「そして預金は切り捨てられた」

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そして預金は切り捨てられた
戦後日本の債務調整の悲惨な現実

日本の財政再建がなかなか進まない。政府債務残高は名目GDP比で約250%と、財政状況は、先進国、新興国を問わず世界で最悪であるにもかかわらず、である。国内には、「財政危機だ、財政危機だと言われたこの10数年間、結局何も起こらなかったではないか」、「リーマンショックや東日本大震災以降、年間40兆円とか50兆円といった金額の新発国債を増発して借金残高を増やし続けても、実際には何も起こっていないではないか」といった意識が蔓延しているようにみえる。

「ギリシャと違って日本は、国債をほとんど国内で消化しているのだから大丈夫だ」、「日本は、国民が多額の金融資産を保有しているから、ネットでみた国としての負債残高は、グロスの負債残高ほどに大きくはないから大丈夫だ」――こうした議論は間違っていないのだろうか。このまま国債残高を増やし続けても、国内消化の比率が高ければ、本当に大丈夫なのだろうか。

一国の財政運営が行き詰まり、立て直しのための万策尽きた後の最後の手段には、大別して、
①非連続的な対外債務調整(対外デフォルト)と、
②非連続的な国内債務調整(国内デフォルト)の2通りがある。

①は、近年のギリシャの事例等があり、その実態や顛末は一般にも比較的よく知られている。他方、
②の国内債務調整については、各国ともそうした不都合な事実は対外的に隠したがる傾向があり、詳細があまり明らかにされていないことも多い。

そうしたなか、国内債務調整における事態の展開を詳細に追うことができる稀有な事例は、われわれの意外な身近にある。それは、第二次世界大戦直後に実施されたわが国の債務調整(国内デフォルト)だ。その実態を、財政当局監修でまとめられた『昭和財政史 終戦から講和まで』(東洋経済新報社)シリーズ等における記録を基に、つぶさに明らかにする。

終戦直後にわが国が直面した状況

1945(昭和20)年8月15日の第二次大戦終戦の時点で、わが国の財政は軍事関係の支出によって大きく拡大し、財政運営の継続はすでに困難な状態に陥っていた。第二次大戦をはさんだ昭和期の国民所得と物価上昇率、国債残高等の推移は図表1の通りである。

「取るものは取る、返すものは返す」

そして預金は切り捨てられた

当時の政策運営上の意思決定の状況について、『昭和財政史 終戦から講和まで 第11巻 政府債務』(執筆者は加藤三郎東大教授)には、昭和20年10月14日の官邸での会合の列席者による回想として、以下のような記述がみられる(89ページ)。

…(前略)…大蔵省として天下に公約し国民に訴えて発行した国債である以上は、これを踏みつぶすということはとんでもない話だ、というような意見が勝ちを占めまして、おそらく私もその一人であったろうと思うのですが、これは満場一致の形で、取るものは取る、うんと国民から税金その他でしぼり取る、そうして返すものは返す、こういう基本原則をとにかく事務当局で決めてしまいました。

その場で財産税という構想が出まして、議論を重ねました。この財産税は結局日本戦後の財政史上、国内混乱を起こした以外何ものでもないことになりましたが、財産税の構想はその会合でたまたま議論が起こったものです。…(後略)… 

(原資料:今井一男口述「終戦以後の給与政策について」『戦後財政史口述資料』第八分冊、昭和26年12月17日)

また、同11巻85ページには、以下のような記述もみられる。

…(前略)…山際次官(当時)はこの点について次のように語っている。
 渋沢さんの大臣御在任中のことを、発生的に考えてみると、いろいろなことの発端が、やはり財政再建計画というやつから来ておる。五箇年計画というものを造って国債をどうするか、それを償還するために財産税ということになって、そのために通貨整理、封鎖ということに発展したのですね。
(財産税について-引用者<加藤三郎教授>)ほかの富の平均化とか、インフレ抑制策というものは、あとからついて来たものです。

貧富の差なく国民の資産を吸い上げる

戦後の国内債務調整(デフォルト)の中心となった政策の内容を順に確認していこう。

一度限りの大規模課税である財産税の課税対象としては、不動産等よりはむしろ、預貯金や保険、株式、国債等の金融資産がかなりのウエートを占めた(図表3)。課税財産価額の合計は、昭和21年度の一般会計予算額に匹敵する規模に達した。

また、本税の実施に先立って作成された、階級別の収入見込み額をみると、国民は、その保有する財産の価額の多寡にかかわらず、要するに貧富の差なく、この財産税の納税義務を負うこととなった点がみてとれる。

税率は最低25%から最高で90%と14段階で設定された。1人当たりの税額は、もちろん、保有財産額の多い富裕層が突出して多いが、政府による税揚げ総額の観点からみると、いわば中間層が最も多い。このように、財産税の語感からは、ともすれば富裕層課税を連想しがちではあるが、実際にはそうではなく、貧富の差を問わず、国民からその資産を課税の形で吸い上げるものであったといえよう。

なお、当時は新憲法制施行前で占領下にあり、こうした措置は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の承認を得て、法律案を衆議院に提出、可決される形で行われた。このように、国による国民の資産のいわば「収奪」が、形式的には財産権の侵害でなく、あくまで国家としての正式な意思決定に基づく「徴税権の行使」によって行われた点に留意する必要がある。

そして、そのようにして徴収された財産税を主たる原資として、可能な限りの内国債の償還が行われた。図表1で、国債の現金償還額が終戦後、ケタ違いの額に伸びていったことは、このような異例の大規模な財産税課税によって、可能な限り国債残高を削減しようとしていた事実を物語っている。

預金封鎖・新円切り替えを先行した狙い

こうした財産税課税に先立ち、昭和21年2月17日には、預金封鎖および新円切り替え(注)が断行されている。新円:旧円の交換比率は1:1であった。日銀や民間金融機関も含めて極秘裏に準備したうえで、国民向けの公表は実施の前日16日に行われ、わずか1日で実施に移される、という「荒業」であった。

実際の政策運営の流れは図表2の年表で確認できるが、預金封鎖・新円切り替えを先行させたのは、財産税課税のための調査の時間をかせぎつつ、課税資産を国が先に差し押さえたとみることができよう。預金封鎖等を発動した「金融緊急措置令」が公布された2月17日には、同時に「臨時財産調査令」も公布されている。

こうした措置について、国民向けには「インフレ抑制のため」という説明で政府は通したが、国民からは相当な反発があったことが、『昭和財政史 終戦から講和まで』シリーズでは明らかにされている。その第12巻『金融(1)』100ページには、執筆者である中村隆英東大教授による、以下のような記述がある。

…(前略)…これ以降の政府の説明もこの趣旨で貫かれている。こうして、大蔵当局の一時インフレの高進を抑え、時をかせごうというひかえ目な判断に基づく政策効果の見通しはかくされたまま、公式には徹底的なインフレ対策としての面のみが強調され、一般もそのような政策としてこれを理解することになったのである。そこにこの政策がのちに多くの批判をあびなければならなくなった最大の理由があったといえよう。…(後略)…

(注)預金封鎖とは、銀行預金など金融資産の引き出しを制限すること。わが国の場合は新円切り替えと同時に実施され、約半年後に第一封鎖預金と第二封鎖預金に分割された。封鎖預金からの新円での引き出し可能な金額は、個人の場合、月額で世帯主300円、世帯員1人各100円だった。

戦時補償打ち切り、国内債務不履行を強行

無論、世界大戦の敗戦国という立場に陥り、社会全体が混乱のさなかにあった当時と、平時の現在とは状況が全く異なる。政府債務残高の規模が、当時とほぼ並ぶGDP比250%の規模に達したからといって、すぐに財政破たんするというものでもなかろう。しかしながら、国債の大半を国内で消化するという現在の状況は終戦当時に通じるし、現時点で債務の膨張に歯止めがかかる見通しは全く立っていない。

今後のわが国が、市場金利の上昇等により、安定的な財政運営の継続に行き詰まった場合、それが手遅れとなれば、終戦後に講じたのと同様の政策を、部分的にせよ発動せざるを得なくなる可能性も皆無ではなくなろう。この点こそを、現在のわが国は、国民一人一人が、自らの国の歴史を振り返りつつ、しっかり心に留めるべきである。

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