「葛飾北斎が西欧に与えた衝撃」

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葛飾北斎が西欧に与えた衝撃

ゴッホ「こんなに単純な日本人が教えてくれるものこそ、まずは真の宗教ではないだろうか」

■1.『北斎とジャポニスム』

東京・上野の国立西洋美術館で開催されている『北斎とジャポニスム HOKUSAIが西欧に与えた衝撃』が大人気のようだ。ホームページの「みどころ」では、モネ、ドガ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガンなど西欧の画家たちと北斎の絵を比べ、彼らがいかに北斎から影響を受けたかが、一目で判るようになっている。

例えばクロード・モネの『陽を浴びるポプラ並木』は、北斎の『冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷』の松並木とそっくりだし、ポール・セザンヌの『サント=ヴィクトワール山』は、『冨嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二』と、手前に樹木を配し、遠くに山を望む構図からして同じである。

しかし、北斎が西洋の画家たちに与えた影響は異国趣味という皮相的なものではない、と西洋美術史の大家、田中英道・東北大学名誉教授は著書『葛飾北斎 本当は何がすごいのか』[1]で指摘している。

この点に深入りする前に、まず北斎の「すごさ」を田中教授の解説から辿ってみよう。

■2.『富岳三十六景 神奈川沖浪裏』に見る自然信仰

北斎の作品で、最も有名なのは『富岳三十六景 神奈川沖浪裏』であろう。大波がせり上がって、今にもざんぶと小舟に襲いかかろうとしている瞬間を描いている。その波頭の下にはるかに遠い富士が見える。この作品について田中教授は次のように解説している。

海の向こうに富士山が見えるが、富士山と波は一体化している。そんな大自然の中、漁船のような和船の中で、漁夫か客かはわからないが、よく見ると、ひたすら伏している人々がいるのである。そのあいまいに伏す人間の姿は、人間が自然に帰依している姿を表現しているととることができる。

自然に伏しているという意味で、日本人の根底に流れている神道の自然信仰を明らかに示していることになる。あるいは神道の山への信仰を表している。遠くの富士山にも伏している。海の上で富士講と同じことを行っている姿を描いているのである。

「富士講」とは、江戸時代に流行した富士山を敬う信仰である。富士山を拝み、また富士詣(登山)を行う。富士山まで行くのは大変だったし、女人は入山が禁じられていた。そこで富士山を模して、高くても10メートルくらいの富士塚が関東全域で2、3千近くも作られた。

西洋人がこの絵を見ると、海の激しさや自然の暴力的な力を感ずるということだが、船の中できちんと並んで一斉に伏し拝んでいる人々を見ると、恐怖に駆られているようには見えない。猛々しい波が船を木の葉のようにゆり動かしているが、波間の向こうに小さく見える富士は神々しくも静かに収まっている。

その富士の静けさと人々の一心の祈りが通じ合い、今にも砕け散る大波の荒々しさとコントラストをなしている。『富岳三十六景』は富士山を中心とした北斎の自然信仰を描いた図なのである。

■3.北斎の名に込められた自然信仰

生涯に号を変えること30回という北斎が、その名を使い始めたのは寛政11(1799)年だった。すでに40歳近くになっていた。

寛政6(1794)年初頭から翌年正月まで、ぷっつりと消息を断った空白期間があるが、この期間だけ写楽が活躍しており、絵の類似性と文献や版木などから、北斎は写楽と名のって人物画を描いていたという説を田中教授は説得力を持って述べている。これはこの本の中でも大変面白い部分なのだが、詳細は原本を参照いただきたい。

北斎の「北」とは、北極星と北斗七星を示唆したもので、妙見信仰と掛けたものだと考えられている。妙見菩薩とは「北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩。国土を擁護し災害を減除し、人の福寿を増すという」(『広辞苑』)。

国土を擁護する妙見菩薩を信仰し、国土の中でも最も神々しい富士をひたすらに描く。北斎の芸術にはそのような自然信仰が脈打っていた。

北斎は「師造化」と言う印を使っていた。「唯一の師は造化である」という意味であり、「造化」とは宇宙や万物、天地自然を創造する神のことであり、また自然の摂理や天地宇宙そのものをいう。自然を観て、そこに潜む造化の妙を写しとること、それが北斎の志だったようだ。

田中教授は、北斎はレオナルド・ダ・ヴィンチと並び立つ画家であると評価しているが、興味深いことにそのダ・ビンチも「美術の師は自然である」と言っている。ダヴィンチはキリスト教圏に生まれたのにもかかわらず、「神」といわず「自然」という言葉を使っているのは、伝統的なキリスト教の世界観から踏み出していたのであろう。

■4.ジャポニスムの衝撃

19世紀中葉の日本の開国に伴い、浮世絵など日本の美術がヨーロッパに流れ込んで人気を博した。これをジャポニスムと言う。

1878(明治11)年のパリ万博では日本画家が派遣され、即席で絵を書くところをたくさんの画家たちが集まって見ていた。そのなかにはセザンヌもいたようだ。この画家は輪郭線をはっきり描かない朦朧(もうろう)体という手法で山水画や植物画を描いており、これ以降のセザンヌの絵も、水彩画のような朦朧体になっている。

後にセザンヌは『サン・ビクトワール山』を36点ほどのシリーズで描いた。これは北斎の『富岳三十六景』に倣ったものらしい。

同様に、アンリ・リヴィエールと言う版画家が『エッフェル塔三十六景』を描いた。エッフェル塔が『富岳三十六景』の富士山のように描かれている。「これは、パリの人々にとってエッフェル塔が富士山に等しい中心的な存在であることを如実に示している」と田中教授は指摘する。

江戸が富士に守られていることを北斎が描いた、と述べたが、パリもエッフェル塔によって守られているのである。パリからは山が見えない。エッフェル塔が建てられるまではモン・サン・クレール教会堂ほどの高さがあるモンパルナスや、モンマルトルの丘がその代りであった。

1889年(明治22年)にパリ万博が開かれるのを機に、ギュスターヴ・エッフェルと言う建築家が『富岳三十六景」の富士山に、やや似た形の塔を建てたというのが、今のエッフェル塔なのである。

これによってパリの人々の心が安定するようになった。毎日見上げる塔があるからである。

富士山に似せて作られたエッフェル塔を、『富岳三十六景』をまねて描かれたのが『エッフェル塔三十六景』なのである。

■5.ジャポニスムによって、絵画の主題が一変した

モネは「ラ・ジャポネーズ」という日本の着物を着た西洋人女性の油絵を描いているが、これはまだ「日本趣味」の段階だろう。のちに日本人の自然と人間とのかかわりを理解するために、フランスのノルマンディー地方ジヴェルニーに和風庭園を造り、池には日本の太鼓橋まで架けた。

日本人にも人気の高い「睡蓮」の連作は、ここから生まれた。なんのことはない、北斎などの影響を受けたモネの作品が、日本人にとっても親しみやすいのは当然のことだろう。

田中教授は次のように指摘する。

ジャポニスムを体験した印象派の画家たちは、物語や宗教画といったそれまでのヨーロッパ絵画の伝統的な主題を描かなくなった。その代わりに彼らが描いたのは、風景であり、静物であった。絵画の主題が一変してしまったのである。

それはなぜか。彼らがヨーロッパの伝統的な思想を拒絶して、そのかわりに発見したのが「ジャポニスム」、北斎の描いた日本に入り込もうとしたのである。

「ヨーロッパの伝統的な思想」とはキリスト教である。当時、ニーチェは「神は死んだ」と言い、哲学者フォイエルバッハは「宗教は人間が作った」、さらにマルクスは「宗教はアヘンである」とまで言った。キリスト教の神を完全否定する動きがインテリたちの一部にあり、そういう意識が芸術家の間でも共有されていた。

それゆえに「ジャポニスム」の芸術家たち、ゴッホにしてもモネにしても、単に日本趣味に迎合しているのではなく、神に代わる近代の信仰の対象を日本人に求めたのである。あるいは宗教に代わる日本人の自然道ーーやまとごころに基盤を求めたのである。

■6.ゴッホの「太陽信仰」

ゴッホは貧しい生活の中でも多くの浮世絵を買い集めて、壁に飾っていた。また歌川広重の浮世絵を模写したりしている。

ゴッホは牧師になろうとしていた。だからもちろんキリスト教の神を信じている。ところが、「ジャポニスム」に出会ってからの彼の絵は急に明るくなった。 1885年頃のことである。彼は自然信仰に変わるのである。特に太陽信仰である。だから彼の『ラザロの蘇生』ではキリストの位置に太陽が表されているのだ。

ラザロはイエスの力で死から蘇った人物である。その蘇生を見て人々はイエスを信じたというから、キリスト教にとって重要な逸話であった。レンブラントの『ラザロの復活』では、地下墓所と思われる暗い部屋で、イエスが右手を大きく挙げ、ラザロが棺桶から起き上がっている。

それに対してゴッホの『ラザロの蘇生』では黄色い太陽の下で、ラザロが上体を起こし、日差しを浴びた女性がそばで驚いている。ラザロを蘇らせたのは太陽なのだ。

もう一つ、ゴッホの「太陽信仰」が明らかに窺われるのは、『種まく人』だろう。これも聖書からとられた題材で、イエスが「種まきが種を蒔いたが、ある種は道ばたに落ち」と「神の言」を種にたとえて、正しい心に蒔かれなければ、種も枯れてしまう事を説いた逸話である。

ミレーの「種まく人」は薄暗い風景の中で、逞しい農夫が種を撒く姿を躍動的に描いている。ゴッホはこの絵に触発されて、自らも「種まく人」を描いたが、人物は畑の片隅に小さくなり、たくましさも躍動感も失われている。その代わりに絵の中心となっているのは、地平線に接した巨大な黄色い太陽である。太陽の燦々とした光が空全体を黄色く染めている。

■7.アルルは「まさに日本そのものだ」

死の前年、1888年、ゴッホは南フランスのアルルに移り住んだ。そこを「画家たちの天国以上、まさに日本そのものだ」と賛嘆している。ゴッホは「日本」を求めて、アルルに行ったのである。

これを知った時、筆者は「南フランスが日本の代わり?」と多少の違和感を感じた。日本の海や山に囲まれた風景と、なだらかな丘陵が続く南仏の風景とは、どうにも一致しなかったからだ。

しかし田中教授の「自然信仰」と言う指摘を知って、この違和感は解消した。ゴッホが生まれ育ったオランダの地は、日の光に乏しい陰鬱な光景だが、南仏は太陽がさんさんと照り、様々な植物が生き生きと繁茂する豊穣の地だ。ゴッホがこの地を見て「まさに日本そのものだ」と言ったのは、その自然信仰、太陽信仰にぴったりの光景だったからであろう。

ゴッホの代表作「ひまわり」はこの地で描かれた。生き生きとしたひまわりの花は、太陽のエネルギーから得た生命力に満ち溢れている。

そこが見て取れないと、ゴッホの絵の明るさは分からないし、素晴らしい太陽に満ちた『ひまわり』を描いたわけもわからない。彼は日本に触れ、そこに神に代わる新しい文化があると感じたのである。そのシンボルが太陽、つまり日本人にとってはアマテラスである。

ゴッホ自身が、次のように言っている。

日本美術を研究すると、明らかに賢く哲学的で、知的な人物に出会う。・・・その人はただ一本の草の芽を研究している。・・・どうかね。まるで自分自身が花であるかのように自然の中に生きる。こんなに単純な日本人が教えてくれるものこそ、まずは真の宗教ではないだろうか。

江戸日本の、特に北斎の芸術は、ゴッホの自然観、人生観、宗教観までも変えてしまったのである。

■8.「この千年で最も重要な功績を残した世界の人物百人」

ザビエルが来日してから500年も経ち、多くの神父や牧師が西洋からやってきて日本人のキリスト教化を目指した。明治以降は多くの日本人が欧米に留学して、キリスト教社会の中で暮らし、西洋文明を学んだ。それでも日本人でキリスト教を信じるのは1%以下にすぎない。

逆に江戸の自然信仰はキリスト教の行き詰まりを感じた西洋の芸術家たちに、「自然の中に生きる真の宗教」を教えたのである。

1999年に、アメリカの『ライフ』誌は「この千年で最も重要な功績を残した世界の人物百人」という特集を組んだ。その100人の中でたった1人選ばれた日本人が葛飾北斎であった。19世紀ヨーロッパの単なる異国趣味ではこのような評価はなされるはずもない。北斎を通じて日本人の自然信仰がヨーロッパに与えた思想的影響はこの千年の中でも、特筆すべき事件だったのである。

                                         (文責 伊勢雅臣)

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