「柴五郎中佐」

画像の説明

義和団事件とコロネル・シバ
北京の55日

上の写真は、チャールトン・ヘストン主演の「北京の55日」という映画のポスターです。
ハリウッド映画です。
昭和38(1963)年に製作・公開されました。
義和団に襲撃された北京の外国人居留区の戦いを描いた映画です。
そこで、米海兵隊のルイス少佐に指揮された居留区の外国人が、たった500名の兵力で女性や子供を守りながら、救援部隊が到着するまでの55日間の籠城戦を戦ったという名作映画です。

この映画で、主演のチャールトン・ヘストンが演じた将校は、実在の人物です。
ただし、その人物は、米国海兵隊ではなく、柴五郎陸軍大将の若き日の姿です。

柴五郎中佐

義和団事件というのは、清国の権力者だった西太后が、首都・北京在住の外国人を人質にとって、諸外国に宣戦布告した事件です。
この事件で、北京の公使館区域は、清国正規軍と、義和団の暴徒によって包囲・攻撃を受けました。

そして、4000人以上の外国人たちが百日間の籠城を強いられました。

この時北京に公使館を開いていたのは、英・米・仏・露・独・墺(オーストリア)・伊・蘭・ベルギー・スペインの欧米10カ国と日本です。
各国の艦隊は、救援のために北京へと向かおうとするけれど、途中、清国軍に行く手をはばまれ、退却しています。

そして8月に入ってようやくたどり着いた連合国の援軍の半数は日本軍でした。

籠城戦を戦い抜いた柴五郎中佐は、万延元年5月3日(1860年6月21日)会津藩士(280石)柴佐多蔵の五男として生まれた方です。

藩校日新館、青森県庁給仕を経て、明治6(1873)年3月、陸軍幼年学校に入校しました。
明治10(1877)年)5月に陸軍士官学校に進み、明治13(1880)年12月、陸軍士官学校を卒業。
同期には、上原勇作元帥や内山小二郎・秋山好古・本郷房太郎の各大将がいます。

P・フレミングの「北京籠城」によると、あるイギリス人の義勇兵はとても人間業とは思えない光景を見たと言って、次のように語っています。

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隣の銃眼に立っている日本兵の頭部を銃弾がかすめるのを見た。
真赤な血が飛び散った。
しかし、彼は後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもない。
『くそっ』というようなことを叫んだ彼は、手ぬぐいを取り出すと、はち巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように敵の看視を続けた。
(中略)
戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本兵は、ヨーロッパ兵のように泣き叫んだりはしなかった。
彼は口に帽子をくわえ、かみ締め、少々うなりはしたが、メスの痛みに耐えた。
しかも彼らは沈鬱な表情一つ見せず、むしろおどけて、周囲の空気を明るくしようとつとめた。日本兵には日本婦人がまめまめしく看護にあたっていたが、その一角はいつもなごやかで、ときに笑い声さえ聞こえた。
(中略)
長い籠城の危険と苦しみで欧米人、とりわけ婦人たちは暗かった。
中には発狂寸前の人もいた。
だから彼女たちは日常と変わらない日本の負傷兵の明るさに接すると心からほっとし、看護の欧米婦人は皆、日本兵のファンになった。
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近年の大震災のときでも、自分のことよりも、人のことを優先する日本人の姿がそこここで見られました。

日本人はいまも昔も日本人なのです。

連合軍の攻撃が成功し北京が解放された後にも、柴中佐は、抜群の民政と治安維持を行いました。

清国兵と義和団の暴徒を追い払ったものの、暴力や略奪者が横行する北京において、いち早く治安を回復できたのが「日本軍占領区域」でもあったのです。

そのため他国の占領区域から、日本占領区域に移り住む市民が後を絶ちませんでした。
町は日に日に繁昌しました。
日本軍は横行する強盗や窃盗、無頼漢らは、容赦なく捕えて厳罰に処しました。

また暴行・略奪をした外国人兵士(その筆頭がロシア兵だったそうです)を捕えると、彼らの軍司令部に突き出したのです。

このため事件後も、北京に住む中国人の一般市民は、日本軍を「義軍」として讃え、競って日本軍の占領下に入ってきました、施政者が何を言おうが、学者モドキがいかなるウソを並べようが、民衆は、自分たちの本当の庇護者は誰なのかよく知っているのです。

庶民を苦しめてなんとも思わない施政者と、庶民の平和と安定と保護を第一に考える日本軍。
北京の一般市民が、そのどちらを頼りに思ったかは、火を見るよりも明らかなことです。

ところが、昨今のシナでは、むしろ義和団側を勇敢な戦士と称えているのだそうです。

政治によって歴史が歪められている事例です。
馬鹿な話です。

日本からの救援軍を指揮した福島少将は、清国政府の国益を守るためにも奮闘しました。
清国皇族で実力者の慶親王に「一刻も早く北京に戻り、列国と交渉を始めなければ、清国はその存立が危ない」と使者を送っているのです。

案の定、この北京攻略戦には一兵も参加しなかったドイツが、続々と大兵を送り込み、その兵たちは北京で稼ぎそこなった分を他の諸都市で略奪しはじめました。

そういう時代だったのです。

さらに混乱に乗じて全満州を制圧したロシアは、中国を丸ごと手中にしようと、慶親王の誘拐を計画しています。

これにはイギリス公使マクドナルドがいちはやく情報をキャッチし、柴中佐らと協力して、慶親王の安全を確保してことなきを得ています。

また、事件後、清国と連合国のあいだでは、延々と賠償会議が続いたのですが、この時、最大の賠償金を吹っかけたのがロシアだったそうです。

一番少なかったのは日本で5000万円です。

イギリスが日本の5倍(ただし、出兵数の比で見ると日本の次に低額)、
戦後になってドッとやってきたドイツはイギリスの2倍、わずかな兵を出しただけのフランスも、日本の2倍(出兵数比で日本の100倍)を要求しています。  

義和団の乱に乗じて、自分の政治権力の強化をはかった西太后は高い代償を払うことになりました。

不平等条約や租借地を無くしたいのなら、それが条約で決められたものである以上、我が国のように「条約改正」に努力するほかありません。
なぜなら、それが国際社会のルールだからです。  

たとえ国母であるという圧倒的な清国内の政治的地位があったとしても、政府が暴徒を挑発して他国の公使館を攻めるなどという行為は、いかなる時代にあっても許されるべきことではありません。

ところが、これはあるいみ支那のお家芸でもあるわけです。
現に、最近でも日本の大使館が襲われています。

ただ、最近の支那の暴徒による被害と、明治日本のでは、一点、大きな違いがありました。

明治日本は、軍を持ち、武力の行使ができたという点です。

そして日本は、この義和団事件での勇敢な戦いぶり、そしてその後の治安確保の優秀さをきっかけにして、明治35(1902)年、大英帝国と、対等な同盟関係を結んだのです。

これはすごいことなのです。

それまで英国は「栄光ある孤立」といって、どこの国とも同盟関係をもたなかったのです。

しかも当時の英国は、七つの海を制するとまでいわれた、世界の最強国だったのです。

その世界一の強国が、世界ではじめて対等なパートナーとして選んだのが、有色人種の国、日本だったのです。

さて、この義和団事件については、国際派日本人養成講座で、詳しい経緯が書かれていますので、以下はこれをご紹介します。


「人物探訪:コロネル・シバ」
~義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍
の中心となった柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦~
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h14/jog222.html

■1.唐突な日英同盟締結の背景■

ちょうど100年前の明治35(1902)年1月30日、日英同盟が成立した。

同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナルドであった。
マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診した。

マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示した。
それからわずか半年後には異例のスピードで同盟締結の運びとなった。

イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギリスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。

その背景にはマグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

■2.義和団の地鳴り■

明治28(1895)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。

三国干渉により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあげ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしりとる。
イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香港島対岸の九龍をとった。

こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の結社があらわれた。

呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒を襲うようになっていった。

明治33(1900)年5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。

北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを北京に呼び寄せた。

日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加した。今風に言えば多国籍軍である。

6月4日、北京-天津間の鉄道が、義和団によって破壊された。
北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。
すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

■3.籠城計画■

北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メートルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。
6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。

日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であった。
柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。

日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、能力を見極めようという腹だった。
さらに東洋人がいきなり議論をリードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得ていた。

柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合う意見については「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、という形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持っていった。

■4.義和団の来襲■

6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。
救援部隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上された。
外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。

13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。
おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。
しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。
14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト教民の地域を襲った。
凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千人を数えた。

15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救出してきた。
しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を提案した。
粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価していた。
柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。

この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。

この事に気づいていた柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。
欧米人と違って、日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつき、熱心に協力した。

また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍と共に自衛に立ち上がった。

■6.清国軍も攻撃開始■

6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京退去を命ずる通牒があった。

抗議に赴いたドイツ大使は清国兵にいきなり銃撃され、即死した。

20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と攻撃を始めた。暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲まで持ち出して、公使館区域を砲撃した。

最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリーとベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。西正面と北正面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻撃を受けると、そちらに移動してしまった。

北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間が生じてしまった。
少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてきた。

区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オーストリー、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保護に帰ってしまった。

■7.日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ■

王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。

数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。
その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。
しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。
公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。・・・

この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。
ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。

この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。
睡眠時間は3,4時間。
大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが繰り返し行われた。
総指揮官マグドナルド公使は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。
イタリア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。

6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃が行われた。
多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。
午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げながら北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待ってから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。
敵は20余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大いに鼓舞した。

イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記している。

王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。
王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。・・・

日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。
日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。
わがイギリス水兵がこれにつづく。
しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。

■8.安藤大尉の奮戦■

王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼りにされるようになっていった。
アメリカが守っている保塁が激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦が提案され、激しい議論になった。
そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。

イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。
最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容されていたのである。

安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、たちまち数名を切り伏せた。
つづく日本兵も次々に敵兵を突き刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出した。
館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、30余名の敵を倒した。
安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。

後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。

戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。

当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。

日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。
籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本
人だけである。

■9.コロネル・シバ■

救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、8月13日のことだった。
総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。
その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。
籠城していた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。

14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。
その午後、北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。
冒頭マグドナルド公使が、籠城の経過について報告した。
武器、食糧の窮迫、守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そして公使は最後にこう付け加えた。

北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである。

柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々からも認められた誇らしい感情を味わっていた。

柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍の間でも評判となった。

柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズの記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広く知られる最初の日本人となった。

その後、総指揮官を務めたマグドナルドは駐日大使に転じ、日英同盟の締結を強力に押し進めていくことになる。

柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりから、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したのであろう。

(文責:伊勢雅臣)

ねずさん

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