『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』

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■1.「違約背信は彼らの持前(もちまえ、本性)」

「違約背信は彼らの持前(もちまえ、本性)」「朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して」などと、今日ならヘイトスピーチと言われそうな発言が120年前の新聞紙上でなされた。福澤諭吉が明治30(1897)年に『時事新報』に書いた論説である。[1, p130]

現在の慰安婦問題に関する文在寅政権の迷走ぶりを見たら、福澤は草場の陰でため息をついているだろう。「120年経っても朝鮮人は変わらない」と。

2年前に「最終的かつ不可逆的に」解決したという合意がなされ、韓国は日本政府から元慰安婦への支援金10億円を受け取ったが、ソウル日本大使館前の慰安婦像はそのまま、他地域での慰安婦像建立も続いている。

文在寅政権は、交渉過程を一方的に公表し、なおかつ「当事者(元慰安婦の女性)と国民を排除した政治的な合意」と非難した。日本政府が厳しく反発すると、今度は「再交渉は求めない」と後退したが、韓国政府が10億円を拠出するという意味不明の方針を表明し、「被害者が望んでいるのは自発的かつ心からの謝罪だ」などと注文をつけた。

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合意成立時点でこの件は「韓国の国内問題」(政府高官)である。今さら文氏が、騒ごうがどうしようが「ホント何言っているんだって感じだ」(外務省幹部)と突き放している。
「韓国は放っておくということだ。まあ別に、こんな表明をしても、国際社会から笑われるだけだから」[2]
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というのも、当然の反応だろう。この感想は福澤の発言とよく通じている。アジア経済を専門としてきた渡辺利夫・拓殖大学前総長の最新刊『決定版 脱亜論』[2]は日本と中国・朝鮮との近代国交史をふり返りつつ、福澤諭吉のその時々の考えを辿っていく。現代日本人が深く共感する体験を、我々の先人もしてきた事が判る。

■2.「隣家の焼亡豈(あに)恐れざる可(べ)けんや」

福澤諭吉は当初、朝鮮の近代化のために多くの朝鮮人青年たちを支援した。明治14(1881)年、李朝の国王高宗は明治維新に関心を寄せ、62名からなる「紳士遊覧団」を日本に派遣した。そのうちの2名を福澤は自邸に寄宿させ、慶應義塾に通わせた。これがきっかけとなり、その後多くの朝鮮人が福澤を訪れるようになった。

「紳士遊覧団」から、日本の文明開花の様子を聞いた開化派のリーダー金玉均は強い感銘を受けて、自らも訪日の決意を固め、国王の内命を受けた。明治15(1882)年、来日して、福澤の別邸に寄宿し、福澤に紹介された朝野の中心人物と議論を重ねた。

朝鮮近代化支援の動機を、当時の福澤は次のように語っている。

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西人東に迫るの勢は火の蔓延するがごとし。隣家の焼亡豈(あに)恐れざる可(べ)けんや。
(西洋人が東洋に迫る勢いは火事が広がるようなものである。隣家の火事をどうして恐れないでいられようか。)
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朝鮮が近代化に背を向けていれば、欧米の侵略の餌食となってしまい、日本の独立も危うくなる。この切迫した危機感から福澤は朝鮮開化派を支援したのであった。

■3.大院君のクーデター

日本滞在が3ヶ月を過ぎた明治15年7月、壬午(じんご)事変の報を聞き、金玉均は急いで帰国した。高宗の実父、大院君は今まで政権から遠ざけられていたが、権力を握っていた高宗の王妃・閔妃(みんび)一族に対してクーデターを起こしたのである。

大院君は軍政近代化で罷免された兵士たちを扇動して王宮に乱入させ、閔妃一派の重臣を殺害させた。乱兵は近代化を後押しする日本公使館をも焼き討ちし、多数の日本人を虐殺した。閔妃は危うい所で王宮を逃れ、高宗を操って清国軍の派遣を要請させた。大義名分の立った清国は5千の兵を送って乱兵を鎮圧し、事変の首魁である大院君を清国に拉致・拘束した。

朝鮮政府は、日本政府に対し乱徒の行動を謝罪・補償し、同年10月に再び使節団を送った。金玉均も同行し、福澤諭吉による指導と支援を受けた。この頃から朝鮮留学生の数が増え、福澤は彼らの大半を陸軍戸山学校に在学させ、軍事教練も受けさせた。

さらに福澤は門下生を朝鮮に送り、近代化を助けようとした。朝鮮最初の新聞『漢城旬報』を創刊し、文明開花の必要性を説いた。さらにこれをハングル版の大衆紙として、開化派の拠り所とした。福澤は暗号電信で金玉均への指示を行い、時々調達した武器などを送ったりした。

しかしこの時期、権勢を張る閔妃一族のもとで開化派は押さえつけられていた。閔妃一族は清への服属を確認し、日本式改革を捨てた。事変後も清は3千の軍隊の韓国駐留を続け、韓国の軍隊もその清国司令官の統括下におかれた。大国に事(つか)える事大主義そのものである。

■4.金玉均のクーデター

明治17(1884)年12月、清仏戦争で清が敗れた機に乗じて、金玉均以下、開化派同志40数名、日本兵、日本人壮士30名で守旧派の6大官僚を殺害し、翌日、国王の裁可を得て、開化派官僚が中心となった新政府を樹立した。

しかしすぐに袁世凱率いる清軍600人が王宮に侵入し、抵抗する日本兵を全滅させた。金玉均らは日本大使館に逃げ込んだ。袁世凱の命令を受けた守旧派官僚は高宗の自由を拘束した上で、臨時政府を樹立し、日本公使館に金玉均らの身柄引き渡しを迫った。

日本公使館はこれを拒否し、金玉均らを船に乗せて日本に送った。福澤邸に現れた金玉均らに対して福澤は「よく生きていた」と迎えた。その後、清国と朝鮮は金玉均を逆賊として何度も引き渡しを要求したが、日本政府はこれに応じず、金は日本で10年余の亡命生活を送った。

■5.「我は心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり」

明治27(1894)年、駐日清国公使は金玉均に、ロシアの東方攻略が活発化しており、これに対抗するために日清連携が不可避であること、それに伴い朝鮮宮廷の革新の相談のために、上海に来られたい、との李鴻章の意を伝えた。

金玉均は、これが罠だと直感したが、万が一でも開化派再興の可能性が開かれるのであれば、それに賭けて上海に行こうと決意した。福澤は翻意を促したが、彼の覚悟は動かなかった。

金玉均は長崎から上海にわたり、そこで朝鮮から送られた刺客に頭を撃ち抜かれた。李鴻章は暗殺の成功について、国王に祝電を送ったという。金玉均の遺体は韓国に送られ、 首と両手両足を切断され、それぞれ各地の路傍に晒され、鳥や犬の食うがままにされた。古くから伝わる中国式の残虐きわまる極刑である。

母と妹はすでにクーデター失敗の直後に毒を煽って自裁しており、弟は獄死。獄中で生きていた実父は遺体の到着と同時に、銃殺刑に処せられた。

暗殺の手口と刑の残虐さに、日本人の清・韓両国への反感は沸騰した。浅草東本願寺別院で行われた金玉均の法要には千数百人が集まり、有力新聞社15社は金玉均の死を悼む社説を掲載し、連名で追悼義金の募集に当たった。

福澤が「脱亜論」を書いたのは、この直後である。「隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの余裕あるべからず」(隣国が開明するまで待ってからアジアを興すだけの余裕はない)と清・韓の近代化の望みを捨て、「悪友を親しむ者は共に悪名を免れるべからず」(悪友と親しいものは共に悪友とみなされてしまうのは致し方ない)として、次の有名な一節で結ぶ。

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我は心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり。
(私は少なくとも心中においてはアジア東方の悪友とは交友を絶ちたいと考えている)
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現実政治においては隣国のことゆえ、完全に縁切りとはいかないが、少なくとも「心において」絶交する、という。母国のために命をかけて尽くそうとしてきた金玉均らに、これほど卑怯で酷い仕打ちをする清・韓両国への絶望と怒りの声であった。

■6.三国干渉の途端、ロシアへの事大

しかし、日本政府はまだ、韓国を清国支配から切り離して自主独立の国としようという考えを捨てなかった。それに対して、朝鮮をあくまでも服属国とする清国との対決は不可避であった。こうして日清戦争が始まった。

日清戦争が日本の勝利で終わり、日清講和条約が結ばれたが、その第一条は「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す」であった。日本は親日派・金弘集を首班とする内閣を組織させ、日本主導の改革を開始しようとした。

しかし、ロシアを中心とする三国干渉に日本が屈すると、朝鮮政府内ではまた事大主義が頭をもたげ、親露派がにわかに勢いを増した。ロシア公使カール・ウェーバーもこれを好機とみて、閔妃一族に取り入った。閔妃はロシアの言うことを聞いて、内閣から開化派を駆逐し、日本が始めようとしていた改革を退けた。

追放された開化派は日本と組み、閔妃の排除を企図した。駐韓公使・三浦梧楼(ごろう)が擁立した大院君は、開化派官僚、朝鮮訓練隊、日本人壮士を引き連れて王宮に侵入し、その混乱の中で閔妃は殺害された。ウェーバーは国王・高宗をロシア公使館に移し、開化派官僚を左遷。さらに総理・金弘集を処刑し、屍を市街地に晒すと言う残忍さを見せつけた。

日清戦争を戦って日本はようやく韓国を清の服属国から離脱させた途端に、韓国は事実上、ロシアの属国になってしまったのである。これが日露戦争の遠因となる。

こうして、朝鮮が近代化どころか、内紛と事大に流されていくのを見て、福澤の挫折感は一段と大きくなった。それが冒頭で紹介した「背信違約は彼らの持前」「朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して」という憤懣(ふんまん)の声につながる。

■7.国際社会から相手にされなかったハーグ密使

日露戦争もまた朝鮮半島をロシアの勢力圏に入れまいとする所から起こった。宣戦の詔勅には「韓国の存亡は実に帝国安危の繋がる所」という一節があった。何とか日露戦争に勝って結んだポーツマス講和条約では「日本帝国政府が韓国に於て必要と認むる指導・保護及監理の措置を執る」事にロシア政府は干渉しない、という一項が含まれた。

日本が韓国を保護国化することは、米英も賛成した。ポーツマス講和会議のあとで、ルーズベルト大統領は小村全権代表に、「将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ。それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策なるべし」と言った。

イギリスのランズダウン外務大臣も「英国は日本の対韓措置に異議なきのみならず、却って欣然その成就を希望する」とまで言い切った。韓国の変転常無き事大と内紛が、日清日露の二大戦役を引き起こしたと言う歴史認識からであろう。

韓国の保護国化が進む過程で起きたのが、明治40(1907)年6月のハーグ密使事件であった。オランダのハーグで開催された第2回万国平和会議にて、国王高宗の親書と信任状を持った三名の使者が会議の席上で、日本の横暴を訴え、保護国化から逃れようとしたのである。

国王の親書と信任状は会議の主催者であるロシア皇帝ニコライ2世あてのものだった。日本と戦ったロシアなら助けてくれるのでは、と期待したのかもしれない。しかしロシアは日本の天皇陛下宛ての招聘状を持参しなければ参加を許すことはできないと断った。三名は主催国オランダの外務大臣、議長のオランダ政府代表からも参加を断られた。

招聘された各国代表からも、韓国の使者を参加させようという意見は全く出なかった。この挙が、いかに当時の国際常識を無視していたかが窺える。

韓国統監・伊藤博文は、この事件を日韓協約の明らかな侵犯として、その責任は国王高宗にあり、としたが、国王は事件への関与を否定した。日本の国論の激しさに驚愕した韓国の宮廷は、国王に譲位を求めたが、高宗はこれを拒否。

宮廷は伊藤に、国王に譲位を説得するよう依頼までした。伊藤は、かかる事は韓国皇室の決すべきことである、と突き放した。こういう依頼をすること自体が事大主義の伝統だろう。高宗はついに皇太子に譲位した。

■8.事大と内紛の歴史を踏まえれば

ハーグ密使事件は、韓国の外交体質をよくあらわしている、という点で、現在の慰安婦合意違反とよく似ている。両方とも国際常識を全く弁えず、国際社会から見放された行為であること。しかも、表向きに交わした二国間の合意を平然と破っていること。

福澤の「朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して」という言葉が真実をついていることがよくわかる。この言葉の後で福澤は「事実上に自ら実を収むるの外なきのみ」と結ぶ。これは「相手が約束を守ってくれるなどとは期待せずに、日本が自ら国益を守っていくしかない」という事だろう。

とすれば、韓国や北朝鮮との話し合いなどは無駄だと諦めて、韓国の慰安婦合意違反に対しては制裁をもって、合意を守った方が身のためだと覚らせ、北朝鮮の核武装に対しても、圧力を続けて、このまま核開発を続ければ国が潰れる、という事を判らせるべきだろう。

国として約束を守る、というのは、独立自尊の精神があって初めて可能となる。事大と内紛で、先行きどうなるか自分でも判らないという国柄では、約束を守る事はできない。そういう国とは「あくまで話し合いで」というアプローチは意味が無い。約束を守らない国とは話し合っても、欺されるだけだ。

(文責 伊勢雅臣)

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