖先は、漢字を輸入したのではなく、活用したのだ、ということが、私は正解であろうと思っています。

なぜ私達の祖先は漢字を用いたのかを、『万葉集』にある額田王の歌を題材に考えてみたいと思います。

『万葉集』は759年に成立した我が国最古の歌集です。
『万葉集』で有名な和歌といえば、たとえば額田王(ぬかたのおほきみ)の

あかねさす紫草野行き標野行き
野守は見ずや君が袖振る

があります。
この歌の歌意は一般に「茜色に輝く紫草の禁野で、あなたが私に袖を振る様子を野守が見てしまうのではありませんか」といったものであるとされています。

ところが実は、このような「漢字仮名交じり文」で一般に知られているこの歌は、実は『万葉集』では漢字ばかりで次のように書かれています。

【題詞】天皇遊猟蒲生野時額田王作歌
茜草指  武良前野逝  標野行  野守者不見哉  君之袖布流

題にある「天皇遊猟蒲生野時」というのは、668年5月に行われた天智天皇ご主催の蒲生野での遊猟会を指します。
旧暦の5月5日は、いまの暦ですと6月中旬になります。
ちょうど梅雨の始まる前くらいの季節です。

歌の冒頭にある「茜草」は、2字で「アカネ」読みますが、アカネの開花時期は8〜9月です。
従って、ここでは「アカネ」の花を詠んでいるのではなく、単に草としてのアカネのことを言っているとわかります。
アカネは、「アカネ色」という言葉があるように、古来その根が、染料として用いられます。

つまり「茜草指」と書くことで、「染料として用いられるアカネ草で染めるように、指し示す」という意味がここに込められていると考えられます。

同時に空がアカネ色に染まる時間帯、夜明け、夕方の時間帯の意味にもかかります。

問題は次の2句です。
「武良前野逝」(むらさきのいき)
「標野行」(しめのいき)
とありますが、ここで額田王は、同じ「いく」に、「逝」と「行」と、二つの字を使い分けています。

「逝」は、バラバラになってしまうこと、いわば破壊されることを意味する漢字です。ですから肉体が破壊されて魂が去っていくことを「逝去」といいます。
「行」は、十字路の象形で、「みち」や「進んでいく」ことなどを表す字です。

はじめにある「武良前野逝」は、これで「むらさきのゆき」と読み下すとされていますが、字を見れば
「武」=たける、歪んだものをまっすぐにすること
「良」=良いこと
「前」=まえ、物事をきりひらくこと
「野」=野原
「逝」=バラバラ
という組み合わせです。

したがって「野原の草木のように、バラバラで収拾のつかない状態のものをまっすぐにして良い方向に導くためにものごとを切り開く」という意味が、込められているとわかります。

次の「標野行」は、野を進むための道標(みちしるべ)です。

ここまでを意訳すると、
「野原の草木のようにバラバラで収拾のつかない状態になっている世を、まっすぐにして良い方向に導くために、染料として用いられるアカネ草で染めるように、世の中の進むべき道を切り開いて指し示す」
となります。

下の句の「野守者不見哉」の「野守」は、野原の番人ですが、野という以上、ここまでの歌意からして、バラバラに育っている野草たちを指しているといえます。

「不見」は、「見ず」で、これは見ていないこと。
「哉」は、言葉を断ち切るときに用いられる字で「や、か」などと読みます。

つまり「不見哉(みずや、みずか)」は、これまでバラバラでいて中央の政令を見ようとしなかった野守たち(つまり全国の諸豪族たち)が、その見ないでいることを断ち切る、つまり「見るようになる」ことを意味しています。

「君之袖布流」の「君」は、ここではもちろん「大君」、つまり天智天皇を意味します。
「之」は、実は「行く」と同じで、いまいるところから一歩前に出ることを意味する漢字で、「の」だけでなく「ゆく」とも読む漢字です。

「袖布流」は、単に袖を振るですが、「布」という字は「布(し)く」とも読みますので、「布流」で、「流れに布(し)く」を意味します。

従って下の句の「野守者不見哉  君之袖布流」は、意訳すれば「これまでバラバラでいて中央の政令を見ようとしなかった地方豪族たちが、大君が布いた流れを見るようになる」を意味することになります。

そこで上の句と下の句をつなげてみると、
「これまでバラバラでいて中央の政令を見ようとしなかった地方豪族たちが、大君が布いた新しい政治の流れをしっかりと見るようになった」
という意味が、この歌に込められているとわかります。

その意味からすると、この歌の読みと歌意は、

茜草指    あかねさす
武良前野逝  むらさきの逝き
標野行    しめの行き
野守者不見哉 野守は見るか
君之袖布流  君の袖振る

(歌意)
アカネ草で染めるように指し示す
バラバラな世を立て直す良き武の力
その指し示す道行きを
地方豪族たちも見て
大君の指導(袖振り)を受け入れていくことでしょう

となります。

天智天皇が催された狩猟会の席上で、霊力を持つとされた額田王が、この歌を天皇に献上する。
歌は、一見、ただ野守りに愛情表現を見られてしまい恥ずかしいですわ、と詠んでいるようでいて、その実、使っている漢字を見れば、天皇の御徳を讃えている。
さすがは額田王と、周囲の人々も喝采を送る。

そのような歌であるように思います。
なぜそのようにこの歌を受け取るのかと言うと、理由は5つあります。

1 天智天皇の時代は日本を統一国家にするためにあらゆる手立てが講じられた時代であったこと。
2 この時代に漢字を用いて大和言葉を記述するという習慣が始まっていること
3 もともと我が国の神代文字は、カナの一文字ごとに深い意味を持たせるという習慣があったこと
4 漢字は、その神代文字を組み合わせることで、さらに複雑な意味を持たせることができるように工夫された文字と考えられること
5 その漢字を国内に普及することで統一国家にふさわしい統一文字の使用促進が図られていた時代であったこと。

「1 天智天皇の時代は日本を統一国家にするためにあらゆる手立てが講じられた時代であったこと」は、わかりやすいと思います。

白村江の戦い(663年)の敗戦のとき、我が国は全国から百済救援のために4万2千の大軍を半島に送り込んでいます。
この時代の日本の人口は、およそ500万人です。
つまり人口の100分の1、今で言ったら、120万の大軍です。
それだけの兵を全国から集めて、敗戦しているわけです。
国内が相当混乱し、地方豪族たちの気持ちが中央から離れてしまう、つまりこれは国家存続の一大危機にあったわけです。

つまりこの時代の政治の最大の課題は、国内がバラバラにならないように再統一すること、海を渡って日本に攻め込む計画のあった唐軍への備えを何が何でも厳重にしなければならないことにあったわけです。
そしてこの歌は、そのわずか5年後に詠まれている歌です。

それがどういう時期に当たるかは、終戦の5年後の昭和25年の状況を考えれば、理解しやすいと思います。
昭和25年は、政府の指導によって、焼け野原だった国土が猛烈な勢いで復興され、民間に活力が戻ってきた時期にあたります。

そしてこの時代に、「2 この時代に漢字を用いて大和言葉を記述するという習慣が始まって」います。

それまでも文字は使われていましたが、我が国は歴史の古い国柄です。
およそ3万年前には、日本列島での生活が始まり、島国ですから、豪族毎に互いに血が混じります。

つまり歴史をたどれば、誰もが親戚関係にあるのが我が国です。
それだけに、地方ごとに方言があるように、記述する文字も、地方ごと、豪族毎にバラバラでした。
漢字渡来以前の神代文字の種類は、いまわかっているだけで300種類を超えます。

同じ大和言葉でありながら、地方によって方言が違う、文字も違う。
これでは統一国家になりえません。
そこで新たな取組として、漢字を用いて大和言葉を記述するという方式(万葉仮名)が用いられ始めたのが、この時代になります。

これには抵抗がないのです。
なぜなら、神代文字はもともと亀甲文字、鹿骨文字から生まれていますが、もともとは文字というよりも、骨を火であぶったときに現れるひび割れのパターンを記号化したものです。
そのパターンによって、いろいろな意味や解釈が行われ、それが占いになっていたわけです。

そういうことが何百年、あるいは何千年か続けられると、そのひび割れパターンのそれぞれごとに名前が付けられ、その名前ごとに、音が当てられて、それらが文字となって定着していきます。
ですから我が国は、いまだに一音一意味の五十音を用いているわけです。

ところがそうして形成された亀甲文字や鹿骨文字を組み合わせて新たな意味を持たせると、それが会意文字(漢字)になります。
会意というのは「意味を合わせた」というもので、いわば漢字の熟語のようなものです。
単漢字よりも熟語の方が、はるかに多くの意味を込めることができるように、単音の神代文字よりも会意文字のほうが、一字に複数の意味をもたせながら、さらに複雑な意味をもたせることができるようになります。

冒頭の「茜草指」も同じです。
「あかねさす」では、単に夜明けや夕方に茜色に染まった空をイメージするだけになりますが、漢字で「茜草指」と書けば、「茜草で染めるように指し示す」という複雑な意味を重ねることができるようになります。

これが、「3 もともと我が国の神代文字は、カナの一文字ごとに深い意味を持たせるという習慣があったこと」、および「4 漢字は、その神代文字を組み合わせることで、さらに複雑な意味を持たせることができるように工夫された文字と考えられること」の意味です。

そしてそのような重層的な意味を持つようになった会意文字の漢字を、あらためて輸入して用いたのです。
会意文字が、もともと我が国の神代文字を発祥としているなら、それを用いることに何の抵抗もありますまい。

さらに会意文字を駆使すれば、さらに新たに高度な日本文化を形成することができる期待もあります。
それが「5 その漢字を国内に普及することで統一国家にふさわしい統一文字の使用促進が図られていた時代であった」の意味です。

このような文化形成の時代に詠まれた歌であれば、額田王の冒頭の歌も、ただの恋の歌とのみ解釈するのでは、少しもったいないことになります。
すくなくとも、彼女たちはこの古代大和朝廷の時代に、高らかに誇りを持って、歌に重層的かつ重畳的に文字を重ねることで、祖代を越える深い日本文化を形成しようとしてたということになります。

要するに、漢字を輸入して日本文化が形成されたのではなく、
日本の神代文字がChinaで発展して会意文字となったものを、あらためて逆輸入することで、神代から続く日本文化を、さらに深いものにしようとしたということです。

もちろん「漢字はChinaで生まれたのだ」と主張したい人たちも多いことでしょう。
けれど、漢字は会意文字です。
会意文字であるということは、その意味が合わさる前の部品となっている象形が、先に個別の文字として成立していなければおかしいのです。
「知」という漢字であれば、「矢」と「口」のそれぞれが先に成り立っていなければ、「知」という文字になりようがありません。

漢字は、もともと亀甲文字、鹿骨文字が母体となっているといわれていますが、そうであるにしても、会意文字の漢字になるためには、先に単音の亀甲文字や鹿骨文字が成立し、定着していなければならないのです。
そして、それが定着していたことを示す証拠は、Chinaにはありません。
むしろ日本に、つい近世まで神代文字という形で、その文字が残っている。

そうであれば、まだ国境などなかった祖代において、どこかで神代文字が工夫して生み出されていて、その文字を、日本は書き方が変化するだけでそのまま単音文字として使われ続け、Chinaでは会意文字となっていった、と考えたほうが、理にかなっているといえます。

もともと文字が生まれた万年の昔には、海面の高さが今とは全然違っていて、いま大陸棚となっているところは陸地だったし、日本列島は大陸と陸続きです。

しかも古い昔においては、占いは、軍事以上に力を持つものでもありました。
そしてその占いは、亀甲か鹿骨を焼いたときに出来るひび割れのパターンで占われていたのです。

縦一本のひび割れならどういう意味か。
縦二本なら、どのような意味か。

横線や斜めのひび割れなら、それは何を意味するか。
そういうことが、パターン化されて、そのパターンごとにもたらされた意味に、それぞれ音が当てられると、それが文字になります。

海面が下降し、大陸と日本列島が分断されたあと、日本では大昔からの伝統がそのまま生き残り、Chinaではパターンが占い結果とは切り離されて会意文字となって発展していった。

7世紀頃の日本では、そうした万年単位の時代の流れが神語りとして生きていたからこそ、古代大和朝廷の時代に、漢字をあらためて神代文字に採り入れる工夫がなされた、そのように考えるほうが、論理的だし科学的です。

私達の祖先は、漢字を輸入したのではなく、活用したのだ、ということが、私は正解であろうと思っています。

ねずさん

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