「武人」

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武将であれば、国を護るために戦わなければなりません。
けれど戦えば、敵味方を問わず、尊い命をたくさん失うのです。
戦えば人が死ぬのは当たり前と、人の命をなんとも思わない将軍や王が、世界の歴史にはたくさん登場します。

しかし日本の将は、昔も現代も部下たちの命を、どこまでも大切にしてきたのです。
素性法師の歌は、そういう日本の武人の心を、見事に象徴した歌です。

百人一首の21番に、素性法師(そせいほうし)の歌があります。

今来むといひしばかりに
長月の有明の月を
待ち出でつるかな

この歌は、「つるかな」と女言葉で詠まれた歌です。
歌を現代語訳したら、
「あの人は、すぐに帰って来るよと言って出ていった。もう秋となり明け方の月がかかる季節になったけれどあの人はまだ帰って来ませんわ」
といった意味になります。

ところがこの歌を詠んだ素性法師は、男性のお坊さんです。

そこから、多くの解説書は、素性法師がホモのオネエであって、彼氏の男性が振り向いてくれないことを嘆いて詠んだ歌なのだ、などといった解説をしています。

そのようにはっきりと書いてある本もあれば、直接的にホモとは書いてなくても、読む側がそのようにしか受け取れないような解説をしているものもあります。

実際、私も学生時代に「昔もホモはいたんだねえ」と教師から教わった記憶があります。

しかしこの歌を詠んだ素性法師は、生まれたときからお坊さんだった人ではありません。

出家する前は、良岑玄利(よしみねのはるとし)といって、左近将監(さこんのしょうげん)を勤めた人です。

左近将監というのは、徳川家康と同じ位(くらい)です。
つまりその時代の武門のトップであり、いまで言ったら、防衛大臣、ひとむかし前なら陸軍大将や海軍大将に相当する役職を持った人だったのです。

それだけの要職にあった人が、突然、仕事も家も全部投げ出して、出家したのです。

いわば、徳川家康が征夷大将軍になったあとに、家も身分も全部捨てて、お坊さんになったみたいなものです。
たいへんなことです。
普通じゃあり得ない、すごいことです。

良岑玄利の時代は、全国で武力衝突が相次いだ時代です。

良岑玄利は、武門の長ですから、いくつもの戦いを責任者として指揮したことでしょう。
良岑玄利は、戦いに勝利したから、都に戻ってくることができました。
若い頃から幾度もの戦いを勝ち抜き、生き抜いたからこそ、都に帰って出世して、左近将監にまで昇っています。

しかし、戦えば、敵味方とも多くの命が失なわれます。
生死をともにしてきた、この世で最高に信頼していた若い部下たちが、幾人も幾百も死んでいくし、同じことは敵にも起こります。

敵の将兵たちも、みな同じ赤い血の流れる人間なのです。

だから良岑玄利は、出家して仏門に入りました。
出家してお坊さんになるということは、今生での死を意味します。
名も身分も官位も財産も家も妻も子も、全部捨てて僧侶になりました。
僧侶となった法名が素性(そせい)です。

「素」という字は、繭(まゆ)からつむぎだしたばかりの真っ白い絹糸の象形文字です。

いまでは喪服といえば黒服ですが、これは明治時代に西洋の習慣に倣ったもので、江戸時代まで、古くからの日本の習慣は、喪服は純白と決まっていました。

つまり「素」は、白い着物で喪に服するという意味があるのです。
「性」は、心+生で、生まれながらの心、生きた御霊を意味します。
要するに「素性」とは、かつて生きた御霊のために喪に服するという法名なのです。

僧となった素性法師は、戦いで散った敵味方の将兵の家を一軒一軒、尋ねてまわりました。

そしてそれぞれの家の仏壇に手を合わせて経を唱える旅をしました。

仏教界では、そんな素性法師の徳をたたえて、彼に「権律師(ごんのりっし)」の位を授けました。

「権律師」は、仏教界では上から三番目の大高僧の位です。
相当の善行がなければ、そんな高い位はもらえないのです。

その素性法師が、諸国を訪ね歩いていたある日のことです。
尋ねて行ったのは亡くなった兵の家です。

敵の兵だったのか、部下の兵だったのかはわかりません。
ただ、その家を訪ねたとき、家には女性がいました。
その女性が、亡くなった兵の母なのか、妻なのか、姉妹なのかはわかりません。

その女性が、

「あの人(子)は、戦に出発するとき、『今度の戦いは、簡単な戦だから、きっとすぐに帰れってこれるよ(今来む)』と言いのこして出て行きました。
だからきっと帰ってくると信じて待っていました。
あれからも何ヶ月も何年も経ちました。
晩秋となり、夜明けの月が出ても、あの人はまだ帰って来ないのです」

そう静かに語る女性の眼から、涙がひとつぶこぼれ落ちる。
かつて、猛将の名をほしいままにした良岑玄利も、その女性の前で、ただ黙ってうなだれるしかない。

この歌は、その情景を、詠んでいるのです。
だから女言葉の歌なのです。

実際、同様の話は、日清、日露、あるいは日華事変や大東亜戦争のときにも、たくさん残っています。
有名なもののひとつが、日華事変のときの松井岩根大将です。

彼は戦地の岩を取り寄せて興亜観音を寄進しました。
乃木大将は日露戦争の戦没者のために、全国の神社に「忠魂碑」を寄進されています。全国に、です。

少し古い話ならば、戦国時代の名将が、出家して仏門に入り、なくなった将兵の御霊を安んじることに生涯を捧げたという話なども、たくさん残っています。

もっと近い最近の話もあります。
陸軍では数え切れないほどたくさんの将が出家されました。

ここでは、海軍の玉井浅一司令のことをご紹介したいと思います。

玉井浅一司令は、先の大戦で特攻隊の指揮官だった方です。
玉井浅一司令は、戦争が終わった昭和22年の猛暑の日、特攻隊として散華された愛媛県の関行男大尉の実家に、大尉の母のサカエさんを訪ねました。

このとき玉井元司令は、関大尉の母に両手をついて深く頭を下げて次のように言ったそうです。

「自己弁護になりますが、簡単に死ねない定めになっている人間もいます。私は若いころ空母の艦首に激突しました。ですから散華された部下たちの、張りつめた恐ろしさは、少しはわかるような気がします。
せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈らせてください。
祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが」

この後、玉井司令は、日蓮宗のお坊さんになりました。

そして海岸で平たい小石を集め、そこに亡き特攻隊員ひとりひとりの名前を書いて、仏壇に供えました。

そしてお亡くなりになるその日まで、彼らの供養を続けられました。

昭和39年5月、江田島の海軍兵学校で戦没者の慰霊祭が行われました。
そのとき日蓮宗の導師として、枢遵院日覚という高僧が、役僧二人をともなって着座しました。

戦友たちは、その導師が玉井浅一さんであることに気づきました。

玉井さんの前には、軍艦旗をバックに物故者一同の白木の位牌が並んでいました。

位牌に書かれたひとつひとつの戒名は、玉井さんが、沐浴(もくよく)をして、丹精込めて、何日もかけて書き込んだものでした。

読経がはじまると、豊かな声量と心底から湧きあがる玉井さんの経を読む声は、参会者の胸を打ちました。

来場していた遺族や戦友たち全員が、いつのまにか頭を垂れて、滂沱の涙を流したそうです。

会場に鳴咽がひびきました。
導師の読経と、遺族の心が、ひとつに溶け合いました。

その年の暮れ、玉井浅一さんは、62年の生涯を閉じられました。

武将であれば、国を護るために戦わなければなりません。
けれど戦えば、敵味方を問わず、尊い命をたくさん失うのです。

戦えば人が死ぬのは当たり前と、人の命をなんとも思わない将軍や王が、世界の歴史にはたくさん登場します。
しかし日本の将は、昔も現代も部下たちの命を、どこまでも大切にしてきたのです。

素性法師の歌は、そういう日本の武人の心を、見事に象徴した歌です。

この歌を百人一首に選んだ藤原定家は、この歌の詠み手の名前に、元の左近将監だった頃の良岑玄利の名ではなく、そっと「素性法師」と添えています。

その心、それが、古来変わらぬ、日本人の心なのだと思うのです。

人には言葉にできない思いがあります。
その言葉にできない思いを描くために、万言を用いるか、それとも短い言葉にその思いを凝縮するか。

それは文化の違いといえるかもしれません。

日本人は、たった三十一文字の和歌の中に、伝えたい思いを凝縮する技術を築きました。

そしてその和歌の心が、いまなお、多くの日本人の心の中に息づいているのです。

ねずさん

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