「日米の 相互理解をもたらした学問」

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エドウィン・ライシャワー ~ 日米の 相互理解をもたらした学問

人種も宗教も文化も異なる二つの国家が、緊密なパートナーシップを築いているのは世界史上の偉観。

■1.「おまえは日本人か」

明治43(1910)年、東京で宣教師の息子として生まれたエドウィン・ライシャワーはアメリカに戻り、オハイオ州の高校に通うようになって、ショックを受けた。学校では、日本から帰ってきた、というだけで「ゲイシャ」などと呼ばれ、「おまえは日本人か」などと聞かれたからだ。当時のアメリカ人には日本や日本人に関する知識はほどんどなかった。

宣教師の父親は日本人に厚い尊敬の念をいだいていたので、自然、エドウィンもその影響を受けていた。家のお手伝いさんたちは、武家の娘で躾もよく、家族は深い敬意をいだいていたので、アメリカでの人種差別意識には大きなギャップを感じた。

ちょうど、同じ年にアメリカでは人種的偏見から日本人移民を排除する条項を盛り込んだ移民法が成立し、エドウィンは怒りがこみあげてくるのを感じた。

■2.「私はそうした理解増進の手助けをしなくてはいけない」

大学を終えてハーバード大学院に進む頃には、日本や中国の歴史を専攻しようという決心がついていた。ただ、当時のハーバードには、極東関係の講義はごくわずかしかなかった。修士号をとった頃に、ようやく東アジア関係の学科ができた程度だった。

その頃、すでに満州事変が起こっていた。ライシャワーは基本的には中国に同情的な立場だったが、大勢のアメリカ人がただ日本が悪いと決めつけるだけなのに対して、日本での実体験と自らの歴史研究を通じて、日本側からの視点で見ることもできた。

当時私は、満州事変がおこった理由の一端は世界が日本のことを十分理解しなかったことにもある、と感じていたように思います。排日移民法やその他いろいろのことが思い合わされました。私は、アメリカ人はもっと日本のことを知るべきだし、私はそうした理解増進の手助けをしなくてはいけない、と思っていました。[1, p81] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

確かに日本では軍国主義的な風潮が強まっていたが、それは日本だけではなく、ヨーロッパでも同じだし、また「大正デモクラシー」の時代を知っているライシャワーは、ひたすら日本を批判するだけの人々に対して、日本の抱える経済的な問題も指摘した。
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 もし戦争が回避されねばならないとしたら、日本に対してその帝国を放棄せよ、中国をそっとしておけというだけではすまない。一方の側に帝国の放棄を求めながら、フランスやイギリスやオランダがそれぞれの帝国を保持するのを、一世紀の昔のことだからという理由で見のがしにするのはばかげている。それは正義にかなっていない。[1, p99]
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■3.日本語のできる人材を大量に養成

やがて、日中戦争を巡って、日米の対立は先鋭化していくが、アメリカ人の中には、日本人に対して、ひどい軽蔑心を抱いている人が少なくなかった。「日本人は飛行機を持っているが、軍人のくせに飛ばせないんだ、みんな眼鏡をかけているからね」というような話が数多く流されていた。

一方、日本でも知識人や軍人の中に「西欧の国々は自堕落になり、退化し、精力を失っている」として、日本の「大和だましい」の優位性を説く人々がいた。双方とも、こういう状態で相互理解にはほど遠かった。

やがて、ついに日米開戦。真珠湾で示されたゼロ戦の性能にはライシャワーも驚かされた。しかし、真珠湾攻撃によっても、彼の対日観、対日感情が変わることはなかった。

開戦の翌年夏、ライシャワーは軍からの協力を求められて、ワシントンに行った。軍に入るには忠誠心のテストがあり、そこで彼はは「日本は軍国主義一色なのではないし、軍国主義的な国民でもない。戦争はよくないと思っているりっばな人たちは多い」と言った。それでも、どうにかテストは合格して、国家機密を扱う仕事に回された。

米軍の情報に関する鋭いセンスを示すのは、開戦後すぐに、暗号解読などのために、日本語のできる人材を大量に育てたことだ。ライシャワーはハーバードで日本語のクラスを拡充し、ワシントンでも日本語の学校を作った。

ライシャワー自身で多くの人材を育てたが、日本語の勉強をしてしばらくすると、みな日本に大いに興味を持ち、日本びいきになり、日本文化に関心を持つようになっていった。

戦時中に日本語の訓練を受けた人数は数千人に達するようだが、その中から、戦後、数百人もの大学教授が育っていった。ドナルド・キーン[a]やサイデンステッカーなど、著名な日本研究者もこの中から現れた。

■4.「天皇は、このまま存続させるべきだ」

1944(昭和19)年になると、国務省から戦後の対日占領方針の計画立案で協力を求められるようになった。国務省極東部長のジョン・ヴィンセントは、天皇の処置をどうするのかの立案を迫られていた。当時のアメリカ国内の世論調査では、「天皇を絞首刑にしろ」という声が優勢だった。ヴィンセントも元来たいへんな親中国派で、この際、天皇は退位させたいと考えていた。

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私は彼に、天皇には手をつけたりせず、このまま存続させるべきだといい、その理由を説明しました。天皇は戦後の変化に応じて変わっていけるようにすればよいのだ、舞台裏におしやってしまうようなことをして、その結果もとの古い形でまた復活してくるようなことは望ましくない、玉座にとどまっている方がベターなのだ、と説いたのです。[1, p276]
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ライシャワーの説得は奏効し、ヴィンセントも「その通りだ、きみに早くここに移ってきて、この政策の推進を助けてもらいたい」と言い出した。ライシャワーは陸軍から国務省に移って、占領開始後、ヴィンセントの下で、実際に天皇の処遇に関して最終的立場の起草に当たった。それは次のようなものだった。

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天皇個人は戦争と無関係だ、天皇は単なるシンボルだったにすぎず、このことは日本人はみなよく知っている。天皇個人としての行動はつねに戦争に反対するものだったし、「何とか平和にいけないのか」というものだった。だから、天皇を罰することは、個人への正義の見地からは非常に不当なものとなろう。
また、天皇を罰し、退位をしいるようなことをすれば、後になって日本の中にはたいヘん危険な反動を生じかねない状況をつくりだすことになる。そうしたことはさけるべきだ。[1, p276]
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この時点では、昭和天皇のご態度に感銘を受けたマッカーサーがすでに同じ結論を出しており、ライシャワーのこの主張はその正当化となった。この決定の正しさは、占領下の日本が大きな混乱なく維持され、さらに昭和天皇が全国のご巡幸を通じて国民を元気づけられ、復興に向けて励まされた、という史実からも窺うことができる。[b]

■5.大正デモクラシーの再来を期待していた「初期方針」

マッカーサーが占領軍司令官に任命されて日本に赴いた際、「降伏後の日本に対するアメリカの初期方針」という文書が与えられていた。これは国務省、陸軍、海軍が共同作成し、トルーマン大統領が承認して正式発表されていた文書だった。

この文書の作成に大きな役割を果たした一人は、ライシャワーの友人ヒュー・ボートンだった。ボートンはライシャワーより7歳年長で、すでに日本研究者の草分けとして教授となっていた。ライシャワーと一緒に極東部長ヴィンセントの下で働いており、二人の意見はよく一致した。

その「初期方針」の基調は、日本におけるデモクラシーの自然な発展を「奨励」する、としていた。これは大正デモクラシーの再来を期待していたからである。

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最初のうちは多くの人が、日本へは外の人間が行って国を運営し、すべて変えなくちゃいかん、天皇は退位させて共和制にすればいい、日本のやってきたことすべては失敗だったのだから、といった考え方をしていました。
でも彼ら日本を知っている人たちは、日本には新生の能力がある、かつてすでに新生の努力ははじめられており、成功しかけてもいたのだ、だから日本人は自分の力で新生日本をきずく力を持っている、と説いたのです。[1, p293]
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マッカーサーの占領政策も、概ね、この「初期方針」に沿ったものだった。マッカーサーが、自ら憲法を書いてしまった点は、ライシャワーもこの「初期方針」からの逸脱としているが、これはソ連の圧力から天皇を守るための緊急避難的な施策だった。[c]

マッカーサー自身は占領が終われば、日本国民はすぐに自主的な憲法を制定するだろうと考えていたのだが、それが戦後70年以上も続いたのは、日本人自身の問題である。

■6.成功した日本占領政策、大失敗に終わった朝鮮統治

ライシャワーは、米軍の占領について、次のように評価している。

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一国による他国の軍事的占領は、恐るべき結果を生むのが普通なのに、そんなことにもならず、あれほどうまくいったのは歴史的驚異といってよいできだったと未だに思っています。[1, p305]
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マッカーサーをはじめとするGHQの多くの人々は、軍国主義の国に新しく民主主義を植え付けるのだ、という意識でいたが、ライシャワーや友人たちは、「大正デモクラシーからはずれた道をもとに戻す」という意識を持っていた。

日本の占領政策が成功だったのは、朝鮮の戦後政策と比較すると一層あきらかになるとライシャワーは指摘する。朝鮮に関しては、日本のように研究もされておらず、学問的蓄積がほとんどなかった。ライシャワーは朝鮮の戦後統治についても検討を求められたが、彼以外に朝鮮を研究していた人は誰もいなかった。

終戦時にソ連はすでに北朝鮮に進出していたので、とりあえず38度線で米ソの兵力引き離しが行われた。しかし、これはとりあえず数週間の暫定的なもので、誰も朝鮮の南北二分割などを考えておらず、分裂国家の悲劇に思いをいたした人もいなかった。

そのうちに、ソ連には北朝鮮を手放す気が全くないことが判明し、やむなく南朝鮮に別の体制を作ろうということになったが、ここでもアメリカは李承晩という「貧弱な」人物をリーダーに据えるという大きな失策を犯した。

日本に関しては、少数だがライシャワーに代表されるような日本研究者がいて、日本の歴史伝統に則った占領政策によって成功を収めたが、まったく研究も検討もしていなかった朝鮮半島に関する政策は大失敗に終わったのである。

■7.「アメリカの国際化は日本との交戦の中から生じてきた」

日本との戦いは、アメリカ人の側にも、大きな影響を与えた。

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太平洋戦争に突入したときのアメリカは、未だ、過去四世紀の歴史の影響下にあり、自人の支配する世界、西が東を支配する世界といった傲慢な思想、他の民族に対する強烈な偏見にとらわれていました。それを示すのが、西海岸に住んでいた日系人に対する処遇、あの恥ずべき処遇です。[1, p311]
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しかし、アメリカが蔑視していた日本は、零戦や空母、戦艦など高性能の兵器を駆使し、投降などせずに玉砕するまで戦い、神風攻撃までしてくる恐るべき敵だった。その恐るべき敵にようやく勝って、米兵達は恐る恐る占領にやって来た。

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占領初期にきたのは主に実戦部隊の兵士たちで、恐るべき戦いの経験があるだけに、平和でていねいで秩序ある国であることを知って喜ばしく思い、日本人に対して非常な好感情を持ちました。[1, p306]
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また、日系アメリカ人たちの祖国アメリカのための勇戦[d]を知って、アメリカ人は彼らを収容所に入れた自らの仕打ち[e]に恥じ入った。これもアメリカ人の認識を変えるのに大きな役割を果たした。ライシャワーはこう結論づける。

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私は、真の意味でのアメリカの国際化は第二次大戦とくには日本との交戦の中から生じてきた、と考えています。[1, p312]
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■8.日米のパートナーシップは世界史の偉観

アメリカ人の人種差別意識が変わり始めたのは、このあたりからだった、とライシャワーは指摘する。同時に、日本人も実際のアメリカ人を見て「鬼畜米英」ではない事を知った。

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そして新しい地平に身をおいた今、日本とアメリカは突如として自分たち二国が平和な自由貿易世界の主たる唱導者であり、互いに主要なパートナーとして相互強化を行なっている国であるのを見い
だしています。[1, p313]
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人種も宗教も文化も異なる二つの国家が、洋の東西を超えて、経済的、政治的、軍事的に緊密なパートナーシップを築いている。これは世界史における偉観と言える。悲惨な大戦争を乗り越えて、この偉観を実現したのが、相互理解の力だあり、その相互理解を大きく進めたのが、ライシャワー博士の進めた学問であった。

                                      

(文責 伊勢雅臣)

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