「老衰死」

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長寿は喜びだけなのか?

「安楽死で死なせてください」。書名に驚かされる本が話題を呼んでいる(『安楽死で死なせてください』文藝春秋刊)。書いたのはテレビ脚本家の橋田壽賀子さん。「死に方とその時期くらい自分で選びたい」というのが執筆の動機だという。

決意を実現するには、外国人の安楽死を唯一認めている国、スイスに行かねばならないと語っている。

橋田さんは、点滴や胃瘻、人工呼吸器などの延命治療は「お断りです」と宣言。医療について、「今の医療は『生かすこと』しか考えていない。『幸せに死なせる』とか『上手に死なせる』ことも医療の役目ではないでしょうか」と疑問を投げかけた。

早速、NHKの「クローズアップ現代」が橋田さんへのインタビューを交え、死に方についての番組を放映した。

橋田さんの本を「よくぞ、はっきり言ってくださった!」とうれしくなったと書くのは松原惇子さん。1人暮らしの老後を応援する団体「NPO法人スリーエス(SSS)ネットワーク」の主宰者で、この8月に書き上げた長命高齢者についての著作、『長生き地獄』(SBクリエイティブ)で賛同している。

意思表示できない胃瘻の高齢者が入居する有料老人ホームを訪れ、「皆、ただ空を見ている」「ここには魂はない。魂が旅立とうとしているのに栄養により、体だけ生かされ、死ぬのを阻止された人たちがいるだけだ」と、怖さで足が止まりながらも冷静に「生き地獄」ぶりを伝える。

101歳の女性が脳梗塞で倒れ、病院の医師から「鼻からチューブにしましょう」と告げられた知人の話を紹介し、「延命治療は要らないのに」と綴る。

100歳を超える高齢者が6万人以上となった日本。松原さんは、長生きは本当に寿ぐことなのか、「長寿」は喜びだけなのかということに首を傾げながら、旺盛な取材の成果をまとめた。

終末期のあり方を多くの人が語るようになってきた。日常会話の中で、死を巡る話がタブーでなくなりつつある。いいことだ。

「終末期医療は、人間の最期を惨めなものにする」

日本人の死に場所は圧倒的に病院である。2005年には82%の人が病院で死んでいた。最新データの2016年には75.8%とやや比率は下がったもののまだ4人のうち3人は病院で亡くなっている。欧米豪の諸国では病院死がほぼ50%前後と低く、日本が突出して高い。

病院で亡くなるのはどういうことか。病因は治療をする施設である。病名を授かって投薬や手術などさまざまな手立てで治療が行われる。

平均寿命をはるかに超えていても治療第一である。その終末期の様子をつい先日105歳で亡くなった日野原重明・聖路加国際病院の名誉院長が著書で語っている。

「重篤な患者には気管に管を入れる、点滴注射を行う。尿道に管を入れる、苦しいと言えば麻酔薬を打つ、そして患者が昏々と眠ってしまうが、栄養剤はタップリ注射する、ということの連続行為を行い、考える人間でない人間を作ってきたのです。私たちの医療は人間を人間でない者にして、人生最悪の不幸のうちに終末にいたらしめていたといえましょう」

1991年の著作、『医療をめざす、若き友へ──医と医療のいしずえ』(同文書院)の中で記している。医者の卵たちへのメッセージとして記した。描かれたのは30年ほど前の医療現場である。今も変わっていない。さらに、

「たいていの人の人生は、その最後の3ヵ月、1ヵ月、1週間は、その人の最悪の状態で最も不幸な中で残り少ない日を送っているのです」

「私たちのやっていた終末医療は、人間の最期をなんと惨めなものにしていたのだろう」と、悔悟しながら続く。

日野原さんは、その後、欧米のホスピスを視察し考え方を変えた。安らかな死に方を採り入れるようになる。

日本の終末期医療の現場に疑問を抱いたのは日野原さんだけではない。穏やかな自然死で亡くなることができると分かれば、延命治療に勤しむ病院のあり方に異論を唱えるのは当然だろう。

東京都世田谷区立芦花ホームという特別養護老人ホームの常勤医、石飛幸三医師もその一人である。

「医療は人間をモノ扱いし、命が長いほど意味があるとした」「人間も自然の一部、自然の摂理に従えばいい」「老衰と延命治療の衝突が起きている」──。
その著書『平穏死のすすめ』(講談社)で説いている。かつて大病院で手術に明け暮れていたことの反省を踏まえ「延命至上主義は自然死を知らない医療者の押し付け」と断じる。

病院では死亡原因を「探り出す」

やはり、特養の入居者の看取りを続けている中村仁一医師も明言する。
「枯れる死を妨害するのが点滴、酸素吸入の延命治療」「老いを病にすり替えてはならない」「自力で飲み食いできなくなれば寿命です」──。

京都市の特養、同和園での体験から著した『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(幻冬舎)で書いている。同書は2012年のベストセラーとなった。

では、病院の医師は本当に「自然死」を知らないのだろうか、という疑問が湧いてくる。その答えがそれぞれの医師の著書には記されている。

日野原さんは、やはり同じ著書で「(医療者は)ありとあらゆる処置をし、それに対して何も不思議に思わなったのです。人間は当然そうやって死んでいくのだ、と思っていたのです」とはっきり書いている。

同じ疑問を石飛幸三医師に尋ねると「病院にいた時は、自然死なんて考えもしなかった」と話す。前述の著書でも「特養に来るまでは、人間は苦しんで死ぬと思っていた」と正直に吐露している。

中村仁一医師も同じ著書で「大病院の医者は人間が自然に死ぬ姿を見ない、知らないのです」と断言する。

かなり驚かされる。病院では、それほど自然死と無縁なのか。延命治療後の死か、自然死かを見極められる手立ては、おそらく死亡診断書であろう。

延命治療を施せば、その対象となる病名が死因として記される。だが延命治療をしないで自然死を選べば、「老衰」と記されることが多い。

厚労省が死亡診断書からまとめた死亡統計を公表している。2016年の年間死亡者130万人の約9割近くは65歳以上の高齢者である。

死因を見ると、最も多い第1位はガン(28.5%)、次いで心疾患(15.1%)、肺炎(9.1%)、脳血管疾患(8.3%)と続き、5番目に老衰(7.1%)となっている。老衰は自然死だから病名が付かない。病名が付いた死因が圧倒的に多い。

病院では死亡原因を「探り出す」

自然な死、即ち老衰という死亡原因がもっと多くてもいいのではないだろうか。

そんな疑念を晴らそうと、複数の医師に聞いてみた。かつて大病院に所属し、今は診療所で訪問診療を積極的に手掛けている医師たちである。診療を続けていた高齢者が自宅や施設で自然死すると、「老衰」と死亡診断書に書いている。

「病院にいた時は、死亡診断書に老衰と記入したことは全くない。周りの医師も同じで必ず病名を書いていた」

「死亡原因は病名を書くべき、という固定観念が病院の医師にはあります。それに、老衰は病名ではなく、人間の自然の経過を示す用語であると思われています。もちろんそんな法的根拠はないのですが」

「救急車で運ばれてきた患者には、その時初めて診察するので病の経過は全く分かりません。だから老衰と考える余地がなかった」

「病院は治療の場なので病名を書くのが当然な雰囲気だった。ほかのことは思いつかなかった」と、異口同音に話す。

QOD(死の質)の重要性

そうか、それなら筋道が通っている。なぜなら、日本人の死亡場所の75%は病院。そこでは「老衰」を死亡原因と書かないのだから、当然、死亡原因としての老衰はわずか7.1%に止まっているのだろう。

では、もし、ほぼ老衰とみられる症状の人が病院と自宅と違うところで亡くなったとすると、死亡診断書の死亡原因はどうなるのだろうか。

「病院では何としても病名を探り出して記される。自宅や施設で診ている在宅医療では老衰と書かれるでしょう」と答える医師が多かった。何ということだ。同じ症状で亡くなっても、死亡場所の違いで死因が変わってしまう。

死亡統計の内容には限界がある、ということになりそうだ。病院のカルチャーがこの先大変わりすることはなさそう。在宅医療が浸透すれば、自然に老衰死の比重が高まっていくということだろう。

病院と在宅医療のカルチャー(文化)は大きく異なるとよく言われる。「在宅医療は病院の延長ではない。生きることを全うしたい人の手助けをするのが在宅医療」と訪問診療に熱心な医師たちからよく聞かされる。

看取りを最初から視野に入れて診察に当たり、日々の暮らしに伴走する。これに対して病院医療は、特定の臓器だけに拘り、その治療しか考えない。年齢を視野に入れて、人生の歩みを共にするかどうかでカルチャーが分かれてしまう。

「2年、3年と長く診療に携わっているからこそ老衰の過程を共有できる」と話す在宅医もいる。確かに、共有する年月は重要だろう。一方で、「終末期に入った2、3週間でも、診療の結果として老衰と書くこともある」という在宅医もいる。

いずれにしろ、人間の最終章としての死を正視できるかにかかっているようだ。そういえば、現在、国が掲げる高齢者ケアの基本政策「地域包括ケア」には「死」が全く想定されていない。

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「地域包括ケア」の法制化の根拠となった3年前の「社会保障制度改革国民会議」(会長・慶応大学清家篤教授)の報告書では、QOL(生活の質)と並べてQOD(死の質)の重要性を提言していた。だが、残念ながら厚労省の政策には反映されていない。病院の医療者にも、この提言は届いていないのだろう。実態は変わっていない。

QOLのような外来語を持ち出さなくても、実は日本には、とてもいい死を表現する言葉がある。「大往生」だ。

「地域包括ケア」を一目で表わし、厚労省の労苦の結晶でもあるのが「植木鉢の図」である。

その図の中に是非とも「大往生」を加えてほしいものだ。それも、本人の選択によって導かれた人生の最期、植木鉢が育てた「花」として描かれることを期待したい。

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