「昭恵カード」

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ウラ社会の視点でみれば「昭恵カード」の無意味さがよく分かる

「佐川宣寿元長官が終わったら、次は昭恵夫人を引っ張り出せ!」と、野党の鼻息は荒い。自民党内においても、安倍一強で出る幕がないとあきらめていた連中が、総裁三選を阻止すべくモゾモゾと動き始めた。

メディアも大張り切りで、昭恵夫人喚問の声はいまや大合唱の観がある。

では、この大合唱の本質は何なのか。森友問題の経緯や事実関係、さらに公文書管理のあり方といったことについて、私は真相に迫れる立場にない。

だが、森友問題そのものには、とても関心がある。交渉術や人間関係術に関するハウツー本の著書が多い私は、多角的な視点で事象を見る習慣があり、そうした視点から昭恵夫人の「証人喚問問題」を見ると実に興味深いのだ。

世論に問いかける事件が起きると、私はまず愚妻の反応を見る。一国民の、いい歳をした専業主婦であることから、世間の受け止め方を代表しているように思うからだ。

その愚妻が「昭恵夫人は喚問すべきよ」と、テレビのワイドショーを見ながら柳眉(りゅうび)を逆立てている。国民は怒っていると、私はハッキリ認識しつつ、「では、なぜ昭恵夫人を喚問しなければならないと考えているんだ?」と、素朴で根源的な質問をしてみた。

「昭恵夫人が籠池さん(森友学園前理事長)を贔屓(ひいき)したから、財務省は国有地を安く売ったんじゃないの。国会に呼んで問い質すべきよ」

「なるほど。昭恵夫人が『安く売れ』と財務省に命じたわけだ」

「いくらなんでも、そこまではしないんじゃない。忖度(そんたく)がどうとかテレビが言ってるから、官僚が気をまわしてやったんでしょう」

「じゃ、昭恵夫人を国会に呼んで何を聞くんだろう」

愚妻は一瞬、言葉に詰まったものの、「でも、総理夫人なのよ。その人が肩入れしているんだから、無言の圧力になるじゃないの」と、譲らないのだ。

そこで、私はさらにこう問うてみた。

「おまえが町内会長をやっていて、通りが暗いので外灯を設置して欲しいと、町内会の人に相談されたとする。どうする?」

「必要なものなら市役所にお願いするわ」

「当然だな。でも、設置してくれるかな?」

「手続きやら審査やら、市の予算もあるから難しいかも」

「どうする?」

「地元の××市議に話してみる」

「それって籠池被告の手法と同じだろ?」

「……」

そして外灯設置が問題化した場合、××市議が行政を恫喝(どうかつ)したとすれば即刻アウトとなるが、行政のほうで忖度したとすれば責任は誰にあるのか。

「おまえ、経緯を知りたいから議会に証人として出てこいと言われたらどうする?」

「いやよ。私は悪くないもの。だって、暗い通りに外灯は必要だと思ったから、そう言っただけよ」

「昭恵夫人の場合は?」

「……」

こんな問答を愚妻と茶飲み話にするのだ。

さらに視点を変え、ウラ社会から森友問題を見ればどうか。「籠池被告は昭恵夫人をうまく引っかけた」ということになる。不謹慎な言い方だが、それがウラ社会の視点から見た本質だ。

トラの威を借りるのはウラ社会の常套(じょうとう)手段で、借りられものであれば、トラだろうがゾウだろうがワニだろうが何でも借りる。威を借り、相手を威圧して意を通す。

籠池被告にそういう意図があったかどうか私は知らないし、実際にそうしたどうかも知らない。ただ、ウラ社会の視点から森友問題と昭恵夫人の関係を見れば、そう読み解けるということなのである。

そして留意すべきは、非は「威」にあるのではなく、それを利用した人間にあるということを見落としてはなるまい。

では、財務省はどうか。麻生太郎財務相が、決裁文書の改ざんは「一部職員が行った」と繰り返し発言したことで、メディアは財務省に責任をかぶせるものだと批判した。

さらに、さわやかイメージの小泉進次郎筆頭副幹事長が「自民党という組織は、官僚のみなさんだけに責任を押しつけるような政党じゃない」と述べたことで、財務官僚が「被害者」であるかの印象を世間に与えた。

だが、それは違う。事情がどうあれ、財務官僚が行った忖度の本質は、相手のためでなく、わが身可愛(かわ)いさのものであって、彼らは決して被害者ではない。そうした処し方に葛藤し、苦悩した官僚が、気の毒にも自ら命を断つケースにつながっていくことを思えば、財務官僚の行為について是非を問うまでもあるまい。

そもそも森友問題の特徴は、これに関わるすべての人間に「言い分」があることだ。籠池被告は「私は理想の学校づくりに邁進(まいしん)しただけ」と主張するだろうし、昭恵夫人は「私はその理念に賛同しただけ」と言うだろう。

財務官僚は公言できないにしても、「総理夫人の案件として、土地払い下げに忖度するのは当たり前」という思いがあるだろうし、野党は「安倍政権の驕(おご)りである」「民主主義の根幹を揺るがす大問題だ」「内閣総辞職すべし」と当然ながら攻撃する。

そしてメディアは「国政批判は使命である」と進軍ラッパを吹き、国民は玉石混交のメディア情報によって「昭恵夫人を証人喚問せよ」という世論を形作っていく。

自民党の安倍サイドは、揚げ足取りによる倒閣を懸念して、昭恵夫人の証人喚問を突っぱねる。みんな「言い分」があり、それぞれにおいてこの言い分は「正義」なのだ。

そこで、昭恵夫人の証人喚問である。昭恵夫人から直接的な働きかけがなく、森友問題が財務官僚の忖度に起因するものであるとするなら、昭恵夫人を証人喚問しても、「隠された事実」が出でくることは考えられない。

「私が真実を知りたいって本当に思います。何にも関わっていないんです」と、福岡で語った昭恵夫人の発言が批判的に報道されたが、第三者がこの発言をどう解釈するかということとは無関係に、昭恵夫人が本当にそう思っているのだとすれば、証人喚問されても「語るべき話」がないと当惑するのは当然だろう。

「昭恵夫人が全否定しても、否定する姿をみれば国民はわかる」と、したり顔で言う意見もある。だが、証人喚問して得られるものがそんな情緒的で不確かな推測でしかないとしたら、まったく無意味であり、これほどの茶番はあるまい。

「昭恵カード」は政局に利用され、野党議員のパフォーマンスに利用され、メディアのバッシングに利用され、財務省の批判かわしに利用され、茶の間の慰みにされるとしたら、証人喚問とはいったい何なのだろうか。

喚問する理屈をどれだけみつくろうとも、私の目には寄ってたかって「魔女狩り」を楽しんでいるようにしか見えないのである。

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