「国会議事堂が完成までに17年もかかった理由とは」

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国会議事堂が完成までに17年もかかった理由とは

いまの国会議事堂は、完成までに17年近くもかかった建物です。
なぜそんなに長くかかったのかというと、予算の配分を周囲のKoreaや台湾、満洲、樺太を優先したからです。

まわりを優先し、自分のことは後回しにしたのです。

明治天皇から国会開設の詔(みことのり)が発せられたのが、明治14年(1881)10月のことです。
最初の議会(第一回帝国議会)は、明治23年(1890)11月29日に開催されています。

つまり国会議事堂ができあがるよりも46年も前から、国会が開催されていたわけです。

第一回の帝国議会は、いま経済産業省があるあたり(千代田区霞が関一丁目)で行われました。

そこに木造の「第一次仮議事堂」が建てられ、開催されました。
どうして「仮議事堂」という名前になっているかというと、もともと明治20年(1887)4月の閣議で、いまの国会議事堂がある千代田区永田町一丁目に、正式な国会議事堂が建てられることが決まっていたからです。

第一次国会(仮)議事堂(明治23年)

ところが本格的な、諸外国に恥ずかしくない立派な国会議事堂を建てようとすると、たいへんなお金がかかります。
なにせまだ西南戦争が終わって、たった3年しか経っていなかった頃のことです。

資金繰りに苦しい明治政府は、やむなく霞ヶ関に「仮」の議事堂を建設することにしたのです。

それでもこの「仮議事堂」建設には、わざわざドイツから建築家アドルフ・ステヒミューラーを招いて、それなりに立派な建物にしたのですが、第一回帝国議会の会期中の明治24年(1891)1月20日、漏電によって出火し、あえなく全焼してしまいました。

それでどうしたのかというと貴族院(現・参議院)をいまの帝国ホテル(当時は鹿鳴館)で、永田町にあった御用邸の雲州屋敷で衆議院をそれぞれ開催しています。

第一回帝国議会は、3月に閉会するのですが、次の第二回帝国議会は、同じ歳の11月に招集です。

そこで昼夜兼行の突貫工事で、わずか7ヶ月で焼け跡に二度目の木造国会「仮」議事堂が再建されました。

この二度目の「仮議事堂」で、明治24年の第二回から、明治27年春の第六回特別国会までが開催されたのですが、この年の7月には日清戦争が勃発しています。

この戦争の遂行にあたり、天皇の御在所となる大本営が(より戦場に近い)広島に移されました。

これは当時、第5師団と軍港である宇品港が広島にあったこと、当時の山陽本線の西の端が広島駅であったことによります。

陛下の御在所が広島に移ったのです。
ですから国会も広島に移ってきました。

国会議事堂は、いまの広島市中区基町の「リーガロイヤルホテル」のあたりに建てられました。

当時は、いまの広島球場から中央図書館、ひろしま美術館、平和記念公園、そごう、リーガロイヤルホテルのあたり一帯が練兵場として、広大な広場だったのです。

広島に置かれた国会「仮」議事堂
それでどうしたのかというと貴族院(現・参議院)をいまの帝国ホテル(当時は鹿鳴館)で、永田町にあった御用邸の雲州屋敷で衆議院をそれぞれ開催しています。

第一回帝国議会は、3月に閉会するのですが、次の第二回帝国議会は、同じ歳の11月に招集です。

そこで昼夜兼行の突貫工事で、わずか7ヶ月で焼け跡に二度目の木造国会「仮」議事堂が再建されました。

この二度目の「仮議事堂」で、明治24年の第二回から、明治27年春の第六回特別国会までが開催されたのですが、この年の7月には日清戦争が勃発しています。

この戦争の遂行にあたり、天皇の御在所となる大本営が(より戦場に近い)広島に移されました。
これは当時、第5師団と軍港である宇品港が広島にあったこと、当時の山陽本線の西の端が広島駅であったことによります。

陛下の御在所が広島に移ったのです。
ですから国会も広島に移ってきました。

国会議事堂は、いまの広島市中区基町の「リーガロイヤルホテル」のあたりに建てられました。

当時は、いまの広島球場から中央図書館、ひろしま美術館、平和記念公園、そごう、リーガロイヤルホテルのあたり一帯が練兵場として、広大な広場だったのです。

広島に置かれた国会「仮」議事堂

広島での帝国議会は、第7回臨時国会だけです。
次の第八回通常国会(明治27年12月〜翌年3月)は、もとの東京にある国会「仮」議事堂での開催となりました。

国会議事堂が「仮」庁舎ではなく、ちゃんとした議事堂にしようという話は、その間もずっと続くのですが、これがようやく実現する運びとなったのが大正8年(1919)9月、つまり国会の開催が決まってから38年経ってからでした。

翌大正9(1920)年1月30日に、現永田町の国会議事堂建設予定地で、ようやく地鎮祭が開催されています。

この大正9年というのは、国際連盟が結成された年です。

日本は世界の強国として、国際連盟発足時の安全保障理事国でした。
いいかえれば、それだけの世界の大国でありながら、国会議事堂がいつまでも「仮庁舎」のままでは、あまりにもみっともない、ということになったのです。

ところが建設は始まったものの、なかなか完成に至らない。
このことは、それまでの仮議事堂が、わずか数ヶ月で建設されていることと比べたら、完成までに17年弱というのは、あまりにも異常です。

なぜこのように建設工事が遅れたかというと、当時の日本は、Koreaや台湾、満州、樺太に立派な建物の総督府を作ったり、学校を建設したり、道路や橋を架けたり、日本が統治をすることになった周辺の外地のインフラの整備に、毎年莫大な予算を計上していたからです。

たとえばKorea総督府の建物は、昭和元年(1926)の完成ですが、大理石で作られた、実に立派で堅牢な建物でした。

ハルピンや大連や奉天や、ソウルなど、大陸の様々なターミナル駅は、いまでもそのまま使われているくらい、立派な駅庁舎です。

日本は、新しく日本となった地域や、日本の同盟国となった地域の都市インフラを優先し、自国のことは最後の最後の後回しにしていたのです。

その結果、日本の国権の最高機関である国会議事堂は、完成までに17年もかかってしまったのです。

自分のことよりも、周囲のことに気を使う。
日本ならではことではないかと思います。

どこぞの国は、「ウリたちは日本に植民地支配された」と言い張りますが、もし日本がウシハク植民地支配者であったなら、Koreaや満州のインフラ整備などは後回しとなったことでしょう。

なにより自国の権威の発露として、自国の総理府や国会議事堂の建設完成を優先します。

世界中どこの国でも、それが常識です。

しかし日本は違ったのです。
まわりを優先し、自分のことは後回しにしたのです。

そういえば、徳川幕府も、幕府の権威の象徴である江戸城天守閣が焼け落ちたあと、天守閣を再建しませんでした。
幕府の権威よりも、民衆の繁栄を第一にしたからです。

個人的なことを申せば、親父は自営の建設業者でしたが、自宅を新築した際、木造の建物だったのですが、完成までにまる4年もかかりました。
立派な建物だからではありません。

請け負った工事への人夫さんたちの手配を優先したためです。

ですから骨組みのままの状態で長く野ざらしにされていた家屋は、完成したとき柱などが風雨にさらされて真っ黒になっていました。
当時中学生だった私は、住む前に、まる三日がかりで柱や廊下磨きをさせられました。

昔の人は、外の仕事をなにより優先し、常に自分のことは後回しだったのです。
いまとはだいぶ価値観が違うように思います。

ここから先は雑談になります。

どこかの国はそんな日本からの恩義も忘れ、反日を国是にしています。
日本に迷惑をかけられからなのだそうです。

常々思うのですが、どんなに恩をかけてあげても、どんなに良くしてあげたとしても、まったく感謝の心を持たない、そういう心をどこかに置き忘れてきてしまっている人はいるものです。

そしてそういう人にかかわりを持つこと自体が、そのひとにとっての不徳です。

そういう人を相手にすること自体が間違いなのです。
どうしてもお付き合いしなければならならい場合でも、あくまで相手はそういう人物であると割りきり、相手がアコギに出るならば、そのときにすぐに報復できるように備えてから付き合わないと、結果、嫌な思いを(必ず)することになります。

そのようや嫌な奴であっても、千にひとつくらいは良い所があるものです。

だからといって甘い顔をしたら、相手は図に乗るのです。

人も国も同じです。
なによりもまず、かかわらないこと。
どうしてもかかわらなければならないときは、報復の手段を担保した上で、最小限に付き合いを留めること。
これは当然のことです。

考え方が違うのです。
保守系の人たちは、日本はKorea半島に、たいへん「良くしてあげたのだ」と言います。
私もそのように思います。
けれど、当時の日本が、彼らにたいへんな迷惑をかけたのも事実です。

それが何かといえば、彼らは日本が統治するようになるまで、家屋内にはトイレがなく、脱糞は路上で行うのが常識であり習慣でした。
ですから老若男女を問わず、朝になれば誰もが家から出てきて、公開の路上で悠々と黄金を垂れていたわけです。

日本が統治するようになってから、Korea総督府は、何度となく彼らに「路上脱糞禁止令」を発しました。
衛生のために、脱糞は家屋内で行うように、という趣旨です。
けれど彼らは困ったのです。

家の中にトイレはない。外では禁止。
けれど出物腫れ物ところ嫌わずです。

やむなく彼らは家の中に穴を掘り、そこでするようになりました。
ところが、日本と違って、下肥を回収する制度がないのです。
穴は一定期間経過したらいっぱいになります。

ですから、彼らは、いっぱいになると、上から土をかぶせ、家屋内の別な場所にまた穴を掘り、そこでしました。
こうして何年か経つと、床下は有機物の塊になりました。

すると、良い具合に地熱が出るようになり、これがオンドル(温床)となりました。

彼らはそのオンドルに壺を埋め、そこで漬物をつくりました。
地熱があるから、ちょうど良い具合に漬物ができるのです。
けれど、雨が降ると、雨水が壺にはいります。
気がつけば壺の中には、立派な回虫が泳いでいる。

彼らはそれを殺すために、唐辛子を大量に漬物の中に入れるようになりました。

こうして生まれたのが、キムチです。
ですからキムチはいまでも、塩辛などの有機物が入っているほうが美味しいとされています。

彼らはキムチを古くからある伝統料理といいますが、そもそも白菜が畑で栽培されるようになったのが、日本でいう大正年間、つまり日本が統治していた頃のことです。

そういう意味では、彼らの誇るキムチが生まれたことも、彼らの習慣から路上脱糞がなくなったのも、日本が関連しています。
しかし、それが彼らにとって幸せなことであったのかどうかは、また別な問題です。

路上での脱糞を、不衛生でみっともないことと思うのは、日本人の文化が清潔を尊ぶからです。

また古い昔から、資源再生のために糞を肥溜めで発酵させて肥料にする技術や、その回収業を発達させてきたからです。

けれど彼には、そんな回収制度はないし、もともと濊族です。
清潔な暮らしに興味がない。

それよりも路上青空脱糞が、きっと爽快だったのでしょう。
日本は彼らの路上脱糞を禁止などもせず、彼らの好きにやらせておいてあげればよかったのです。

なぜならそれが彼らの国の歴史伝統に基づく文化だからです。

余計なことをしたから、彼らの文化を破壊したと言われるのです。
ほっとけばいいのです。

また、入国や日本人のような名前を名乗ること(通名)も、させて上げる必要など、そもそもどこにもないのです。
関わらない。関わらせない。関わる隙を与えない。

それしかないのだと思います。

ねずさん

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