「大切なのは両極端ではなくて真ん中」

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大切なのは両極端ではなくて真ん中

人は狭い小さなコミュニティの中にいると安心できるという傾向があります。ひとりでは寂しいからです。
中道を目指し、より多くの人を巻き込むことで、世の中を大きく変えようとする場合、それはひとりで不特定多数を相手にするわけですから、たいへんです。

しかし正しく生きることができる。
どちらを取るかは、それぞれ次第です。

歴史の見方というたいそうな話ではないのですが、正しいか誤っているかという二者択一的な物の考え方や行動で、いたずらに対立をあおるのは間違いです。

なぜなら、基本的に学問は自由であり、言論にも自由があるからです。
ですから、さまざまな意見があって良いし、歴史の見方も、さまざな意見があって良いのです。

右だ左だと、頭ごなしに否定するだけでは、極端に至ります。

そうはいっても間違いは間違いだ、と思われる方もおいでになると思います。

その通りです。

問題は、両極端になってしまったら社会性を失うということです。
大事なことは、常にその中間にあります。

「自分は正しい、相手は間違っている」という論説は、常に二者択一を求めます。

しかし、「すべての事柄は2つに分けて考えることができる」という思想は、共産主義思想です。

2つに分ける?
誰が別けるのでしょうか。
その別ける人は、それだけの実力と知識と経験がおありなのでしょうか。
絶対的な神のような存在なのでしょうか。

ひとつの説がある。
けれど、別な見方もある。
論は、そのような形で展開されます。

どちらが正しいかではなく、その中間に正しいことがあるのであろうと思います。

従って、片方だけを絶対的に正しいとして、反対の論を否定する。
その否定という形に至った時点で、その人は、終わっています。
それは自分が神にでもなったつもりの傲慢だからです。

わかりやすく例えます。
「世の中には頭の良い人と、悪い人がいます」
ここまでは、なるほどそうかもしれません。

しかし、
「従って世の中は、正しい人と正しくない人(間違った人)の2つに分けられます」

となったら、これは傲慢です。
テストの成績と同じです。
テストの成績は、良い点の人と悪い点の人がいますが、それは平均点を中心に正規分布します。

正規分布

一般に、たとえば共産主義に酔う人は、2.27%。これは上の図で言えば、±2δの外側です。

割合からすると、ひとクラス40人なら、そのうちのひとりです。
有権者7000万人で、投票率65%なら、100万票です。
しかし残りの95.45%の人々は、その中間にいるのです。

正しいか正しくないかの議論は、多くの場合、±3δの外側にある、+と−の間で行われます。

それは、あたかも+0.13%と、ー0.13%が、まるで自分たちの意見意外は世の中に存在しないと言っているのと同じです。

簡単に言うと、「ー3δ」の共産主義にかぶれた人たちが、自分たちだけにしか通用しない正義を振りかざし、「+3δ」の人たちが、それは良くないと言っている。

ともに両極端の意見にすぎないのだけれど、それで世の中の人すべてを、右か左かに分けようとしているようなものです。

たいせつなのは、真ん中にある圧倒的多数の人達にとっての「よろこびあふれる楽しい国」を築くことであるはずなのに、「+3δ」と「ー3δ」とが互いに憎み合い、いがみ合い、世間の人たちを無理やりこの2極に分けようとして、ますます社会性を失っていきます。

そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、どういうわけか政治や歴史問題がからむと、誰もがその怪しげなパラドックスにひっぱりこまれて、どちらが正しいのか、などと言い始めます。

そしておもしろいことに、こうした極に至れば至るほど、その中は狭い集団になっていき、なかでも強烈な議論を仕掛ける人が、その狭い小さなコミュニティの中では、高く熱烈に評価されるようになります。

いかがわしい新興宗教の自称教祖が、その狭いコミュニティの中で強烈な信仰を集めるのは、この理由によります。

しかし極に至れば至るほど、社会性を失い、世間から乖離していきます。

一方で、人は狭い小さなコミュニティの中にいると安心できるという傾向があります。

ひとりでは寂しいからです。
中道を目指し、より多くの人を巻き込むことで、世の中を大きく変えようとする場合、それはひとりで不特定多数を相手にするわけですから、たいへんです。

しかし正しく生きることができる。

どちらを取るかは、それぞれ次第です。

ねずさん

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