「真面目だった悪代官」

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真面目だった悪代官

「越後屋、お主も悪よのぉ」
「いえいえ、お代官様ほどでは…」
「ガッハッハ」
ご存知、水戸黄門シリーズに登場する悪代官の名台詞です。
しかし、実際の悪代官というのは、実は真面目で不器用なお侍さんでした。

昨今のイメージでは、悪代官といえば、巷のヤクザ者や悪徳商人と結託して庶民を苦しめ、陰で人を斬ったり、果ては年貢の代わりに娘を差し出せという非道者として、ドラマや小説などで扱われます。

つまり、「悪代官=非情な地域の支配者」で、これに虐げられた農民や町人が登場して、対する英雄が、悪代官一味をバッタバッタと斬り倒す。

まあ、小説やドラマという非現実の世界であれば、そのようなモチーフが使われたとしても、罪はないことだと思いますが、実際の歴史まで、本当にそうであったと思い込まれたら、困りものです。

まず、江戸時代のお代官さまというのは、勘定奉行の支配下にありました。

地方にある天領に赴任し、そこで年貢の徴収や石高管理などのお役目をいただいていました。
そのために相当な権限が与えられていました。

ところが、このお代官、比較的裕福だった幕府の直轄領のお代官でも、身分は150俵取り程度の最下層の俸禄武士の旗本が任命されていたのです。
しかも世襲制です。

150俵というのは、いまで言ったら年収600万円です。
その中から、小者2~3人を雇わなければなりません。
つまり、経済的にはかなり苦しかったわけです。

とても金ピカの着物を着ていれるような余裕はありませんし、そのようなことが露見すれば、お上からお叱りを受けてしまいます。
武士は質実剛健でなければならないというのが、江戸時代のしきたりです。

さらに任期も不定です。
数年で交替して、別な任地に赴かなければならないことも多くありました。交替といえば聞こえはいいですが、これには更迭も含まれます。

ここが問題なのです。

年貢を収める時期になると、土地を持った農家が、代官所に米を持参します。代官所では、この米を舛(ます)で計って米を収納します。
このとき、舛(ます)からこぼれた米は、農家が持ち帰っても良いということになっていました。

茣蓙(ござ)にこぼれた米など、お上が徴収したら威厳に関わる、というわけです。

だから納税する人は、マスで計るときに、ちょっとずつお米をこぼします。
こぼれたお米は、持ち帰って良いのですから、このあたりは腕のみせどころです。

計るマスは、一升マスといって、一升瓶一本分が入る大型のマスです。
つまり、ここでこぼれるも、けっこうばかにならない量になります。
手元に残るお米は多いにこしたことはないのですから、これで農家は、小遣いになったわけです。

この「こぼれたお米」が、「おめこぼし」です。

おめこぼしが多くても文句を言わないお代官様は、「良いお代官さま」と言われました。
反対に、お目こぼしを認めないで、かっちりとマスの通りに年貢を徴収するお代官は、「今度のお代官様は、ひでえ奴だ。悪代官だ」と陰口を言われました。

実は、田も同じです。
お代官さまは、領内をくまなくまわって、領内のすべての田畑に、上中下の区別をつけて、収穫予測高を事前に掌握することが勤めになっていました。

このとき、実際には収穫高の多い上田でありながら、中田として登録してくれたりすることも、実は「おめこぼしし」のうちです。

お目こぼしが多ければ、農家は、それだけ生活が楽になるのですから、
「今度のお代官様は、とても人間ができている」ということになります。

ところが、
「何を申す。これはあきらかに上田ではないか」と、規程通りに田の区分をするお代官様は「悪代官」です。

ちなみに、この「悪」という字には、もともと「元気の良い」とか「やりすぎる」といった意味があって、そういう意味からも、まさに「悪代官」と言われたわけです。

もっとも、おめこぼしが多すぎて、極端に「良いお代官さま」に走ると、お上の取り分が減って、お代官さまは、中央のお奉行からお叱りを受けて更迭されてしまいます。

さりとてお目こぼしが少ないと、民から不満の声がでてしまいます。
そのあたりのさじ加減を上手にするのが、お代官という職のむつかしいところだったわけです。

さらに年貢を過酷に取り立てすぎて、管理地域で殺人や強盗などの重大犯罪が起これば、お代官は切腹です。

そもそもそうした犯罪が起こらないようにするために、ありとあらゆる権限が与えられているのです。
にもかかわらず犯罪が起これば、その責任は、当然、地域を監督するお代官の責任です。

いやはやお代官稼業も楽じゃないです。

お代官は、くまなく領内をまわり、すべて・・・すべてです・・・の田畑の石高を調査してまわり、これを帳面につけます。
そして収穫量の把握をして、中央に報告します。
年貢の徴収をしたら、それを一軒ごとに帳簿につけ、安全に勘定奉行にまで、そのお米を届けます。

水害が起これば収量が減ってしまいますから、そうならないように堤防を見てまわり、補修を指揮し、平素から土嚢(どのう)の備えつけの準備の指揮などもとります。

また火災が起こらないように、火の見櫓や、輪番の管理を徹底し、消火桶の備え付けを辻辻に準備もします。
そこにちゃんと水が入っているか、ボウフラがわかないように、ちゃんと水が取り替えられいるかといったことも、お代官の責任です。

これら社会公共事業には、村々の協力が欠かせません。
人徳がなければ、民は協力してくれません。

なにせ、「オラッチは天子様から姓をいただいた百姓だ。木っ端役人何するものぞ」という人たちが相手なのです。

だから自分から進んで村をまわり、領民と接し、日頃から信頼関係を築き、問題意識を共有して、民衆の合意を形成していかなければなりません。

それをワイロなんかでゴマ化したら、途端に人々の口にのぼります。
なにせ人の口に戸は立てられないませんし、そのことが中央にいる上司のお奉行にバレたら、即、更迭、下手をすれば切腹です。

そもそも、武家の教えというのは、私利私欲をきびしく戒め、質素を心がけること、また公共性を重視する自己犠牲の精神のうえに成り立っていると考えられていたのです。

だから行儀作法には、ことのほかうるさくて、食事は必ず男女とも正坐です。

肘を横にはったり、あぐらをかいて食事をするなど、藩主のお殿様でも許されません。

なにせ目の前の食事は、領内のお百姓さんが丹精込めて作ってくれたお米や野菜なのです。
だからちゃんと感謝して「いただきます」と領民に手を合わせて、正坐をしていただくのです。

どこかのTV番組が、立膝をして食事をしている風景をドラマにしていましたが、それは半島の生活様式であって、日本には存在しないことです。

武士は、自ら身を律しなければ、誰もいうことなど聞いてくれない。
聞いてくれなければ、治水も防災もなにもできないのです。

ちなみに教科書では武家を「封建領主」と教えるけれど、封建領主という概念は、西洋のものです。

西洋における「封建領主」の概念は「領地は領主の私有物である」という概念です。

だから国家や藩というものは、領主の私有財産としていろいろな人の手に渡っていく。

土地も領民も、領主の私有物です。

日本における領主は、こうした西洋の「領主」とは、そもそもの成立からしてまるで違います。どこまでも天子様の「おほみたから」を預かっている立場です。だから「預かっている主」と書いて「領主」と書くのです。

戦後の共産主義者による階級闘争史観では、なにやら武家階級は封建領主であり、半島と同じように領内を征服して私有財産(私腹)を肥やすもの、といったイメージにされています。けれど、ここは日本なのです。

まるで違う。
単なる収奪者や私有財産主では、民の尊敬は集められないし、集められなければ、いざというとき、つまり地震や凶作、干ばつ、水害等が発生したときの対策をとることができないのです。

戦国大名にしても、民衆を支配し、厳しく抑えつけたようなイメージで語られますが、有力な戦国大名の地域の人々は今でも戦国大名を懐かしく慕っています。

たとえば山梨では、「信玄」と呼び捨てにすると叱られます。
「信玄公」と呼ばなければなりません。
それだけ、人々から慕われていたのです。

信玄の本拠地となった甲府は、盆地です。
盆地というのは、山間部の山あいに、大水のたびに河川から流れてくる土砂が堆積して、平野になったものです。

つまり、もともと水害に弱い。
信玄は、まさに大規模な治水事業を興して信玄堤を築き、盆地の生活を守った人なのです。

だから慕われるし、慕われたから大規模堤防工事もできたのです。
つまり信玄公は、今風にいえば、いわば土木業者の親方であって、なるほど肖像画を見ても、武将というより、どうみても土木屋の大将といった風情です。

地域の平和を維持し、治安を守り、治水や防火を行い、産業を発達させる。

それをしてきたのが戦国大名です。

江戸時代は、そうした戦国大名の伝統を綿々と引き継いだ時代で、徳川幕府が270年続いたというのも、決して強い力で抑えつけたからではありません。

幕藩体制が、土地や農業や、そこで暮らす人々の生活に、きわめて合理的な社会体制であったからなのです。

全国の各村には村の組織が出来て、おとな(老、長)たちが、村をみんなで共同して運営しています。

これが「おとな」たちの「寄合(よりあい)」です。
20歳前後の若者たちは、実行部隊です。
これが「若衆組」です。

そして村村は、惣をつくって相互に協力して公共事業にあたります。
その総指揮者が領主であり、そこから派遣されてきた地域の監督官がお代官様です。

お代官様は、堅すぎても人から嫌われるし、さりとていい加減では務まらない。

それなりにたいへんなのです。
なにせ命がけです。
一方、俸禄は最低です。

昔の鶴田浩二の歌に、
「産まれた土地は荒れ放題。右も左も真っ暗闇じゃあござんせんか」
というセリフがありました。
さしずめいまの日本なら、「育った会社は荒れ放題。右も左も真っ暗闇」
と言った方が、しっくりきそうです。

日本には、日本の風土に合った統治のスタイルがあります。
単純な善悪二元論では、日本の歴史ははかれません。

「越後屋、お主も悪よのぉ」
などいう悪代官は、我が国には存在すらし得なかったのだと、断言しておきたいと思います。

日本人は、上も下も、もっとはるかに誠実だったのです。
いまどきの左前の政治家や官僚と一緒にしてもらいたくないです。

悪代官は、実はまじめすぎる中央派遣の貧乏武士だった。
真実は、戦後の印象操作でかなり変形されています。

ねずさん

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