「武士道」

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英軍将兵422名の命を救った帝国海軍中佐 いまも英米で称賛

カミカゼでもバンザイ突撃でもない、旧敵が真に畏敬し、戦後も尊崇の眼差しを送るのは、自艦乗員よりも多くの敵兵を救助する、前代未聞の英断を下した帝国海軍の武士道だった。作家、ジャーナリストの惠隆之介氏が、いまなお英米で讃えられる工藤俊作海軍中佐の「武士道」についてお届けする。

* * *

平成20年(2008年)12月7日、元英国海軍大尉で戦後外交官として活躍したサムエル・フォール卿(当時89歳)は埼玉県川口市、薬林寺境内にある工藤俊作海軍中佐の墓前に車椅子で参拝し、66年9か月ぶりに積年の再会を果たした。

卿は大戦中、自分や戦友の命を救ってくれた工藤中佐にお礼を述べたく、戦後、その消息を探し続けて来たが、関係者の支援の結果、ようやく墓所を探しあてたのである。

卿はこの直後、記者会見で、工藤中佐指揮する駆逐艦「雷(いかづち)」に救助され厚遇された思い出を、「豪華客船でクルージングしているようであった」と語った。
 
フォール卿は心臓病を患っており、来日は心身ともに限界に近かった。これを実現させたのは、何としても存命中に墓参したいという本人の強い意志と、ご家族の支援があったからである。

付き添いの娘婿ハリス氏は「我々家族は、工藤中佐が示した武士道を何度も聞かされ、それが家族の文化(Family Culture)を形成している」とさえ語った。
 
なおこの時は英国海軍を代表して同駐日海軍武官チェルトン大佐が参列、また護衛艦「いかづち」(4代目)艦長以下乗員多数が参列した。まさに敗戦で生じた歴史の断層が修復される瞬間であった。

◆「総員敵溺者救助用意」
 
第二次大戦中、昭和17年(1942年)3月1日午後2時過ぎ、ジャワ海において日本海軍艦隊と英国東洋艦隊巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」が交戦し両艦とも撃沈された。その後、両艦艦長を含む乗員420余名の一団は約21時間漂流した。当初、「友軍が間もなく救助に来る」と互いに励ましあっていたがその希望も絶たれていた。
 
彼らの多くは艦から流出した重油と汚物に汚染され一時目が見えなくなった。加えて灼熱の太陽、サメの恐怖等で衰弱し生存の限界に達しつつあった。中には絶望し劇薬を飲んで自殺を図る者さえいた。
 
翌2日午前10時頃、日本海軍駆逐艦「雷」は単艦で同海域を哨戒航行中、偶然この集団を発見した。工藤艦長は見張りの報告、「左30度、距離8000(8km)、浮遊物多数」の第一報でこの集団を双眼鏡で視認、独断で、「一番砲だけ残し総員敵溺者救助用意」の号令を下令した(上級司令部には事後報告)。
 
一方、フォール卿は、当時を回想して「日本人は未開で野蛮という先入観を持っていた、間もなく機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と覚悟したという。

ところが「雷」マストに救難活動中の国際信号旗が揚げられ救助艇が降ろされた。そして乗員が全力で救助にかかる光景を見て「夢を見ているかと思い、何度も自分の手をつねった」という。

「雷」はその後、広大な海域に四散したすべての漂流者を終日かけて救助した。120名しか乗務していない駆逐艦が敵将兵422名を単艦で救助し介抱した。勿論本件は世界海軍史上空前絶後の事である。
 
工藤艦長は兵に命じ、敵将兵一人一人を両側から支え、服を脱がし、真水で身体を洗浄させた。フォール卿の回想では、「帝国海軍水兵たちは嫌がるそぶりを全く見せずむしろ暖かくケアしてくれた」という。

その後、英国海軍将兵に被服や食料が提供され、士官には腰掛も用意された。しばらく休憩した後、艦長は英国海軍士官全員に対し前甲板に集合を命じた。
 
士官全員が恐る恐る整列を終えると、艦橋から降りて来た工藤艦長は彼らに端正な敬礼をした後、英語で次のスピーチを始めたのだ。

「貴官達は勇敢に戦われた。本日は日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と。さらに士官室の使用を許可したのである。
 
一行は翌3日午前6時30分、オランダ病院船「オプテンノート」に移乗した。その際舷門で直立して見送る工藤艦長にフォール卿は挙手の敬礼を行い、工藤は答礼しながら温かな視線を送ったと言う。

◆天皇訪英反対論を黙らせた
 
平成10年(1998年)4月29日、フォール卿は本件を「英タイムズ紙」に投稿し、「友軍以上の丁重な処遇を受けた」と強調した。
 
英国には戦後、日本軍の捕虜になった英軍将兵たちが「虐待された」と喧伝し、我が国に賠償を求める動きがあった。またこの年の5月には今上天皇皇后両陛下が訪英される予定であった。そこで元捕虜たちは訪英に反対していたのだ。天皇の謝罪を求める投稿文もフォール卿の投稿文と同時に掲載された。
 
ところがフォール卿の投稿文によって、これらは悉(ことごと)く生彩を欠いたのである。
 
一方、工藤艦長の英断は戦後米海軍をも驚嘆させている。米海軍は昭和62年(1987年)、機関誌「プロシーディングス」新年号にフォール卿が「武士道(Chivalry)」と題して工藤艦長を讃えた投稿文を7ページにわたって特集したのである。同誌は世界海軍軍人が購読しており国際的な影響力は大きい。
 
これから4か月後、東芝機械ココム違反事件が発覚し、我が国は国際社会で孤立した。これは対共産圏輸出統制委員会(ココム)が輸出禁止にしていたスクリュー製造用精密機械を、東芝の子会社がソ連へ不正輸出し、ソ連原子力潜水艦の海中における静粛性を飛躍的に向上させた事件である。

このような情勢下で米国の対日貿易赤字は拡大しており、米国民は『安保ただ乗り』と批判し全米で日本製品不買運動が起きていた。
 
このとき日本海軍と交戦した米海軍の提督たちが帝国海軍の後継である海上自衛隊を称賛し、「同盟軍中、最も高いポテンシャルをもつ組織である」(アーレイ・バーク大将)とまで強調したのである。米国内の対日バッシングはこの結果沈静化した。工藤艦長らの遺産が寄与したものと思われる。

その訓示です。

「日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、地位の低い司令官でもない。私は一億国民にかわって、みなに犠牲をお願いし、みなの成功を祈る。みなはすでに神であるから、世俗的な欲望はないだろう。がもしあるとすれば、それは君たちの体当たりが成功したかどうかであろう。みなは永い眠りにつくのであるから、それを知ることはできないだろう。我々もその結果をみなに知らせることはできない。私はみなの努力を最期までみとどけて、上聞に達するようにしよう。この点については、みな安心してくれ。」

ここまで話して、中将は涙ぐまれたそうです。

そして隊員たちひとりひとりの顔を、その目にしっかりと焼き付けるように見回し、ひとこと、「しっかり頼む!」と訓示されました。
さらに訓示のあと、大西中将は、隊員一人ひとりと握手されました。

映画やドラマなどの中では、中将がこの訓示の中で、「私も君たちのあとを追う」と述べたとしているものがあります。しかし当日この場に居合わせた人の話では、中将は隊員に対し、「君たちを送るのに際し、私は行くことはできない。なぜなら私は将官だからだ」と述べられたのだそうです。

実際に、中将がどのように語られたかは、私達はその場にいあわせたわけではないのでわかりません。
けれどひとつはっきりと言えることは、
「行けない」と述べられた、もしくは何も言わなくても、「行けない」と、みんながちゃんとわかって話を聞いていた、ということです。

いまどきのテレビや新聞や国会の野党さんたちなら、

「部下に死ねと言っておいて自分は助かろうというのか。それは問題発言ではないのか」どと大騒ぎするかもしれないところですが、日本人の場合、そんな歪んだ心では全然ないのです。

当時の隊員たちは、誰も中将に特攻してもらいたいなどと毛ほども思わなかったし、それ以上に大西中将の心にある大きな愛と誠を感じていたし、そこに深い信頼の絆があったのです。

どういうことかというと、隊員たちは全員、特攻命令を出す側の大西中将が、自分で飛行機に乗って体当たり突撃をする方がよほど楽だと知っていたのです。

なぜか?
簡単なことです。
一瞬で死ねるからです。

けれど大西中将は作戦指揮者です。
指揮者は戦いの帰趨を見極めなければなりません。
見極めるためには、みんなと一緒に死ぬことができない。

ひとたび飛行機が飛び立てば、作戦の成功はひとえに隊員たちの技量に、すべて委ねられます。

目的を告げ、作戦の成功を祈り、すべてを隊員たちに委ねる。
そして自らは、最後の最後まで戦線の帰趨を見守り、責任を持って戦いを勝利に導く。

それが作戦を企画する中将の責任です。

大西中将は、このときすでにみずからの死を覚悟していたといいます。
その覚悟を全員が「知って」いたし、わかっていたから、中将が「行けない」という、その言葉の裏側にある覚悟をみんなが感じ取ったし、中将の言葉の重さを、誰もが理解したのです。

死を前にして、こういう心の言葉のやりとりができるというのは、当時の軍人たちが、いかに優秀だったかということ、そして日本人の民度がいかに高かったかの何よりの証拠だと思います。

どこかのアマスポーツの就寝(笑)会長のような態度や姿勢からは、それは絶対に生まれないことです。

ちなみにすこし脱線しますが、その会長さんは、事務所の女子職員が定時に帰ることに非常な剣幕で5時間にわたり説教をし続けたそうです。
半島系の人が会社の経営者になったり、事務所の所長になったりして日本人を雇った場合、16時間労働があたりまえとされます。
もちろん給料は8時間分しか払われません。

要するに日本人は責任感が強いし、怒鳴りつければ何でも言うことを聞くから、1日8時間分の賃金で16時間働かせれば、その分、生産に対して人件費が事実上半分になるから儲かる、というのが彼らのコミュニティの中での常識なのだそうです。

それに文句を言ってきたら、怒鳴る。
いつまでも怒鳴り続ける。
毎日怒鳴る。

それで退社したら、あたかも会社側が被害者であるかのようにして、辞めた者の悪口を何年でもずっと言い続ける。

ほとんど偏執狂ですが、それが日本社会では通用すると思っているし、事実それが通用してきたのが戦後日本でした。

つまりそれが彼らにとっての成功体

ほとんど偏執狂ですが、それが日本社会では通用すると思っているし、事実それが通用してきたのが戦後日本でした。

つまりそれが彼らにとっての成功体験でもあるわけです。

彼らの祖国では、権力者が倒れるときは、下の人達がまるで手のひらを返したように、権力者に対して徹底的に石礫を浴びせますが、それだけ彼らは日常的に高圧的に支配され、理不尽を強要され続けることで、社会的ストレスを抱えこんでいるわけです。

だから、きっかけがあると爆発したような蜂の巣をつついたような騒ぎになりますが、そうなってしまうほど、上に立つ者が自分だけがいい思いをして、部下に対して理不尽かつ高圧的であることが常態となっているわけです。

そしてその原因となっているのが、彼らの社会全体を支配しているものが、上下関係による支配の構図です。
下の人は、そのような上になることを望むし、上にある人は自分以外を徹底的にこき下ろして下からの収奪を図り、わがままをし放題に通します。
「ウシハク」社会というのは、およそ、そういうものです。

だから我が国では、古来、権力者のさらに上位に権威を置いて、シラスの中にそのウシハクを内包させてきたのです。

そうすることによって、権力を持つ者は、どこまでもみんなのために人生を捧げるという社会構造が培(つちか)われてきたのです。

日本はそもそもそういう社会だから、下の人(この場合は隊員)たちも、上司である大西中将に絶対の信頼を寄せることができたのです。

これから死ぬとわかっている者が、死を命じる上司にそれだけの信頼を寄せることができる。

そういう社会というのは、これはすごいことだと思います。

こういう話を聞いたことがあります。
課長が部下に、目の前にある肥溜めに飛び込めと命令する。
「はい。わかりました」
と、部下を肥溜めに飛び込ませることができるのが、優秀な課長だ、という話です。

いまならパワハラだと言われそうなことですが、それができる上司には、極端に異なる2つの風土があります。

ひとつは、どこぞのアマスポーツ界のドンさんのような高圧的かつ独裁的な上司であること。

もうひとつは、大西中将のように、部下から絶対の信頼を持たれるだけの上司になること。

両者の外見はよく似ています。

どちらも部下を死地に追い込むことができる。
けれど前者はそのために安直な組織ができ、後者では、立派な組織が生まれます。

その心はどこにあるのでしょうか。

当時のパイロットは、勉学優秀で、国内最難関の海軍兵学校を卒業した若者であり、しかも運動神経抜群で、視力もよい若者です。

要するに、勉強ができて、頭もよくて、運動ができて、礼儀正しくて、字もきれいな、超優秀な若者です。

ガリ勉で視力が落ちたら、それだけで飛行機乗りにはなれません。
彼らは、日本人の若者としてとびっきり優秀な若者であり「宝」です。
その「宝」に、「死ね」と命令する。
しかも「私は行けない」と言わなければならない。
その辛さ。
涙なくしては語れないことだと思います。

そしてそのことを相互に理解できた旧日本軍というのは、上官と部下との間に、強烈かつ強固な相互信頼関係が熟成された、真のチーム、チームというより、むしろ家族そのものといえるものでした。

さらに、中将は隊に常駐しているわけではありません。
おそらく隊長の関大尉ですら、大西中将にお目にかかるのは、はじめてのことです。
けれどそのはじめて会う相手にさえ、絶対的といえるだけの強固な相互信頼が成立する。

誰だって命は惜しいです。

その命を捨ててまで奉公する。

軍人としてだけではない、互いに一個の人間として、深く結ばれた<絆>と<信頼>があったからこそ、中将の訓示は、隊員たちの胸に沁みたし、中将もそれを語ることができています。

「武士は己を知るもののために死す」という言葉がありますが、出世のためでもない、贅沢のためでもない、自分のためでもない、「わかってくれている」と信じ切ることができるだけの絆のある社会。

特攻までして戦わなければならないことは悲しいことですが、そこまでの信頼の絆を持てる社会を生きるというのは、人として生まれて、ある意味最高の人生といえるものなのではないかと思います。
そしてそれだけの社会を、戦前戦中までの日本は、現実に実現してきたのです。

戦後の日本の教育は、友や隣人を愛しなさいと教えます。

けれど国は悪いことをするところだから愛してはいけないと教えます。
しかし国家とは、その国に住む人々みんなの共同体です。

ということは、みんなの友や家族、隣人の相和が、国家なのであり、国家を愛することがいけないことなら、その国家に住むすべての人を愛してはいけないことになります。

これは矛盾です。

国家が共同体であることを忘れ、共同体の中の互いの信頼を忘れて個人主義に走れば、人々は和をなくし、社会の紐帯はバラバラになってしまうからです。

戦後の日本の教育は、友や隣人を愛しなさいと教えます。

けれど国は悪いことをするところだから愛してはいけないと教えます。
しかし国家とは、その国に住む人々みんなの共同体です。

ということは、みんなの友や家族、隣人の相和が、国家なのであり、国家を愛することがいけないことなら、その国家に住むすべての人を愛してはいけないことになります。

これは矛盾です。

国家が共同体であることを忘れ、共同体の中の互いの信頼を忘れて個人主義に走れば、人々は和をなくし、社会の紐帯はバラバラになってしまうからです。

大西瀧治郎中将

昭和20年5月、大西中将は、軍令部次長として内地に帰還されました。
しかし彼は、同じ都内にある我が家へは帰りませんでした。
官舎に独居していました。

それを聞いた者が、「週に一度は帰宅して奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と勧めたそうです。

すると中将は、
「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も
知らないで死んでいったんだよ。614人もだよ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ」
と目に涙をためて答えられたそうです。

若く将来性のある優秀な若者を死の突撃に送りだしたことへの責任を、その重さを、大西中将は誰よりも深く抱かれていたのです。

中将は、終戦の玉音放送の翌日、自らの軍刀で、切腹されました。
ふつう切腹は、重量の軽い短刀を用います。
そして介錯がつきます。

しかし中将は、ひとりで重たい軍刀を手に取り、腹を十字に切り裂き、自決されました。

古式の作法にのっとり、腹を切ったあと、自らの手で頸動脈を切ろうされました。

けれど軍刀は長刀だからずしりと重い。
切腹で体力を使い果たした中将には、もう重たい軍刀で自分の首を斬るだけの体力が残っていませんでした。

翌朝、大西中将は官舎の者に、部屋で血まみれで倒れているところを発見されました。

まだ息があったのですが、中将は医師の手当てを拒みました。
そして発見後約6時間、痛みに耐え続けた後、息絶えられました。

上司・上官の覚悟の言葉を聞いても批判しかできない社会、ただ高圧的なだけの低俗な馬鹿者が組織の頂点に立つだけでなく、終身会長などという戯言かと思うような名聞名利の名声を手に入れる社会と、覚悟の言葉を聞いて、しっかりとその覚悟を受け止めれる高い精神性を持つ社会。

いったいどちらが、世界に認められる国家となりえるでしょうか。

現代日本に生きる私達は、自分は「人間」であると思っています。
なんの疑問も抱かずに、それが世界の常識であると思っています。
けれど、ほんの数十年前までは、それは世界の非常識でした。
人間は、白人種だけであり、有色人種は人間でなく「獣」の一種のヒトモドキと看做されていました。

ですから欧米による植民地統治というのは、白人という人間が、有色人種という野蛮な猿人を統御する国際社会の常識的仕組みだったのです。
そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、それが事実です。

そしてそういう世界にあって、日本人は、どの白人国家より、どの白人種より、知的で、勇敢で、高潔で、誰からも好かれる民族たらんとしました。

だからこそ日本は世界から認められる人間の国家となり得たのです。

大西中将は、そうした日本を代表する、勇気と高邁な精神を持った、立派な帝国軍人としての生き様を、まさに体現されたのです。
高い教育と、高邁な精神、他人のために自らの命すら犠牲を厭わない日本人の心。

そうした無形の「心」が、日本人にとって、なによりも尊い財産として、厳に存在していました。

私達は、そういう日本にあった無形の「心」という財産を、大切に

現代日本に生きる私達は、自分は「人間」であると思っています。
なんの疑問も抱かずに、それが世界の常識であると思っています。
けれど、ほんの数十年前までは、それは世界の非常識でした。
人間は、白人種だけであり、有色人種は人間でなく「獣」の一種のヒトモドキと看做されていました。

ですから欧米による植民地統治というのは、白人という人間が、有色人種という野蛮な猿人を統御する国際社会の常識的仕組みだったのです。

そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、それが事実です。
そしてそういう世界にあって、日本人は、どの白人国家より、どの白人種より、知的で、勇敢で、高潔で、誰からも好かれる民族たらんとしました。

だからこそ日本は世界から認められる人間の国家となり得たのです。

大西中将は、そうした日本を代表する、勇気と高邁な精神を持った、立派な帝国軍人としての生き様を、まさに体現されたのです。

高い教育と、高邁な精神、他人のために自らの命すら犠牲を厭わない日本人の心。

そうした無形の「心」が、日本人にとって、なによりも尊い財産として、厳に存在していました。

私達は、そういう日本にあった無形の「心」という財産を、大切にしていかなければならないのではないかと思うのです。

ですから欧米による植民地統治というのは、白人という人間が、有色人種という野蛮な猿人を統御する国際社会の常識的仕組みだったのです。
そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、それが事実です。

そしてそういう世界にあって、日本人は、どの白人国家より、どの白人種より、知的で、勇敢で、高潔で、誰からも好かれる民族たらんとしました。

だからこそ日本は世界から認められる人間の国家となり得たのです。

大西中将は、そうした日本を代表する、勇気と高邁な精神を持った、立派な帝国軍人としての生き様を、まさに体現されたのです。

高い教育と、高邁な精神、他人のために自らの命すら犠牲を厭わない日本人の心。

そうした無形の「心」が、日本人にとって、なによりも尊い財産として、厳に存在していました。

私達は、そういう日本にあった無形の「心」という財産を、大切にしていかなければならないのではないかと思うのです。

ねずさん

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