「奇特者」

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衆議院議員や豊橋市長を歴任した大口喜六という明治時代の政治家が書き残した記録に、小原竹五郎(おはらたけごろう)についての記述があります。

明治12年の夏のことです。
私の郷里の豊橋でコレラが流行しました。
私の住所である船町にも数名の患者が出ました。
しかし伝染力が強いので、誰も遺体の運搬をしてくれません。
私の父はこの当時町の用係を勤めていたのですが、その頃の用係は、後の戸長に相当するもので、町内のあらゆる世話を行っていました。

さて、その頃町に小原竹五郎という若者がいました。
竹五郎は、いつも酒を飲んでは暴れまくる乱暴者でした。
町の人たちは、彼のことを「オボ竹」と呼んでたいそう嫌っていました。

その竹五郎が、この非常事態に、父の勧誘に応じて決然と立ちあがり、進んで遺体の運搬夫の役を買って出てくれました。
彼の動作は勇敢で、見るものを驚嘆させました。
しかし竹五郎は、自分もコレラに感染してしまいました。

初代渥美郡長だった中村道太は、当時まだ豊橋に住んでいたのだけれど、深く竹五郎の侠気に感じて、自ら竹五郎を病床に見舞いました。
私の父もしばしば石塚の庚申堂の一隅にあった竹五郎の床を見舞ったのですが、その甲斐なく、竹五郎はついに還らぬ人となってしまいました。

竹五郎の死後、明治15(1898)年6月20日、竹五郎の墓が建てられました。

このとき中村さんは、自ら筆を揮って墓標に
「奇特者小原竹五郎之墓」
と書いてくれました。

それは幅40cm、高さ1m50cmくらいある石柱で、側面に碑文が刻まれ、今なお龍拈寺の墓地にあります。

男という生き物はどうしようもないアホな生き物で、とりわけ元気が良すぎると、ときとして暴れ者となり、狼藉を働いて鼻つまみ者になったりすることがあるものです。

そんなことがないように、しっかり生きようと思っていても、そもそも世の中は矛盾に満ちているものだけに、なまじ根が真面目だったりすると、真っ直ぐに生きようとするあまり、結果として周囲と衝突してしまい、そのことがストレスになって、暴れてしまうと、今度は、暴れ者とそしられる。

夏目漱石は、そんなことから小説『草枕』の冒頭に、
「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」と書きました。

けれど、そんな暴れ者でも、いざというときには、自分にできる精一杯のまっすぐを示す。
そのことに命を賭ける。
そういう男を、かつての日本人は深く愛しました。

清水次郎長も、戊辰戦争で清水港に幕軍の遺体が多数放置されているのを見て、「人は死んだら仏様だ。仏様に官軍も幕軍もねえ」と、一家を総動員して、多数あった御遺体をきれいに片付けました。

昔の人は、そういう男を「侠客(きょうかく)」と呼びました。

一般に「侠客」は、強気をくじき弱気を助ける任侠者」と言われますが、「侠」という字は、にんべんに「夾」と書きます。

「夾」という字は、両脇に人を抱えて立っている姿の象形で、手や腕で人をはさみこむところから、金へんなら「鋏(はさみ)」だし、陸にはさまれた海なら「海峡」です。

要するに人と人との間にはさまれながら、狭い世間で筋を通して生きる人が、「侠」で、屋外で野良仕事をするのではなくて、屋根の下で暮らしているから「客」となって、「侠客」と呼ばれたわけです。

人は本来、農業など屋外で働いて生きることが本筋で、そこから外れて人と人との間だけで金のやり取りをして生きている人達だから「侠」なのであって、それだけに筋や道理を重んじなければ、人でさえなくなってしまう。

人でなければ人非人で、ケダモノと同じになってしまうから、たとえ様々な行きがかりから、どんなにヤクザとなろうとも、筋だけは通して生きよう。

そうしなければ、人以下になってしまう、というのが、日本人の侠客の一般的思考だったわけです。

そしてこのような思考を可能にしたのが、「人には魂がある」という古代からの日本の思想です。

身はどんなにやつれても、この魂だけは汚さない。
それが日本人の生き方であったし、おそらくいまも変わらぬ日本人のDNAの本質です。

そして永遠の魂が、今生を選んでこの世に生を受けているのです。
まして男に生まれた以上、生涯に何かひとつ、成し遂げていきたいものだと思います。

ねずさん

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