「スルガ銀不正融資事件」

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スルガ銀不正融資事件が「日本版サブプライム問題」に発展する懸念

シェアハウスをめぐる不正融資事件で揺れるスルガ銀行

単なる「問題」ではなく「事件」
 
シェアハウス案件をめぐる、スルガ銀行の不正融資が問題になっている。同行は、融資審査の段階で、借り手の預金残高を水増ししたなどの不正行為があったことを認めているので、本件は既に「事件」と呼んで問題なかろう。少し前の、東芝の「不適切会計問題」をすっきりと「粉飾決算」と呼ぶ方がよかったのと同じ理屈だ。
 
本件の全貌はまだ明らかになっていないが(同時に事態の解明と公表が不適切なまでに遅いが)、重要な信用データを改竄した融資の実行は、端的に言って背任行為であり、これに関わった行員と上司、さらには実質的な経営責任者は、刑事責任を負わなければならないかもしれない。
 
また、少なくともスルガ銀行をクビになる程度の責任を負わされなければ、同類の事案に対する抑止にならない。司法・行政・経営三者による今後の問題処理が適切であることに期待する。
 
ところで、現在の日本の金融にとって、このスルガ銀行の不正融資事件は教訓の宝庫である。

組織と個人が暴走するとき
 
端的に言って、組織の利益と個人の利益が合致した時、組織と個人の暴走は止まらない危険がある。
 
不正融資に手を染めたスルガ銀行の個々の行員は、おそらく自分のためというよりは、銀行のためなのだという建前を言い訳にして、データ改竄や不当な信用審査の見過ごしなどを行ったのだろう。そう推測するのは、普通の銀行員が自分の責任で、返済能力の怪しい貸し先に融資したいなどと思うはずがないからだ。
 
所属する「組」のためだと思う反社会的勢力の構成員が、組長の命令に従って犯罪を犯したり、もっと一般的なケースでは、兵士が国益や上官の命令に名を借りて平気で殺人を犯したりするのと、構造は似ている。
 
また、これらの場合、組員も兵隊も銀行員も、自分個人の人事評価的利害のためには悪事に関わる方が得だという事情が共通だ。
 
ここでは、組織だけが悪いわけでも、個人だけが悪いわけでもない。両方悪いし、加えて組織の目的・構造・マネジメントのいくつかが悪いのだ。
 
もともと、金融マン個人の利益と、金融会社の利益に完全な一致はない。
 
金融マン個人は、所属する金融会社の顧客にリスクを取らせて手数料を稼いだり、金融会社の株主資本や信用をいわば「見せ金」としてビジネスに使って、手数料や成功報酬(=儲けたときのボーナスや人事処遇)を得るのが、実質的な「ビジネスモデル」なのだ。
 
このビジネスモデルは強力であり、顧客ばかりが「カモ」なのではない。時には、資本主義の頂点にいるかのごとき金融機関の株主までが、リスクや成功報酬手数料を差し出すカモなのだ。さすがのカール・マルクスも、金融資本がチープな金融紳士たちに搾取されるとは想像しなかっただろう。現代の資本主義は、資本家さえもがカモになるところまで進化したのだ。

こうした金融マンの暴走は、マクロ的にも半ばパターン化されて何度も起こっている。記憶に新しいところでは、リーマンショックに代表される世界金融危機を生んだし、日本では1980年代後半のバブルにつながった。
 
金融マン個人を含めた金融ビジネスの暴走を制御する方法がなく、その結果として起こる過剰な信用拡大によるバブルと、その後の不良債権問題を回避しにくいことは、現代経済の大きな弱点の一つだ。

「銀行の利益」を単純に信じるな
 
スルガ銀行から融資を受けてシェアハウスのオーナーになり、後に苦境に陥ったオーナーの中には、「銀行が融資をつけるくらいだから、大丈夫な案件なのだろう」という推定に基づいてリスクを取った方がおられるようだ。

しかし、前述のように、銀行員の利害と銀行の利害は異なることがある

銀行にとって長期的に損でも、銀行員にとって短期的に得になることなら、銀行員がそれを顧客に勧めることは、大いにあり得ることだと思わなければならない。
 
加えて言うなら、「頭金ゼロ。家賃収入は保証します」という今回のシェアハウスの条件は、経済常識で判断して全く不自然だ。
 
十分な低リスクで可能なら、シェアハウスを仲介した業者は、自分でオーナーになる方が儲かる。手間を掛けて、他人を勧誘したりしないのが普通だと推測できるはだ。
 
本件に関わったオーナーたちがどのような補償を受けるべきか、あるいは受けなくてもいいのかは、司法に判断を委ねるべき問題だが、申し訳ないが筆者は、彼らに同情しない。
 
付け加えると、オーナーたちに「専門家が、自分でやった方が儲かることを、他人に紹介するはずがない」といった当然の経済常識があれば、ここまで被害は広がらなかっただろう。こうした常識が、学校や社会に向けた広報を通じて広く伝えられていないのは、国家的な教育の落ち度だ。

金融庁の建前には無理がある
 
これまでスルガ銀行は、金融行政から見て経営的には優等生だった。
 
彼らは、保守的な地銀業界にあっては珍しく、ビジネスにネットを広範に活用したし、利幅の大きな個人向けのビジネスに注力した。
 
スルガ銀行の経営戦略は、部分的には正しかったように思う。しかし、シェアハウスやアパート物件に無理なローンを貸し込んだり、個人の弱みに付け込むあざといカードローンビジネスを拡大したりといった、望ましくない面もあった。
 
金融庁は、わが国の銀行業界に対して、保守的な担保主義に偏って融資に消極的になる「日本的金融排除」があると批判し、有望なビジネスを見極め、あるいは育てるような社会的な意義のある融資に積極的になることを求めてきた。後者は、いわばドラマ『半沢直樹』で描かれた「いい銀行員」の世界だ。
 
しかし、地銀、メガバンクの別を問わず、銀行員は、過去からずっと「半沢直樹のように仕事をしたい」「自分が関わる融資先を育てる喜びを持ちたい」と思ってきたはずなのだ。
 
しかし、現実にはそれが難しい。一つには、銀行員であってもなくても、ビジネスの将来を見極めることが難しいという「能力の限界」だし、やみくもに貸しても将来有望なビジネスが多数あって儲かるというほど経済環境がよくない「機会の限界」の問題でもある。
 
つまり、銀行が理想的な『半沢直樹』になることは、土台無理なのだという厳しい現実を、行政も、何よりも銀行の経営者が知らねばならない。

地銀業界で言うと、近い将来、全ての地銀が生き残ることができるとは到底思えないし、無理に生き残らせることがいいとも思えない。行政と銀行経営者が共に「秩序ある撤退」を選択肢の一つとして真面目に検討するべきだ。

「スルガ型サブプライム問題」の可能性は
 
スルガ銀行が力を入れていた、主として個人向けのアパートやシェアハウスに対する融資、あるいは無担保のカードローンは、多くの借り手が情報弱者であることもあって、一時的に銀行業界の収益に貢献したが、近い将来、今回問題になった案件のような不良債権を生むにちがいない。
 
日本の経済全体に関わる問題としては、似たような性質の“不良”な信用拡大がどの程度あるのかだ。
 
バブルとは、過剰な(=不良な)融資の拡大がもたらす「一時的な資産価格の上昇現象」なので、その規模を決めるのは市場の熱狂よりもむしろ信用の拡大だ。金融業界として金融マン個人への制御が効かないと、金融マンの仕事はこのバブルをせっせと着実に拡大させる。
 
スルガ銀行以外の銀行にも、同行と同類のビジネスが少なくないのではないか。そして、これは、かつて金融危機を起こした米国の「サブプライム問題」と似た構造の問題である。
 
どの程度の規模で、いつ問題が表面化するのかを言い当てることは難しいが、「スルガ型サブプライム問題」に注目しておきたい。

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