「紫禁城の黄昏」

画像の説明

日本が、満州に満州国を建国した。だから日本はCHINAを侵略したのである・・・というのが、中共の主張であり、日本にいる売国左翼の主張でもあります。

事実はどうであったのか。
ここに、レジナルド・フレミング・ジョンストン(SirReginaldFlemingJohnston,1874年-1938年)という人がいます。
彼はイギリスの中国学者で、清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀の家庭教師をつとめました。
そして、のちに香港大学の教授やロンドン大学の東方研究所所長にもなった人物で、当時第一級のCHINA学者です。

彼は、清朝にずっと仕えていたので、清の内部事情に精通していたのです。満洲国建国の経緯や溥儀自身の意思も、彼はよく知っています。
そして彼自身の目で見、肌で感じた体験を綴ったのが『紫禁城の黄昏』という本です。

この本は東京裁判のときに、日本の弁護団が証拠として使おうと証拠物件申請したのですが、却下されています。

理由は簡単です。
証拠採用してしまえば、東京裁判自体が成り立たないからです。

「紫禁城の黄昏」は、戦後長らく世界中で再出版されませんでした。

映画「ラスト・エンペラー」がヒットした頃、この本を岩波書店が岩波文庫として刊行しました。
ところがその文庫では、清王朝についてを説明した1章から10章までが、まるごと削除されています。
しかも序文に満洲国建国に関係ある人物が登場すると、そこだけ虫が喰ったように削除して編集しています。
ここでも左翼反日売国奴の情報操作が見え隠れしています。

ちなみに岩波文庫版で、削除されている部分は、次の通りです。

 第1章 1898年の変法運動
 第2章 変法運動の挫折
 第3章 反動と義和団運動
 第4章 光緒帝の晩年
 第5章 西太后
 第6章 1911年の革命
 第7章 大清皇帝の退位条件
 第8章 大清と洪憲朝
 第9章 張勲と王政復古(復辞)
 第10章 松樹老人(張勲)の自伝
 第16章 王政復古派の希望と夢

ざっと目次をみただけでも、義和団、西太后、1911革命、張勲などなど、まさにこれこそが、以後の歴史を決定づけた重要な節であることがわかります。

あまりの偏向ぶりに、渡辺昇一さんが怒って、多くの訳者に参加してもらい、新たに出版したのが、『紫禁城の黄昏―完訳(上下)』(祥伝社)です。
この本は、いまは文庫化されていて、たいへんお求めやすくなっています。

手元にあるのは、単行本の本の方なので、以下はその単行本の方の帯と前書きです。

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「東京裁判」と「岩波文庫」が封殺した歴史の真実!
清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)のイギリス人家庭教師による歴史の証言。
映画「ラストエンペラー」の原作にして、戦前のChinaと満洲、そして日本との関係を知る第一級資料、待望の完全訳。
上巻では、原著全26章のうち、第一章から第十四章までを収録。
うち第一章から第十章までの邦訳は、岩波文庫版未収録。

近代化を唱える康有為(こうゆうい)の運動が失敗に終わり、西太后が実権を掌握すると改革派の光緒帝を幽閉し、反動政策を推し進める。
だが、ついに革命を誘発し清朝は滅亡。即位して間もない少年皇帝・溥儀は、曖昧な条件の下、そのまま紫禁城に住み続けることになった。

そんな中「帝師」の要請を受けた著者は、日々皇帝に接し、唯一の外国人として紫禁城の内側をつぶさに見聞する機会を得る。
清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)の家庭教師として、皇帝の人となり、紫禁城の内幕、満洲問題と日本との関係を、内側からつぶさに観察したイギリス人による貴重この上ない歴史の証言。原著は1934年刊行。

「紫禁城の黄昏が極東軍事裁判に証拠書類として採用されていたら、あのような裁判は成立しなかったであろう。こういうだけで、本書の価値を知るには十分である。もちろん、何が何でも日本を悪者に仕立て上げたかった東京裁判所は、本書を証拠資料として採用せず、却下した」
(渡辺昇一)
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ではその「「紫禁城の黄昏―完訳」(祥伝社)には、何が書いてあるのか、簡単に要約してみたいと思います。
事実だから文章がとても生きいきしています。
生の歴史が、ここにあります。
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というわけで、その内容の一部をご紹介したいと思います。
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1 清朝近代化の挫折と日露戦争
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清国は西洋諸国に領土を蚕食されていた。溥儀の先代にあたる光緒帝は、
日本に倣って近代化路線をとり、国勢回復を目指した。
叔母にあたる西太后がその試みを絶ち、光緒帝を監禁してしまう。
清国は再び無気力な状態に戻ってしまう。

1989年当時、満洲に住んでいた英国の商人たちは、
「まさに現実のものとなっていくロシアの実質的な満洲併合」について語っている。英国の宣教師の指導者も「私のみならず、私のもとで働くどの宣教師も口をそろえ、満洲とは名前だけで、ことごとくロシアのものと思われる」と明言していた。
これは、眼前にある今の満洲問題の背景を理解しようとする者なら、絶対に忘れてはならない事実である。

Chinaの人々は、
満洲の領土からロシア勢力を駆逐するために、いかなる種類の行動をも、
まったく取ろうとはしなかった。

もし日本が1904年から1905年にかけての日露戦争で、ロシア軍と戦い、
これを打ち破らなかったならば、遼東半島のみならず、満洲全土も、そしてその名前までも、今日、ロシアの一部となっていたことは、まったく疑う余地のない事実である。

満洲がソ連のものとなったら、次は朝鮮であり、そして日本の独立も風前の灯火となる。日本は生き残りをかけてロシアに決死の戦いを挑んだ。

日本は、1904年から1905年、
満洲本土を戦場とした日露戦争で勝利した後、その戦争でロシアから勝ち取った権益や特権は保持したものの、
(それらの権益や特権に従属する)満洲の東三省は、その領土をロシアにもぎとられた政府の手に返してやったのである。
その政府とは、いうまでもなく満洲王朝の政府である。

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2.辛亥革命
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1908年8月、光緒帝の弟である醇親王の子で、3歳にもならない溥儀が
第12代皇帝として即位した。

同年11月14日に光緒帝が亡くなり、翌日、西太后も没した。
死期を悟った西太后が、光緒帝を毒殺したという説もある。
父親の醇親王が摂政となったが、無知無力な人物であり、再び、政治的停滞の時代が続いた。

1911年、辛亥革命が起こった。
翌年、中華民国が成立して、孫文が臨時大統領に就任した。

しかし、皇帝は
一切の政治的権力は剥奪されたものの、その地位は保全され、
宮廷は維持された。少年皇帝はそのまま紫禁城での生活を続けたのである。
王政を倒し、国王を殺害したフランス革命やロシア革命と比べれば、
奇妙な妥協に見えるが、それは漢民族の間でも共和国政府よりも皇帝への忠誠心がはるかに高かった、という実態を踏まえたものである。

清朝は漢民族を異民族支配したが、それは圧政とはほど遠かった。
宮廷の無気力と官吏の腐敗は甚だしかったが、過去3百年間に渡って、
民衆は自由に暮らしていた。西洋諸国や日本の外圧がなければ、革命などは必要なかったのである。

アメリカ人学者ウェルズ・ウィリアムズ博士は、
著書『中国総論』の中で次のように述べている。
「Chineseは個人的に不公平な課税に反抗したり、互いに結託して不当に厳しい役人を殺害・放逐したりするが、その一方で、彼らの皇帝への計り知れない畏敬の念ほど、Chinaの政治で注目に値するものはない。

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3.溥儀の家庭教師
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共和制が始まっても、国内抗争は止まなかった。
1913(大正2)年には第2革命が起こり、袁世凱が大総統となり、
孫文は日本に亡命した。
1915年には袁世凱は皇帝になろうとしたが、第3革命が勃発し、翌年死去。
1917年には帝政復古を図るクーデターが起こったが失敗。
軍閥間の抗争が激しくなった。
ジョンストンが少年皇帝の「帝師(皇帝の家庭教師)」となったのは
1919年だった。

溥儀は13歳。
この時点での大総統は袁世凱の友人で、学者や官僚としての立派な経歴を持つ徐世昌だった。徐世昌は、共和制が失敗して民衆が旧体制を支持した場合には、溥儀を皇帝とする立憲君主制をとることを考えていた。

そしてその際には、
溥儀が立憲君主にふさわしい役割を演じられるよう教育したいと考え、
英語と初等の西洋の学問の師としてジョンストンを招いた。

教え子の皇帝と私との関係は、当初から友好的で仲睦まじいものであった。時が経つにつれ、ますますその関係も深まっていった。

溥儀が最も興味を持ったのは、
世界の時事問題(ヴェルサイユ条約前後のヨーロッパの出来事も含まれる)、地理と旅行、初歩的な物理科学(天文学も含む)、政治学、英国憲政史、そして自国Chinaの政治の舞台で日々繰り広げられる劇的な諸事件だった。

私たちは、これといった手順を踏むわけでなく、このような話題についてChina語で自由に話をする。したがって当然のこと、あれこれと話をしているうちに時間がとられ、英語の学習時間も削られることになる。
紫禁城に閉じ込められた少年皇帝の目は、中国国内の動乱と世界の情勢に向けられていた。

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4.張作霖
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この間にも、中国の国内情勢は混乱の度を増していった。一般大衆の意見はというと、当時のChinaの多くの地域で人々が共和国に幻滅しきっていたことは間違いない。
共和国はよいことを山ほど約束しておきながら、貧苦以外は、ほとんど何ももたらさなかったからだ。ジョンストンはこう述べて、証拠の一つに中国で発行されている欧州人による新聞の次のような記事を紹介している。

「増税したことと官吏が腐敗したことにより、国民は満洲朝廷の復帰を望むようになっている。満洲朝廷も悪かったけれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。満洲王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえるだけでなく、他の地方でも満洲朝廷を未だに望んでいるのである。」

満洲王朝を望む声は、当然ながら、満洲および蒙古(モンゴル)では一層強かった。
蒙古族は、満洲族がChina本土を征服する際に協力し、その後、清国に属して、清朝皇帝に忠誠を誓ってきた。
だから漢民族が独立して共和国を作っても、それに従う理由はさらさらなかった。
外蒙古はすでに1912年、中華民国が成立した際に独立を宣言している。
同時に、日本の後ろ盾を得て、満洲を独立させようという動きも、ジョンストンの耳に届いていた。

同年(1919年)の7月20日、
私は個人的な情報筋から次のような報告を受けた。
「張作霖は君主制を復古しようと企んでいるが、その意図は翌年の秋に奉天で若い皇帝を帝位につかせ、同時に日本の保護下で満洲を独立国として
宣言することだ」というものだった。

日露戦争でロシアを駆逐して、満洲を返してくれた日本の力を借りようという考えは、ごく自然なものだったろう。

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5.日本政府による溥儀の保護
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1924年11月5日、
大規模な内乱の中で、反乱軍の一部が紫禁城に乱入した。
反乱軍は、溥儀に3時間以内の退去を命じた。
溥儀はごくわずかの身のまわりの物をまとめ、父・醇親王の邸宅に身を寄せた。ここも反乱軍の監視下にあったため、私は危険だと考えて、
皇帝を連れだし、受け入れ先を捜した。
私はまず日本公使館に向かった。

そうしたのは、
すべての外国公使の中で、日本の公使だけが、皇帝を受け入れてくれるだけでなく、皇帝に実質的な保護を与えてくれることもでき、それも喜んでやってくれそうな(私はそう望むのだが)人物だったからだ。
ジョンストンは日本の芳沢公使に皇帝を保護して欲しいと懇願した。
公使はしばらく考えてた後、その懇願を受け入れた。

溥儀は数カ月間、日本公使館で保護された後、天津の日本租界に移り、
同地で7年もの亡命生活を送った。
この間、日本政府は溥儀を利用しようという素振りすら見せなかった。
それどころか、日本や、日本の租借地である満洲の関東洲に皇帝がいては、日本政府が「ひどく困惑する」ことになるという旨を、私を通して間接的に皇帝に伝えたほどである。日本政府にとって、溥儀は招かれざる客であった。

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6.満州国の建国
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1930(昭和5)年、私は溥儀と別れ、イギリスに戻った。
翌1931年9月、満洲事変が勃発。

ちょうどその直前に、私はイギリスの外交関係の任務を得て、中国を再度、訪問し、天津で溥儀とも再会していた。
11月13日、上海に戻ってみると、私的な電報で皇帝が天津を去り、満洲に向かったことを知った。

Chineseは、日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連れ去ったように
見せかけようと躍起になっていた。

その誘拐説は
ヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。
だが、それは真っ赤な嘘である。皇帝が誘惑されて満洲に連れ去られる危険から逃れたいと思えば、自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話なのだ。

1932年、関東軍(大日本帝国陸軍)は満洲国を設立し、溥儀を「執政(最高行政官)」として招請した。
皇帝が北へ向かうと、彼の乗った特別列車はあちこちの地点で停車し、
地方官吏やその他の役人たちが主君のところへ来て敬意を表するのを許した。龍は古き故郷に帰って来たのである。

その後、溥儀は満州国の皇帝となった。
満州国は関東軍の庇護のもとで、五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)のスローガンを掲げ、平和な国土作りに邁進した。
戦乱の続くChina大陸から毎年100万人以上の民衆が万里の長城を超えて、豊かで平和な満洲国になだれ込んでいった。

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満洲族は、漢族とは言葉も文字も習俗もまるで違います。
そして満州は、万里の長城の北にある土地です。
そもそも、万里の長城から北は、Chinese(漢族)の土地ではありません。だからこそ万里の長城も築かれたのです。

満洲国は、満洲という土地に、満洲族(女真族)一番の直系の王族が戻ってきて建てた国です。
満洲が中国の一部だというのは、チベットや新彊が中国だというのと同じ発想で、Chinaの侵略思想でしかないのです。
満洲のことを中国東北部と称すること自体が、中国政府の侵略史観です。

満洲国というのは、満州から出てChinaの覇権を握っていた清朝政府が、本来の自分たちの土地に満洲民族の帝国を復活させたい、わば満人の満人による満人のための国家です。
その満州人国家をつくるに際して、世界は一家、人類はみな平等という八紘一宇の精神を持つ日本が、建国のための指導をしましたが、巷間言われる「支配」と、「指導」では、その意味合いはまるで異なります。
日本が当時行ったのは、あくまでも「指導」です。

なぜなら国家は、その国に住むその国の人々のものだからです。
実際、大臣はすべて満洲人か、清朝の遺臣でした。
首相だった張景恵などは、戦後もずっと日本にたいして友好的な態度をとっていました。

満洲の老人たちは、いまでも「われわれにも自分たちの国があったんだ」と涙を流します。
しかしもう戻れない。満洲国の血筋自体が消されてしまったからです。

歴史は繰り返すといいます。
争いを好まず、規則規律を大事にし、道端にはチリひとつなく、イザベラ・バードをして“この世のユートピア”と言わしめた日本は、いまや崩壊の危機に陥っています。

このままいけば、日本は、ウイグルや満州のようになってしまいかねません。
韓国だって同じです。
調子に乗って日本叩きに邁進していると、イの一番に吸収され、粛正されるのは、韓国です。

在日コリアンにしても、自分たちの利権ばかりを主張し、日本を貶めることばかりしていたら、結果、Chinaに呑みこまれ、すべてを失うのです。

終戦直後の台湾で、「日本という犬が去って、Chinaという同胞がやってくるのだ」と、国民党兵士を喜こんで迎えた人々がいました。
彼らは国民党が上陸する港に集まり、爆竹を鳴らして拍手で迎えました。

ところが船から降りてきた国民党兵士を見て、彼らは驚きました。
兵士といえば、日本兵のようにやさしくて、規律正しく、服装もきちんとしている人たちというイメージしかなかった台湾の人々の前に現れたのは、
服装もデタラメ。靴さえ履いていない者がいる。
体中に、鍋や釜、貴金属やらの財産をくくりつけ、
中には血のついたピアスを胸にぶら下げている者もいました。
ついさっきどこかの女性の耳からひきちぎってきたものに違いありません。

そして拍手をもって迎え入れたChineseたちは、台湾の町中で略奪の限りを尽くし、女とみれば手当たり次第強姦しました。

台湾の市民は、10万人規模のデモを起こしました。
けれど、時すでに遅し。国民党は、台北の市庁舎の屋上に機関銃を据え付けると、これを台湾の市民に向かって乱射しました。
市民の犠牲者は、約3万人にものぼりました。

満州も同じです。
下の動画を見ていただくとわかるけれど、満州国時代の新京は、実に清潔で平和で文化的な街でした。
是非、動画をご覧いただきたいと思います。

ところがそこに戦後、Chineseが乱入しました。
日本人の共産党員が手引きして、日本人女性や親日満人に対し、強姦・殺害を繰り返しました。
街も文化も、人々の生活も、破壊されました。

日本は世界の良心です。
その日本を守るのは、そして子や孫の時代に、素晴らしい日本を残すのは、私たちの世代に課せられた最大の課題です。

「紫禁城の黄昏」は、その後、『ラスト・エンペラー』というタイトルで、映画化されました。

この映画は、イタリア、中華人民共和国、イギリスの合作とされていますが、資金のほとんどはChinaマネーであったといわれています。

もっともこの映画、Chinaではほとんど上映されませんでした。
理由は、あまりにもすぐそれとわかる嘘が多くて、本国のChineseたちには見せられなかったこと、もうひとつは、実際の中共政権の前の清国への回帰運動(中共政府の倒閣運動)に結びついたらマズイとの判断があったからとも言われています。

ただし、世界的には相当の宣伝効果があったようで、あたかも日本軍によって、溥儀が不当に扱われたような設定になっています。

要するに内容は、原書となっている『紫禁城の黄昏』とは、程遠い。

Chineseにとって歴史は、事実を解明し知ることで現在を良くし、より良い未来を築くものではありません。

歴史は、プロパガンタであり、捏造し、刷り込み、いま優遇されている人たちを、より豊かにするためのツールでしかありません。
民衆のための政府なのか、一部の金持ちのための政府なのか。

現在を拓き、未来を築くために、私たちは真実を発信し続けていかなければなりません。

ねずさん

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