「国境のなかった時代」

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倭種(倭人)と呼ばれる人たちは、背が低い(男性で130cm,女性120cmくらい)ことが特徴で、偉大な人というのは、大きな身長の人(偉大な人=大きな人)として描かれますが、探してみると、世界中に背の低い小さな人が海からやってきて、高い文明をもたらしたといった伝説や神話がたくさん転がっています。

それらが倭種(倭人)たちであったのかもしれないのです。

国号として日本という名前が公式に表示されたのは、比較的新しい出来事で持統天皇が689年に発せられた飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)です。

それより以前は、外国では倭国、我が国では葦原中国(あしはらのなかつくに)、または大倭(おほやまと)です。

もともと大昔には、世界に国境などありません。
従って、倭人たちが入植しているところが倭国で、魏志倭人伝、梁書などによると、倭種が住む国は、日本から遠く海を1年渡った先まで、倭種の国であったと書かれています。

それがどこの国を指すのか、明確な答えはありません。
しかし複数の証拠が、その地を南米のエクアドルかペルーあたりであったことを示しています。

これが何を意味しているかと言うと、今のような国境など存在しなかった時代、海洋国家日本にとっての葦原中国は、いまでいう世界を意味していたということです。

だからオノゴロ島は地球を意味するし、大倭は巨大な地球に対して小さな人々という意味の言葉になるわけです。

天皇という呼称は608年の隋への国書には「東天皇敬白西皇帝」という記述があり、仮にその記述が720年に成立した日本書紀にしかないとしても、607年の「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」には既に「池辺大宮治天下天皇」の記述があり「天皇」の用語が用いられているわけです。

さらに「野中寺彌勒思惟像台座銘」に用いられています。
文面は以下のとおりです。

「丙寅年四月大旧八日癸卯開記橘寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時
 誓願之奉彌勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也」

意味は、666年4月に、斉明天皇のご健康のために118名で開眼供養した、というもので、ここに「中宮天皇」という記述が見て取れます。

つまり天皇という呼称は、607年〜666年の間には既に用いられていたわけで、日本という国号が用いられたのが冒頭に記しましたように689年ですから、天皇は、実は日本よりも古いご存在だということになります。

要するに日本は、天皇あっての日本なのです。

では、なぜ大倭や中つ国を日本に改めたのかというと、これには663年の白村江の戦いにおける敗戦が影響しています。

このときに日本は朝鮮半島における権益を失い、さらに事後に唐が日本本土に攻め込んでくるという情報(唐は実際にその計画をしていました)がありました。

日本は、どうしても国内を豪族たちのゆるやかな集合体から、統一国家へと国の体制を改めなければならなかったのです。

西暦600年代というのは7世紀です。

日本は、この7世紀の大改革とともに、もう一つ外圧によって19世紀に大改革を行っています。それが明治維新です。
7世紀の大改革では、全国が緩やかな豪族たちの集合体という国の形を改め、統一国家を形成しています。

19世紀の明治維新もまた、徳川幕藩体制を改めて統一国家を形成しています。

同じことが二度繰り返されたわけです。
そしてこの二度とも、そこで合言葉になったのが「神武創業に還れ」です。

我が国は神武天皇によって統一国家を形成していますが、その創業に還ることが統一国家への道となっていたのです。

その7世紀の大化の改新によって日本は独自の元号を用いるようになって独立国家であることを内外に示すとともに、全国各地に中央から国司を派遣するようになりました。

そうなると、国司が赴任できる範囲が日本となります。
この後、東北地方や北海道まで順次日本国に組み入れられていくのですが、実は、いまの日本が日本列島とその近海に浮かぶ島嶼になったのは、ここからのことになります。

つまりそれまでは、倭種(倭人)たちが入植しているエリアが、そのまま倭国だったわけです。

世界史などの図版本を見ると、あたかも古代から世界中の諸国には国境があったかのような図が描かれていますが、西洋にせよ東洋にせよ、それぞれの王国というのは、国王のいる王城とその周辺が王国なのであって、そこから離れれば離れるほど、王の支配は弱まり、どこの国の所有するエリアか判然としなかったのです。

これはいってみれば、いまどきのヤクザさんの「シマ」と同じで、○○通り商店街は、どこそこの組のシマだというけれど、ではその商店街の周辺にある住宅街の人々が、自分たちは○○組の被支配地にあると認識しているかというと、そんなことはありません。

まして、いまよりずっと人口の少なかった時代のことです。

国境など存在しなかったし、まして日本は海洋国家であって、島から島へと自在に往来していたのです。

どこからどこまでが倭種倭人の国であるのかといわれれば、倭人たちが住んでいて、その住んでいる人々に、自分たちは倭人であるという自覚があるところが、倭人の国であったのであって、むしろそれは遠くアフリカから、北米、南米まで、広大な地域に倭人たちが入植していたわけです。

入植と書くと、現地の人たちを支配していた、植民地化していたかのような錯覚を持たれるかもしれませんが、先程も申し上げましたように、いまよりずっと人口が少ない時代のことです。

ポリネシア地方の島々は、ほとんど人が住んでいなかったし、大陸にしても、人はまばらです。

いまの日本人の様子からしても、仮に現地の人に出会ったとしても、そのことをもって征服したとか、支配したとかいうことは、およそ考えられません。

むしろ現地の人々と同化し、現地の人々に農業や漁業、あるいは船の作り方や航海術などを指導することで、現地の人達に喜ばれ、歓迎されていたとみるべきことであると思います。

世界には、背の低い小さな人がやってきて、たいへんに高い文化をもたらしたといった伝説が各所に残っていますが、もともと倭人というのは、身長が男子で130〜140cmくらい、女子で120〜130cmくらいでした。

戦時中頃には、日本人の体格もずいぶんと良くなりましたが、それでも当時の男性の平均身長は155cmくらいです。

ミトコンドリアDNAの解析では、1986年春、米国のフロリダで発見されたミイラ化したヒトの脳細胞から抽出した細胞が日本人と共通するタイプの配列だったし、埼玉県浦和で発掘された縄文人の頭骨のミトコンドリアDNAは、マレー人、インドネシア人と一致したという調査結果があります。

また、ATLウィルスは、白血病を引き起こすウイルスですが、このウイルスのキャリアは、日本列島に最も多く、北米や南米、インドネシア、インド、アフリカ、東ヨーロッパにまで広がりを見せています。

他にも例えば日本語の語順は、「私は(S) 狩りに(0) 行きます(V)」と、主語(S)、目的語(O)、動詞(V)の順、つまり「SOV式」で、英語などヨーロッパの言語は「SVO」の語順ですが、モンゴルからChina、インド、北米南米のインデアン、オーストラリアの原住民などの言語の語順は日本と同じ「SOV式」です。

要するに国境など、まだなかった時代には、日本人は海洋を自由に往来し、世界中に入植していたと考えられるわけです。

日本人がいたところが日本だったと言いたいのではありません。
そうではなくて、国境などまだなかった時代に、日本人は広く世界に広がっていたという、その事実のことを申し上げています。

つまり大昔は、日本の領土がどこからどこまでという認識はなくて、単に倭種倭人がいて、日本の中央にあたる天皇の御在所と交流を持っていたところが、倭種のエリアだったわけです。

それが大化の改新後に、意図して日本を狭いエリアにして、国境をあらためて引いたわけです。

時代はずっと後になりますが、戦国時代頃には、山田長政が活躍したシャム(現在のタイ)の日本人町は、14世紀中ごろから18世紀頃までおよそ8千人の日本人たちが暮らしていました。

スペインにも、日本人町があり、いまも、日本人の顔をした人たちが暮らしています。

そしていまも、実は日本は、海洋面積を含めると196国中、9番目に広い領土領海を保有しています。

要するに、日本人に限ったことではありませんが、たとえばアラビア商人は、古代と呼ばれる遠い昔から、シルクロードをはるばる旅して、ユーラシア大陸の東側までやってきていたわけです。

人は、動く動物なのですから、何千年、何万年という歴史を考えるときには、ひとつの民族が、その場所に固定されていてどこにも行かなかったと考えるほうが、むしろおかしいし、まして国境なんてなかった時代がかつてはあったのです。

なかでも倭種(倭人)と呼ばれる人たちは、背が低い(男性で130cm,女性120cmくらい)ことが特徴で、偉大な人というのは、大きな身長の人(偉大な人=大きな人)として描かれますが、探してみると、世界中に背の低い小さな人が海からやってきて、高い文明をもたらしたといった伝説や神話がたくさん転がっています。

それらが倭種(倭人)たちであったのかもしれないのです。

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