「聖徳太子の頃には既に、ユダヤ人は日本に入ってたらしい」

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聖徳太子の頃には既に、ユダヤ人は日本に入ってたらしい。埴輪があるんやで。

日本会議が出している会員誌『日本の息吹』の12月号に、田中英道さんが「世界史の中の日本を語ろう」というタイトルで連載を書いてはって、今回は第12回「秦氏と世界とのつながり」ですので紹介させてもらいます。

『日本書紀』には、聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていたと書かれています。そしてその由来は、太子のお母さんが馬屋の前を通ったときに身ごもったからや、ということなんやそうです。あれ?それって、イエスキリストのお母さんの、処女懐胎の話といっしょやんか?と思いませんか?そうなんです。

実は戦前からそれは指摘されていて、聖徳太子の当時は既にキリスト教が伝来していた、と考える学者もいたそうです。明治時代の早稲田大学の英文学の教授、佐伯好郎さんという人は、当時のキリスト教は、秦氏が伝えたんとちゃうか?そして秦氏とは実はユダヤ人なんとちゃうか、と言うてはったそうです。でもこのユダヤ人説は、戦後はあまり受け入れられへんかったそうです。

戦後の自虐史観の中では、日本は遅れた国やから、西洋の進んだ文化、文明は全部大陸や半島から伝わり、教えてもろたんや、ということにしたかったんですね。アホらし。

<現在は、さらにこの分野の研究が進むようになって、日本人は古く、アフリカから出発した人類の到達した最東端の列島に住み着いた民族なのです。多くはそうした移民たちが集まって出来上がった民族だからです。

DNA鑑定もそのことを示しています。日本人に近いのは、中国人、朝鮮人だけではなく、彼らと全く違う地中海地方の血統をも示している人々がいるのです。もうこのような事実を無視しては日本人を語れなくなりました。>ということなんやそうです。

そして驚くことに、古墳時代には日本全国で埴輪が作られていて、その中の人物には、どう見てもこれはユダヤ人やんか、と考えられるものが、いくつも出土してるんやそうです。

<それは帽子をかぶる髭(ひげ)と美豆良(みずら)といわれる鬢(びん)をもつ男性像です。><明らかにユダヤ人教徒の独特の髪型と耳の前の毛をカールさせた「ペイオト」によく似ています。それも一つや二つではありません。

関東各地に見出せますし、特に千葉県の芝山古墳遺跡には、大きな何体もの類似の像が出て おり、これらの像が、その独特な風貌からも、ユダヤ人の来日を示して いることになります。>

つまり、明らかにユダヤ人がその時代にすでに入ってきていた、と。

せやけどここからが大事なところです。結局、その後、キリスト教は日本には普及しませんでした。そして当時のユダヤ人の叡智を借りて日本人はそれを神仏習合に使うたんやろう、ということやそうです。

つまり、日本人は決して彼らを排斥せず、同化させてしもうたんや、と。それだけ日本人の文化が強かったんや、と書いてはります。

そうや、日本人は今も昔も、取り入れて自分たちのものにすることが上手なんや。せやから余計な争いはせんでよかったんや。

あーあ、何でもかんでも上か下かでしか考えられへん隣の国は、もうどうしようもないな。関わらへんのが一番やな。

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