「東アジアの三大旅行記」

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世界で「東アジアの三大旅行記」と呼ばれている古典書物があります。
ひとつは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』です。黄金の国ジパングの記述で有名です。

もうひとつは、僧正玄奘(げんじよう)の『大唐西域記』です。孫悟空の活躍する西遊記として有名です。

あとひとつは何でしょうか・・・?

答えは『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいこうき)です。
これは遣唐使としてChina(唐の国)に渡った平安時代の日本人僧侶の円仁(えんにん、794-864)が、唐の国での体験を綴った本です。
円仁は、栃木県出身の僧侶で、第三代天台座主の慈覚大師(じかくだいし)としても知られている人です。

『入唐求法巡礼行記』は、全文漢文で書かれています。

そのため世界にも知られ、世界ではこの三つを称して「中世東アジアの三大旅行記」としているのだそうです。
ところがこの本は、戦後の日本では、まったく知られていません。
まるで「なかったもの」にされているかのようです。
『入唐求法巡礼行記』をわかりやすく書いた本も、ほとんどありません。

いまだと1961年の筑摩書房の『古典日本文学全集』の第15巻・仏教文学集の中に、他の仏教関連書と並んで、ようやくその原文と現代語訳文を見つけられます。

他に文庫版のものも出ていますが、この文庫版では、入唐前の日本国内での体験と、唐の国から帰国する際の苦労話、つまりいちばん肝心な唐の国での体験記のところが、まるごと削除されています。

意図的な編集なのかどうかまでは知りませんが、不思議なことがあるものです。

『入唐求法巡礼行記』は、円仁が遣唐使として承和5(838)年に博多を出発して、唐の都の長安に向かい、そこで生活して、承和14(847)年に帰国するまでの、10年間の日記です。

このときの唐の皇帝が武宗(ぶそう)でした。

武宗は、道教に入れ込んで仏教を弾圧した、晩唐の皇帝として知られる人です。

円仁は、滞在中に、百回近くにわたって日本への帰国願いを出していますが受理されず、最期はなんと、外国人僧侶追放令にあって、ようやく帰国できました。

そういう時期のお坊さんの渡唐記録なのですが、内容はすこしも私情を交えず、冷静に、きちんとした観察眼をもって綴られています。
そして冷静だからこそ、世界中から、この書がたいへん高く評価されているのです。

そしてこの本の中に、9世紀の唐の様子が、実に克明に記録されています。

そこで本文をすこしご紹介してみたいと思います。
原文は漢文なのですが、筑摩書房の古典日本文学全集〈第15〉仏教文学集、入唐求法巡礼行記(堀一郎訳)をもとに、ねず流で、おもいきった現代語訳にしています。

ご一読いただければ、当時のChinaが見えてくるだけでなく、Chinaのウシハク皇帝、つまり神話を失なった国において、権威と権力と武力を併せ持った皇帝が、いかなる存在となり、臣下や民衆にどのような影響を与えるのか、おわかりいただけようかと思います。

日本は、神話を持ち、権威と権力・武力を分離したシラス国です。
国の大本のカタチの違いが、ここまで大きな違いになることを、私たちは学ぶ必要があると思います。

皇帝の討伐軍は、叛乱軍が立てこもる州の境界線で、叛乱軍の激しい抵抗にあって攻め込みきれないで境界線上にとどまっていました。
すでに多くの日数が費やされています。
皇帝からは進軍を促す催促が、毎日、矢のように来ています。
けれども叛乱軍の抵抗が強くて前に進めません。

ところが追討軍が前線から進められないでいることを、中央で「あやしんでいるらしい」というのです。
それを知った征討軍はびっくりして、戦線付近の牛飼いや農夫たちを捕まえて、これを叛乱軍の捕虜と偽って、長安の都に送りました。

長安では皇帝から勅令が発せられ、儀礼刀が賜(たまわ)られ、街頭でその偽りの捕虜たちの処刑が行われました。
捕虜たちは、三段に斬られ、あるいは左右両軍の兵馬が、彼らを取り囲んで捕虜たちを撲殺しました。
かくて前線からは、続々と捕虜たちが送られて来るようになり、兵馬は休みなく往来し、市街で殺された死骸は道路に満ち、血は流れて土を濡らし泥となりました。

これを見物する人も道にあふれました。
皇帝もときどき見物にやって来ます。

一般のウワサでも、「護送されてくるのは叛乱軍ではなくて、近隣の牛飼いや農民ばかり、罪もないのに叛徒に仕立てあげられて捕らえられて来たものだ、皇帝の軍隊はまだ州の境界線を突破できず、皇帝に戦果の上がらないのを怪しまれないようにするために、むやみと罪もない人民を捕まえては都に護送しているのだ」と、言っています。
もう誰もが知ることなのです。

にもかかわらず、そんな捕虜たちを、左右両軍の兵士どもは、斬り殺しては、その眼肉を割いて食べています。
だから市中の人々は、いずれも今年はなんと不吉な年かと言っています。

・・・・・・・

山西省の太原府の三千の軍は、三年間ウイグルとの国境守備に任じられ、ようやく今年、ウイグルを破って凱旋してきました。
ところが太原府に帰ってまだ日も経たないうちに、節度使はこれを再び四川方面の叛乱軍討伐に出発させようとしました。

将兵たちは「三年もウイグルと戦って苦しい思いをし、疲れきって帰国してきたばかりです。故郷に帰って、まだ父母にも妻子にも会っていません。どうか他の軍隊を派遣していただきたい」と固辞しました。
ところが節度使は「皇帝の命令である」と聞き入れません。

このため三千の軍が暴発して太原府城に押し寄せ、節度使を攻撃しました。

節度使は、この事態を皇帝に報告しました。
都から尋問使がやってきました。
調査の結果、尋問使たちは、「この者らは、ウイグルを討伐した功績をあげており、言い分はもっともである。当然、死罪にすべきではない」と、詳しく理由書をつけて上奏しました。

けれどもその上奏は聞き入れられず、三千人は東市の北街の塚のほとりで全員、斬り殺されました。

・・・・・・・

9月にはいって、四川方面の叛乱軍がようやく大敗しました。
叛乱軍の軍団長らは、捕虜として都に護送されました。
彼らへの処刑は67回に及びました。
後に叛乱軍の首魁の劉従簡(るうじゅうかん)の首が長安の都に送られて来ました。

都では、この首を三叉の槍の頭に差し抜き、三丈あまり(10m弱)の竿(さお)の先に名前をしるして、東西の市(いち)を巡回して、内裏に行進しました。

皇帝は銀台門の楼上に坐して、この行列を見て大いに笑いました。
その後数十日のうちに、叛乱者たちの財産や宝物、家具などの一切を政府に没収し、毎回7〜8台の金で装飾した車が、これらを満載して都に入り、宮廷の倉庫に納めました。

8月に太后(たいこう)が薨去(こうきょ)されました。
姓は郭(かく)で、太和皇后といいます。
太后は、仏教をとても篤(あつ)く信仰していました。

皇帝は道教を信仰しています。
その皇帝から、僧侶や尼僧を淘汰せよという条例が出るたびに、いつも皇帝に諫止(かんし)していたのが太后でした。
皇帝は、そんな太后を、薬酒をすすめて毒殺してしまいました。

また義陽殿(ぎようでん)におわす皇后は(皇帝の実母)たいへんな美貌の持ち主でした。
皇帝は、その母を後宮に召し入れて妃(きさき)にしようとしました。
あたりまえのことですが、皇后は拒絶しました。
すると皇帝は弓で皇后を射殺してしまいました。

道教の道士である趙帰真(ちょうきしん)らは、皇帝に、
「仏教はインドで生まれて『不生』を説いているが、『不生』とは、単に死のことである。仏教はまた、さかんに無常や苦、空を説くが、これはまことに奇っ怪な妖説であって、道教にいう無為長生(無駄に長生きしない)の原理を理解していない。

老子は、無為自然にあそんで仙人となり神薬を練った。この神薬を飲めば、不老長寿となり、神仙界の一員となることができる。その功力は無限である。

そこで願わくば、宮廷内に神仙台を築き給え。
身体を練磨して、神仙界にのぼり、九天に逍遥し給え。
必ずや陛下の聖寿万歳となり、もって長生きの楽しみを保ち得られることでしょう」と奏上しました。

皇帝はこの奏上を聞いておおいに喜びました。
左右の近衛兵に命じて、宮城内に、神仙台として「望仙楼」を築かせました。

それは、高さ45メートルの楼閣でした。
皇帝は「望仙楼」ができあがることを、とても楽しみにされ、毎日左右の近衛兵三千を動員して土を運ばせ、築造させました。

皇帝は、一刻もはやく完成させたい意向でした。
毎日、できあがりを催促されました。
左右両軍の近衛兵の団長も、指揮棒をとって監督にあたりました。

ある日、皇帝が視察に赴きました。
皇帝は宮内長官に向かって、「あの棒を手にしているのは誰か」と問いました。

長官は、「軍団長みずからが築台の指揮をとっています」と答えました。
すると皇帝は、「汝、棒を手にして指揮する必要はない。自分で土を担って台を築け」と命じました。

またある日には、「望仙楼」の工事現場に出かけた皇帝は、自ら弓をひいて、何の理由もなく将校のひとりを射殺しました。

3月3日、仙台の築造が完成し、皇帝に引き渡しの儀が行われました。
その日、皇帝は、仙台に登りました。
両軍の司令官や道士たちも、登りました。

その途中、両軍の司令官が、道士の趙帰真に、「今日、仙台の引き渡しが行われますが、あなたがた道士は、不老不死の仙人になれますか?」と問いました。趙帰真は、うなだれたまま、何も答えませんでした。

皇帝は「望仙楼」に七人の道士を招き、神薬を練り、空を飛んで仙人となる術を行わせました。

皇帝が「望仙楼」に登った日、皇帝は同行した楽師に、「左近衛師団長を建物から突き落とすように」と命じました。

ところが屈強な師団長を前に、楽師はこれができません。
皇帝は、「朕が突き落とせと命じたのに、なぜ命令に従わぬのか」と問いました。

楽師は、「軍団長は国家の重臣です。これを故なく突き落とすことなどできません」と答えました。
すると皇帝は怒り、楽師の背中を杖で20回殴りつけました。

望楼の上で皇帝は、そこにいる道士たちに、「朕は、ここに二度足を運んだが、汝たちにまだひとりも登仙した者がいないのは、どういうわけか」と問いました。

道士らは、「国中に仏教がはびこり、その邪気がたちこめているために登仙になることができないのです」と答えました。

皇帝は、宮城内の僧道奉行に対し、「朕はお主らを必要としない」と宣言しました。そして数日のうちに、国中の僧侶や尼僧で、年齢が50歳以下の者は、すべて強制的に還俗させ、そのまま本籍に返せとの勅令が発せられました。

実はこれには裏話があります。

皇帝は当初、「仙台を築くために掘った土の穴が極めて深く、人民に恐怖と不安を与えている。朕はこれを埋めたい。ついては仙台の落慶供養の食事会を催すといつわって、近隣の僧侶や尼僧をことごとく、無理やりにでも左近衛軍営内に集め、その首を斬り、その死体で穴を埋めよ」と命じたのです。

これにおどろいた卜(ぼく)某が、「僧尼といえども、もともと国家の民です。せめて還俗させて各自生産を営ませれば、国家に利益があがります。穴に追い込むようなことはせず、還俗させて、すぐに地方に帰し、役夫にでもさせればよろしい」と申し上げ、皇帝が「もっともである」とこれを受け入れたために、先の勅命となったのです。

さりとて僧尼たちは、どうしてよいかわからない。
私(円仁)は、書類を提出して還俗したうえで、日本に帰りたいと請願したのですが、奉行もこれを受け取ったきりでまだ返事がありません・・・。

と、話はまだまだ続くのですが、ここまでお読みいただいて、いかがお感じになりましたでしょうか。

すべての権力と権威を握りながら、一切の責任を追求することのない個人があるということの恐ろしさ、そういう国に生まれることの恐ろしさ。
そしてそういう国に生まれ育てば、息を吐くように嘘を言ってでも生き抜かなければならなくなることも、理解できようかと思います。

またご一読いただいて、この『入唐求法巡礼行記』が、世界で「東アジアの三大旅行記」と呼ばれている古典書物でありながら、戦後の日本で、まったく秘匿されてしまっていた理由も、おわかりいただけたのではないかと思います。

当時の唐は、周辺国にたいへんな影響力をもった超大国であったとされています。

そしてそこには数多くの仏典などもあります。
ですから、日本からは、勉学のため、遣唐使が派遣されていました。

ちなみに唐代の長安の人口は、よく百万などと紹介されますが、実際には20万人程度であったろうと言われています。

長安の都市の面積と食糧事情からの推計で、百万の人口を養えるだけの食料の供給も保存も不可能だからです。

一方、同時代の奈良の都の人口は20万人と推計されています。
これはすぐとなりに穀倉地帯を持っていることから、十分にありえる人口ですから、もしかするとこの時代にすでに日本の首都人口は、Chinaの首都人口とほぼ同じ規模になっていたのかもしれません。

ただし問題は、その唐が軍事大国であったことです。

ですから唐の状況をキャッチアップしておくことは、我が国の安全保障上、とても大切なことです。

この時代よりも以前から、博多のことは「博多大津」と呼ばれていましたが、「博多大津」というのは、「博」という字が「ひろ子」さんという名前に用いられているように、もともと「ひろい」という意味の漢字です。
つまり「博多大津」は、「ひろくて出入りの船や人口の多い大きな港」という意味の名称です。

日本国内には、他にもっとひろくて出入りの船や人口の多い大きな港がありましたが、それがどうして「博多」と名付けられたかといえば、国の安全保障上、博多の人口が多くて、容易に攻めることができないところであることを、宣伝しなければならなかったからです。

さて、円仁の帰国の47年後の寛平6(894)年、菅原道真公の建議によって、遣唐使は廃止となりました。

そしてその13年後の907年に、唐は滅亡していました。
唐の滅亡は、当時の東アジア全体をゆるがす大事件です。

それは東アジアの華夷秩序体制の崩壊を意味したし、China本土内での大混乱や大虐殺は、周辺国への難民を招き、それが周辺国に多大な影響(迷惑)を与えたからです。

ところが日本は、13年前という、絶妙なタイミングで遣唐使を廃止し、事実上の鎖国をしています。
当時の政治家たちの先見性には、ほんとうに知れば知るほど驚かされます。

そして日本では、同じ時代でありながら、500年の長きにわたって死刑さえ行われず、裁判を行う際にも、すでに藤原公任によって、刑事裁判の被告人には、科せられた懲役年数がちゃんと記載されるようになっていました。

現代では当たり前になっている「被告人に科せられた懲役年数を判決書に記載する」ことは、裁判の公平性を担保するうえで、とても大切なことです。

ヨーロッパでさえ、それが施行されたのは19世紀以降ですが、日本では10世紀にはすでにそれができあがっていました。

国の頂点に、権威と権力と武力を併せ持ちながら、一切の責任を取らない個人が置かれるということは、今回のこの『入唐求法巡礼行記』に書かれた唐の国の実情にも明らかな通り、とても恐ろしく危険なことです。

なぜ唐でこのような、人の命を平気で踏みにじるような乱暴なことが平然と行われたかといえば、上に立つものにとって、下の者は、常に私有物であり私有民であり、いくら殺しても奪っても、一切責任を問われないからです。

自分のモノですから、殺そうが奪おうが勝手です。

人の命でさえ、ティッシュペーパーをちょいと摘んで、ハナをかみ、そのままゴミ箱にポイと捨てるようなものとされてしまうのです。

ところが日本では、権威と権力と武力を分離しました。

それが何時頃からはじまったのかということさえ、わかりません。
なにしろ神話の時代からはじまっているのです。

いつのことなのかもわからない古い時代から、日本では、シラス統治として、権力と権威の分離が図られてきたのです。

そして民衆は、権力者の私物ではなく、最高権威の「おほみたから」とされてきたのです。

権力者も、武力を持つ者も、自らのその権力や武力は、最高権威の裏付けがあってはじめて行使できる力です。

会社で、部長という肩書があってはじめて、部長としての権力を行使できるようなものです。
そして権力者にとって、民衆は、私物ではなくて、最高権威から委ねられた宝とされたのです。
つまり国民が「たから」です。

市民権ガーとか、私権ガーとかガナル前に、ひとりひとりが最高権威の宝なのです。

このことを我が国の古い言葉で、シラス(知らす、Shirasu)といいます。

一方、上に書かれた唐のような権力者が支配することを、同じく我が国の古い言葉で「ウシハク」と言います。

ウシハクは、秩序維持のために必要な仕組みです。

しかし責任を問われないウシハクでは、世の中が歪みます。
ですからウシハクは、シラス(知らす、Shirasu)の中に包含されて、はじめて秩序維持のために役立つものとなります。

少し考えたら誰にでもわかるあたりまえのことなのですが、そういう日本に古くからある大切な知恵が、戦後はあまりにもないがしろにされすぎました。

私達は日本語を取り戻す必要があります。
それこそが、相手を知り己を知ることなのではないかと思います。

ねずさん

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