『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』

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日本人として、皇室と繋がっていることに誇りを感じます。(towsonさん)

皇室の祈りはすなわち「利他心」である。そしてその「利他心」は伝染する。だから我々日本人は、「利他心」にあふれる民族となった。
 
この本の主旨は大まかに言えばそういうことになると思いますが、この本の注目すべきところは、それを豊富な実例を交えて詳らかにしていってくれるところです。

■★★★★★「祈りの意味」(genkiさん)
 
歳を重ね、読書を重ねるにつれ、「利他の心」がとても大切であり、日本人の良さの一つであることに気が付きました。ただそれは普段漠然と感じているだけでした。ところが本書を拝読し、その根源がどこにあるのか初めて理解することができました。・・・

皇室の祈り・・・その意味を、教育現場でもっと教えるだけでなく、大人たちも知るべきだと思います。心が荒んでいても、そこに「救い」を感じる人が大勢いるのではないかと思います。私は日本に生まれたことを幸せに思います。

万民の幸せを願う皇室の祈りこそ、日本人の利他心の源泉。
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■1.歴史学と考古学の分断

美術史の世界的権威である田中英道・東北大学名誉教授の最新刊『日本国史』[1]を読みながら、教授の別の著作に出てくる次の一節を思い起こした。

私は、研究が細分化され、総合力を欠いた研究方法こそが、日本国史研究の最大の癌と考える。歴史家は文献だけにこだわり現地の考古学的な発見も、積極的に取り上げない。取り上げても、それが文献に結びつくことだけを指摘するのである。考古学者は、文献は後代、為政者が作り上げたものとして、無視することが多い。[2, p2]
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文献研究を専門とする歴史家と発掘作業にいそしむ考古学者の一人二役を演じて、ギリシャ古代史を書き換えたのがハインリッヒ・シュリーマンだった。

シュリーマンの自伝『古代への情熱』によれば、子どもの頃、ホメロスの叙事詩『イリアス』に描かれたトロイア戦争で、都市トロイアが炎上する挿絵に魅了された。巨大な「トロイの木馬」が戦利品としてトロイア市内に持ち込まれ、そこから飛び出したギリシャ兵たちが、市を滅ぼすという物語である。

この物語は当時空想の産物であると信じられており、シュリーマンも父親から何度もそう言い聞かされたが、本人はこれを史実だと堅く信じていた。実業家として成功してから、シュリーマンは私財を投じて研究に取り組み、『イリアス』を繰り返し熟読して、そこで読み取った地形を頼りに、ついにトロイアの遺跡を発掘して、神話が史実であることを証明したのである。

■2.考古学的発見を黙殺する歴史学

しかし、田中教授によれば、わが国においては歴史学と考古学はそれぞれのタコツボの中だけで研究しているようだ。ギリシャ古代史の例で言えば、せっかく考古学者がトロイアらしき遺跡を発見しているのに、歴史学者の方はそれを無視して、相変わらず単なる神話として扱っている、というようなものだ。

たとえば、近年、重大な考古学的発見が次々となされているのに、それを取り込んで古代史像を大きく書き換える、という歴史家の作業はなおざりにされているようだ。

考古学的発見としては、日本で1万6500万年前の世界最古の土器が見つかっていること、5千年も前の青森県の三内丸山遺跡では小学校の4階建て校舎ほどの巨大建築跡が見つかり、さらに北海道や長野、新潟から運ばれた黒曜石の飾り石などが発掘されていること、別の6千年前の遺跡からは稲作の痕跡が発見されている事などである。

これらをまともに考えれば、日本列島には数千年前の縄文時代からの高度な文明があったと考えざるを得ないのに、たとえば中学の歴史教科書で過半のシェアを持つ東京書籍版では、いまだに毛皮を着た原始人たちが狩りをしているようなイラストを載せている。

■3.天孫降臨と神武東征の腑に落ちない点

田中教授は「総合力をフルに発揮した研究方法」のお手本を自ら示すように、考古学の最新の発見に加えて、古事記・日本書紀・風土記・祝詞(のりと)などの古代文献、さらには神社研究も加えて描き直した日本の古代像を『日本国史』の冒頭で説明している。

特に、この書が『日本国史』と題されているのは「日本国」の「歴史」という意味であり、日本列島は大和朝廷以前、縄文・弥生時代から、村落・氏族の緩やかな連合という形で、国家が存在していた、という画期的な学説を示しているのである。

この書を読んで、私自身も今までどうも腑に落ちなかった問題が「なるほど」と、まさに目から鱗(うろこ)が何枚も落ちる思いがした。

たとえば、天孫が南九州に降臨したと記紀には書いてあるが、なぜそんな遠地が選ばれたのか。後に、神武天皇がわざわざ東征して大和地方まで行くぐらいなら、なぜ初めから中心地たる大和に降臨しなかったのだろう。記紀が朝廷の権威を高めるために創作されたものだとしたら、そちらの方がはるかに目的に適う。

また神武東征といっても、九州から大和地方までの西日本しかカバーされておらず、中部地方以東はどうなっていたのか、記述がない。大和に都を造っても、そのすぐ東に蝦夷(えみし)でも跋扈していたら、防衛上も危険極まりない。

九州から大和地方まで従えた力があるなら、さらに東海、関東、東北まで一気に平定した上で、中央に都を造ったというストーリーにした方が、朝廷の権威も高まったはずである。朝廷の権威を高めるための創作としては、なぜこんな中途半端な物語になっているのか、訳が分からない。

逆に言えば、天孫降臨から神武東征の神話には、何らかの曲げられない史実が反映されているからこそ、大和朝廷の権威を持ち上げるには不十分な物語になってしまった、という方が合理的な解釈であろう。

■4.高天原として神話化された縄文時代の祭祀国家

田中教授のお叱りを覚悟で、ここで学説のあらすじのみ種明かしをしてしまうと(論証はあとで述べるが)、縄文時代の日本には関東、東北を中心に多くの村落が共通の神道信仰・文化で結ばれたゆるやかな祭祀国家「日高見国(ひたかみのくに)」があった。記紀の「高天原」は、この日高見国を神話化したものだった。

紀元前10世紀ごろから、気候が寒冷化し、それまで東日本に集中していた人口が南下し、西日本に移動し始めた。同時に大陸では周王朝から春秋戦国時代を経て大帝国・秦の成立と脅威が高まり、また大陸・半島からの難民・移民も増えて、西日本の統治が懸案になってきた。

そこで東日本を統治していた日高見国は、西日本の統合を決断した。そのために、まずは日本列島の西端たる南九州に大船団を送って地固めを行い(天孫降臨)、そこから要衝である北九州や中国、近畿地方を抑えていく(神武東征)という挟み撃ち戦略をとった。

神武天皇が西日本を抑えて、大和地方まで進出したことで、従来から東日本を統治していた日高見国と合わせて、日本列島の主要部分はすべて統治下に入った。その後、日高見国の主要部族も大挙して大和に移住し、大和朝廷は繁栄していく。一方、日高見国は、寒冷化とともに人口減少で衰えていき、ついにはその存在も忘れ去られていった。

■5.共通の宗教・文化・交易で平和的に結ばれていた縄文集落群

日高見国の存在について、田中教授は文献学、考古学、現存する神社の研究などから、膨大な論証をされているが、ここでは素人にも分かりやすい何点かのみを紹介しておこう。

まず考古学的考察として、気候が温暖だった約5千年前の縄文中期には人口が東日本に集中しており、人口比では東日本100に対し、西日本は4弱に過ぎなかった[3, p23]。また縄文時代の集落は三内丸山遺跡に見られるように、500人前後の人々が狩猟、漁労、採集をして暮らしていた。そのような縄文遺跡は甲信越から関東・東北に密集していた。

それらの遺跡は地理的に連続的しているので、道でつながり、互いに連絡し合い、物資の交換が行われていたと考えられる。この事は青森県の三内丸山遺跡から、北海道や長野、新潟産の黒曜石の飾り石などが見つかっていることからも実証されている。

縄文土器も関東・東北・甲信越あたりから大量に出土している。太陽信仰につながると考えられる石を環状に並べた遺跡(ストーン・サークル)も、東北・関東に数多く見られる。

同時に縄文時代はきわめて争いの少なかった時代と推定されている。発掘された人骨のうち、何らかの武器の攻撃を受けた痕跡があるのは1.8パーセントで、欧米やアフリカでの10数パーセントよりは1桁少ない。

すなわち、縄文時代の東日本の集落は何千年もの間、共通の文化・宗教を持ち、互いに連絡・交易をし、平和裡に共存していた。従って、それらの集落が連合して、一つの祭祀国家として発展していったと推定することは、きわめて合理的な学説なのである。

■6.神話と神社縁起が語る東国の祭祀国家

日高見国の中心が、現在の茨城県鹿島地方にあったと推定される根拠が、神社縁起などに見られる。『延喜式』にある「延喜式神名帳」を見ると、江戸時代まで皇室と関係する「神宮」は、伊勢の神宮の他には、「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市)と「香取神宮」(千葉県香取市)のみである。三つのうちの二つが関東にあり、しかもこの二つは伊勢の神宮よりもはるかに古い。

鹿島地方は6,7千年前の縄文前期からの土器や遺跡が多数見つかっており、古墳も559基もあり、かつ鹿島神宮の東南2キロの処には、鉄を流した残滓が地表を覆っている製鉄遺跡まである。

鹿島神宮に祀られている建御雷神(たけみかづちのかみ)は、「高天原」に成った最初の造化三神の一柱であり、天照大神よりも先に生まれている。この建御雷神は、香取神社に祀られているフツヌシとともに、「出雲の国譲り」を成し遂げている。

さらにその娘が、天照大神の子・天忍穂耳尊と結婚して生まれた皇孫・ニニギノミコトが「天孫降臨」の主人公となる。天孫降臨に随行したアメノコヤネは中臣氏(後の藤原氏)の遠祖であり、香取神宮に祀られている。大和最大の神社・春日大社も鹿島神宮と同じく建御雷神を祀っている。

ニニギノミコトの四世孫が神武天皇であり、東征においても、建御雷神が高天原から剣を送って助けた。神武天皇は即位の年に、はるばると使いを鹿島に遣わして、建御雷神を祀っている。

こうして神話や神社縁起を見ても、鹿島地方を中心として東日本を統治していた日高見国が、西日本を治めるために天孫降臨から神武東征までを実行した、というシナリオを支持しているのである。

■7.「日高見国」を記した文献

この祭祀国家が「日高見国」と呼ばれた形跡が、文献にも残っている。まず、『日本書紀』の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の陸奥における戦いのあとの描写では「蝦夷(えみし)すでに平らぎ、日高見国より帰り、西南常陸を経て、甲斐国にいたる」と書かれている。

第12代景行天皇の皇子・日本武尊の頃には、主要な部族も大和地方に移住し、日高見国は衰えて、一地方となっていたようだ。

『常陸国風土記』には、「筑波郡茨城の郡の七百戸を分かちて、信太の郡を置く。此の地は、本の日高見の国なり」という一節がある。常陸(ひたち)とは「日立」すなわち「日が昇る」という意味であり、また日高見道(ち)が語源と成っている可能性もある。地名としての「日高見」は現在の日高、日田、飛騨、飯高、日上、氷上などと関連していると思われる。

平安時代につくられた『延喜式』に定められた祝詞には、日本全体を示す際に「大倭日高見国」という言葉が使われている。『旧唐書(くとうじょ)』という中国の歴史書にも「大倭日高見国」という名称が頻出する。大倭が西日本を治める大和朝廷、日高見国が東日本を治める国、ということで、両方を足し合わせて日本全体を意味したと考えられる。

「日高見」とは「日を高く見る」という意味だ。鹿島地方は房総半島の東端で、太平洋から上る朝日を真っ正面に仰ぐ土地である。太陽信仰から考えても、この地が東日本の中心として、朝日を仰ぐ聖地であったことは当然と思われる。その後の「日本」という国号にもよくつながっている。

■8.我々の国家の始まりは、国民全体の問題

以上のように、縄文時代からわが国には「日高見国」があり、それが大和朝廷の母体となったという田中教授の学説は、考古学、古代文献、神社研究などを綜合したものであり、氏の著作では、ここで紹介したものの何倍もの論証がなされている。

これに比べれば、邪馬台国と卑弥呼に関しては、すでに千冊ほども本が出されているというが、「総合力を欠いた研究方法」の典型としか思えない。研究材料は『魏志倭人伝』というごく短い文献だけである。邪馬台国の場所に関して、いまだに畿内説と九州説があることから分かるように、何ら確たる物証も発見されていない。

田中教授によれば、卑弥呼に関連すると考えられる神社もなく、日本書紀や各地の風土記にもそれらしき記述はない。そもそも『魏志倭人伝』の記述には、「顔や身体に入れ墨をしている」「衣は夜具の布のようで、その中央に穴をあけて、そこから顔をだしている」「牛馬はいない」などと、当時の日本の生活習慣とは矛盾した部分も少なくない。

要は、日本に行ったこともない人物が、本人にはどうでも良い「野蛮国」の話を、伝聞だけで書いた文章である。そんな文献だけをいくらこねくりまわしても、なんら価値のある発見は出てこない。

日高見国という教授の壮大な学説には、「総合力を欠いた研究方法」しか持ち合わせていない日本の学界では、見て見ぬふりをするのが精一杯だろう。象牙の塔ならぬ、「象牙のタコツボ」に閉じこもった学者には、それが一番安全だからだ。

田中教授が長年、欧米で学んだ「総合力をもった研究方法」では、もう一つ優れた側面がある。学者、特に功成り名遂げた学界を代表するような人物が、一般読者向けに総合的な啓蒙書を書くという伝統である。人文・社会科学系の学者は象牙の塔に閉じ籠もるべきでなく、一般国民の教養に資するべきだという考えからである。

幸い、田中教授もその伝統に従って、専門論文集[2]の外に一般読者向けの啓蒙書として[1、3、4]を出されている。我々もこれらを読み、自分なりに考え、議論に参加していくべきだ。我が日本という国家の始まりを問う、国民全体にとって重要な問題なのであるから。

                                       

(文責 伊勢雅臣)

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