「攘夷派公家の暗殺」

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勝海舟と姉小路公知が会談した北御堂。姉小路暗殺の伏線になった=大阪市中央区(志儀駒貴撮影)

大阪メトロ本町駅を地上に上がり、「北御堂(きたみどう)」(大阪市中央区本町)に向かう。イチョウ並木の歩道から石段をのぼると、正面にモダンなデザインの本堂が目に飛び込んでくる。正式名称、本願寺津村別院。約500メートル南側の「南御堂」(大谷派難波別院、中央区久太郎町)とともに、御堂筋の名の由来となった浄土真宗の名刹(めいさつ)だ。
 
明治期の記録では約6600坪の境内に、大小の堂宇(どうう)がひしめく大伽藍(だいがらん)を誇った。その収容能力から、江戸時代には朝鮮通信使の宿舎にも使われた。維新の後、第1回大阪府議会が開かれたのもここだった。
 
幕末、北御堂で歴史的な会談があった。幕府軍艦奉行並の勝海舟と、攘夷派公家の姉小路公知(あねがこうじきんとも)。当時の開国論者と攘夷論者の先鋒(せんぽう)の初めての対峙(たいじ)で、この出会いから、維新史は複雑怪奇に展開していく。

文久3(1863)年4月、姉小路は「22日に当御坊を旅館にして」(津村別院史)とある。会談は25日朝5時に始まった。寓居(ぐうきょ)先の専稱寺(せんしょうじ、中央区淡路町)から乗り込んだ勝は麻の裃姿(かみしもすがた)だった。
 
姉小路は当時、三条実美(さねとみ)とともに攘夷急進派の2トップとされ、将軍徳川家茂を上洛させて攘夷決行の期限を確約させるなど、朝廷での長州藩の代弁者だった。この時も摂海(せっかい、大阪湾)巡察と称しつつ、先に大坂に入った家茂を監視し、攘夷実行の圧力をかける狙いもあったのだろう。

随行約120人の中には過激派志士が70人ほどいた。
これに対し、勝は「西本願寺(北御堂)旅館に到(いた)り、面会。摂海警衛之事を問はる。(略)午後に乗船」(勝海舟『幕末日記』)と淡々と振り返る。
 姉小路に尋ねられるまま、世界の情勢と攘夷の無謀を説き、幕府蒸気船「順動丸」の船上では、沿岸防衛主義の弱点を指摘したうえで、艦船を主体とする海軍の増強を訴えた。
 会談には勝の海軍塾の塾生が同席し、勝を護衛しながら攘夷過激派を牽制(けんせい)。坂本龍馬も、勝の使者として宿所に世界の兵書や海戦図を献上するなど、姉小路に単純攘夷論では世界に通用しないことを説いたという。
 勝はよほど手応えを感じたのだろう。「大いに論じると、姉小路も初めて事情がわかった様子で、すこぶる閉口し、(中略)、いよいよ感服していたよ」(『氷川清話』)という。
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 翌月、姉小路が京で暗殺された。「猿ケ辻(さるがつじ)の変」である。下手人(げしゅにん)として逮捕されたのは「人斬り新兵衛」こと、薩摩藩の田中新兵衛だ。犯行現場に遺棄された刀が新兵衛のものという疑いからだったが、新兵衛が取り調べ中に自殺したことで謎が謎を呼ぶ。
 当時、京・大坂は天誅(てんちゅう)と称するテロが頻発していたが、これほどの大物公家が襲われるのは初めてだ。しかも攘夷派が攘夷派に粛清されるとは-。

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