「痕跡は消せ」

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ヤマトの痕跡を消せ! 前方後円墳まで「整形」 

明らかな意図

終戦直後から、日本の歴史のみならず、日韓関係の古い歴史を消し去ろうという動きがあります。

これは、わが国の知識人の「日本はいずれ社会主義国家になる」という妄想のために、邪魔になるのは天皇制であり、そのための障害は『古事記』や『日本書紀』だという思考と重なり合うかたちになってしまったからなのです。

『古事記』や『日本書紀』には何の罪も責任もないのに、たまたま戦前軍部に利用されたというだけで、戦後の学者たちは記紀を排除してしまいました。

特に悪質なのは、『古事記』を文学書にしただけでなく、『日本書紀』を歴史学から遠ざけてしまったことです。

『日本書紀』は七世紀末に天皇家が権力を握るために、その正統性を謳いあげたものと断定し、だから研究に値しない、としてしまった。それが戦後から今日までずっと続いているのです。

二〇一二年、『古事記』は編纂一千三百年ということで多少の盛り上がりを見せましたが、高校生の使う教科書の歴史年表を見てみると、二六六年から三七二年までの約百年間、なにも記載事項はありません。加えて天皇名が出てくるのは五九二年の崇峻天皇が初めてです。なんと、第三十二代目の天皇が初出なのです。

それにひきかえ、いわゆる地方の豪族、筑紫の国造で朝廷に反乱を起こした磐井の名は五二七年に出てきます。反乱軍の将の名が、国史に初めて登場する一方で、大和朝廷の天皇名はそれから七十年後というわけです。

これは天皇家を貶めようとする明らかな意図が感ぜられるではありませんか。

この空白期間、日本は一大海外展開をし、朝鮮半島に任那日本府をつくり、百済を支援し、高句麗と戦っています。

しかし、現在、任那の存在は触れてはいけないものとなってしまっています。

日本が統治していたというニュアンスを含むことから、学会も隣国に遠慮しましょう、という暗黙の了解ができてしまったのです。

加えて、左翼に屈服したことが象徴的にあらわれているのが、広開土王碑改竄問題です。

旧日本陸軍が拓本を改変!?

西暦四〇〇年前後、日本は朝鮮半島東西で大規模な戦争に主力として参戦し、百済を高句麗から助ける一方、東海岸では任那とともに北上し、新羅を攻略しています。

日本史上初の海外での大規模な戦争でした。

この戦争の模様は当時高句麗王だった広開土王(第十九代・在位三九二─四一三)の生涯を刻んだ石碑「広開土王碑」(四一三年建立)に記されています。

広開土王は好太王ともいわれ、北は北燕と、南は百済へ侵攻と、戦いに明け暮れた国王でした。当然のことながら、碑文は王の功績を示すために、連戦連勝をアピールしていますが、倭国とともに任那の諸国名(加羅・安羅)がはっきりと刻まれており、任那の国際的認知がくみ取れるのが印象的です。倭国に関連した記述は十一カ所ありますが、要約すると次の通りです。

・三九一年(辛卯)
倭が海を渡り百済・新羅を臣民とする。
・三九九年(己亥)
百済は高句麗との約を違え倭と通じ、平壌に来攻、一方、新羅より急使あり、倭人国境に満つ。
・四〇〇年(庚子)
新羅救援のため五万の兵を派遣、倭軍城中に満つ、倭兵を討つ。
・四〇四年(甲辰)
倭、不軌(無法)にも帯方郡に侵入。
・四〇七年(丁未)
五万の兵を率い(倭と)戦う、(倭は)鎧一万余を残し敗退。

ところが、この広開土王碑については、一九七二年、在日の学者李進熙がこれまでの碑文解釈・解読に対してとんでもない異論を唱え、学会は大騒ぎになりました。

この碑文は一八八四年、旧日本軍参謀本部の酒匂景信が入手したものですが、近代日本の朝鮮半島進出を正当化するため、都合がいいように、旧陸軍が拓本を改変したというのです。

実物の検証ができない当時、李進熙の突飛な意見を否定することはできませんでした。そのため研究は四十年近くにわたり停滞せざるをえませんでした。

李進熙は、かねてから日本側の広開土王碑文を拠りどころにした「大和政権が四世紀後半に半島に出兵、百済、新羅を征服、伽耶地方に任那日本府という統治機関をおいて、二世紀の間支配していたのは歴史的事実」という論に強く反発していました。

碑文改竄問題に終止符が打たれた広開土王碑
改竄論争に終止符

しかし、二〇〇六年四月十四日の読売新聞(朝刊)に、「好太王碑の拓本発見……改竄論争に終止符」という、センセーショナルな記事が掲載されました。

古代日本の朝鮮半島進出を記録した、中国吉林省の広開土王碑最古の拓本が中国で発見され、倭国(日本)との関係を示す記述が、旧日本軍の入手した拓本と一致することが、中国社会科学院教授である徐建新の研究で判明したのです。

これによって、一九七〇年代以来論争が続いてきた、旧日本陸軍による碑文改竄説は、成立しないことが確定しました。

徐建新は、東アジア各国に散在する約五十種の拓本を確認する作業を続け、二〇〇六年、それまで最古とされていた酒匂入手の拓本より古い一八八一年作成の拓本を、北京のオークションで発見したのです。それを酒匂拓本とともにパソコンに取り込んで比較したところ、意図的な書き換えの痕跡はないことが判明しました。その成果は『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として発表されました。

これで、改竄問題は一件落着しました。

李進熙の民族感情むき出しの反日史観は、植民地支配への贖罪観を抱く日本人学者たちを倫理的に追い詰める恰好の攻撃材料だったのです。長い間広開土王碑研究にブレーキをかけた悪しき学者の例といえるでしょう。

そのブレーキのせいか、一九八〇年代、日本の歴史の教科書からはいっせいに広開土王碑の記述が消えてしまいました。

近隣諸国へのおもねりが、どれほど歴史学を捻じ曲げ、国益を損なうことになるか歴史家の猛省を促さざるをえません。
円墳にされた松鶴洞古墳

韓国の古代史改竄、捏造によるおかしな歴史の主張は広開土王碑だけではありません。

一九八〇年代、朝鮮半島南西部の全羅北道、全羅南道、とくに南道の栄山江沿いに十四基の前方後円墳が次々と発見されました。

前方後円墳は日本に固有のものと考えられてきましたから、韓国の学者はここぞとばかりに、「前方後円墳の発祥地は韓国で、倭国へ伝えられた」と声高に主張しました。

しかし、その主張もほどなく破綻しました。

なぜかというと、日本では岩手県から鹿児島県までの広い範囲で前方後円墳が多数見つかっており、造営された年代も明らかに韓国の前方後円墳より古かったからです。前方後円墳は日本で独自に発達した墓制(=墓のつくり方)であり、日本(倭国)から朝鮮半島に伝わったものなのです。

そして、朝鮮半島で前方後円墳が見つかった地は、『日本書紀』が記す任那西部の地なのです。任那をめぐっては、その存在に言及することすらタブーとされる風潮がありますが、史実を政治的な理由で曲げてはなりません。

ところが、前方後円墳と確認されながら、政治的事情のため「三つの円墳」にされてしまった古墳があります。それが慶尚南道の沿海部固城の中心部にある松鶴洞(ソンハクトン)古墳です。固城は古来、小伽耶とも呼ばれ、固有名は古自、古嗟、久嗟ともいわれ、任那南部の一国に数えられていました。

松鶴洞古墳の概要は以下の通りです。

〈全長六六m、後円径三七・五m、前方部が若干丸みを帯びるが、円墳二基ではなく、前方後円墳として認識される。後円部上に石材が露呈するが、かつて鳥居龍蔵によって一九一四年に発掘された竪穴式石室の一部で挂甲(小札)など鉄器が出土している。
また墳丘上から五世紀代の土器が採集されており、古墳のおおよその時期が推定される。周囲には六基の円墳が、あたかも陪塚群のように分布し、さらにその東側二〇〇~五〇〇mに三基、北三〇〇mほどの基月里に二基の古墳が遺存する。かつては相当数からなる古墳群であったようである。固城は小伽耶国に比定されるが、その中心は地理的にみても、この松鶴洞古墳群付近であろう〉(『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』中央公論社)

この発表により、戦前からいわれていた松鶴洞古墳の「前方後円墳」は確定したかにみえましたが、その後、おかしな方向へ進みます。

その原因は、韓国の学者たちの日本から前方後円墳が伝わったなどありえない=認めたくないという極端なナショナリズムと、それに同調する一部の日本人学者によるものです。

韓国では、「日本の文化はすべて韓国から渡来した」と主張する人々がおり、前方後円墳韓国起源説を唱える学者もいますが、現在では、前方後円墳は日本で独自に発展したものであるというのが定説です。

2012年6月筆者撮影の同所 古代遺跡を改竄工事

ところが、この松鶴洞古墳にある“悲劇”が起こります。

〈松鶴洞(ソンハクトン)古墳を案内なしに自分の眼で確かめたく、一九八三年八月に現地を訪れた。十年あまり前の扶余での見学とは違って、まぎれもないダブルマウンドが丘陵上に造営されていて、現状、つまり原形では前方後円墳の仲間に入れることに少しの躊躇も覚えなかった。(中略)

その後、松鶴洞古墳については、現在の形が近年の変形であるというような噂話がひろまったりしたが、日本の古墳の例ではそれらは取るに足らない噂話にすぎなかった。はたせるかな、そののち姜先生の努力で故鳥居龍蔵先生が戦前に撮影されていた古墳の側面からの写真が発見され、ぼくは噂話が意図的に流されていると感じ、不快であった。

「発掘もある種の遺跡の破壊である」という原則が考古学界にはあって、どの学者もたえずその言葉をみ締め自戒する必要がある。ぼくは今回の松鶴洞古墳の発掘ほど、この言葉を感じた発掘は他に例を見ない。発掘によって、かつていわれていたような近年での変形を示す兆候は何一つないのに、どうして原形がダブルマウンドなのかの前提を抜きにして、数基の円墳連続説が発掘の開始直後から提出され、その説が導かれる過程ではなく、結論だけが流布された。

これは学問の手順として明らかに間違っているし、学問の名において文化財を変形・改変することになる。友人の多くは発掘を見学してきたが、ぼくは現地を見るに耐えられず、見に行かなかった。ぼくには発掘される以前の、あの美しい墳形が今でも瞼に焼きついていて、それで充分である。

福岡県筑紫野市に剣塚という六世紀の前方後円墳があって、横穴式石室が埋葬施設である。これがこの古墳の原形だった。ところが高速道路の建設で、現在の墳丘を取り除くと、墳丘の下には数基の古墳があることがわかり、前期古墳(古剣塚)を取り込んで、六世紀に若干の盛土を加え、前方後円墳に造り替えていることがわかった。

松鶴洞古墳の円墳連続説には、数人の日本人学者も賛同した言辞はみられるが、この人たちは剣塚と古剣塚の関係を報告書で読んだことがあるのだろうか。読んだのに知らぬことにしているようでは、勇気ある学者とはいえないし、応用能力もあるとはいえない〉(『悠山姜仁求教授停年紀念 東北亜古文化論叢』二〇〇二年二月)

「高く見えた」から改造

韓国では、二〇〇〇年七月から東亜大学校博物館によって、前方後円墳の後円部(彼らは第一号墳と呼ぶ)の発掘調査がありました。二〇〇一年秋に沈奉謹教授が発表した「加耶地域と国際交流──固城松鶴洞古墳群」(『東アジアの古代文化』一〇九号、大和書房)で、次のように報告しています。
 
〈(一)調査を実施した結果、第一号古墳は前方後円墳ではなく、三基以上の大小古墳群が重複していることを現地説明会で報告することになった。
(二)メインの1A号墳には頂上からさほど遠くないところに都合一一基の竪穴式の石槨が配置されるなど、中小の石槨が見られる。これらはメインの墳丘が築かれたあと、また墳丘を掘ってその中に石槨を配置する過程での重複、補強土の攪乱状況など、埋葬当時の特徴を通して築造順序の先後関係が明らかにされている。
(三)1B号墳は、従来前方部と知られていた北方に当たる部分である。(中略)西南方と西北方の封土層からも陪葬や追加葬と想定される小型の石槨が現れた。
(四)1C号墳は、前記の両古墳の間にある。(中略)この古墳はその位置や構造から見て、三基の中でもっとも遅い時期に築造されたものと推定されるが、残存する遺構の規模や形態から、前記した両古墳よりは高く見えたと思われる〉

今回、前方部にも前方部と後円部間の窪地にも遺跡が出てきたことで、三基以上の古墳が出てきたとし、前方後円墳ではないと早トチリをしたのです。
これは後円部のみに被葬者の石室・石棺があるはずとの固定観念によるものです。日本でも西殿塚古墳をはじめ、後円部と前方部に複数の石室・石棺の例があるにもかかわらず……。

また、最後の1C号墳が「両古墳より高く見えた」という意味が不明です。遺物が立派だったから、円丘は高くなくてはならないということになるのでしょうか。

五世紀後半から六世紀前半にかけての任那・伽耶(加羅)地域が、倭国とどのような外交・軍事、そして社会的関係にあったかという文献的知見を見ることなく、ただ「前方後円墳否定」に走ってしまったのは残念なことです。

韓国の考古学界は、この問題について、(1)前方後円墳とは認めない、認めたくない、(2)発掘したら三基の墓が出てきた。前方後円墳でない恰好の理由だ、(3)窪地の第三墓の上に新たに円形の盛土をした、という大きな三つの誤りを犯してしまいました。

鳥居龍蔵による古墳調査の写真、そして姜仁求教授の精密な外形の測量調査結果を無視してはいけないのではないでしょうか。

沈奉謹教授はなぜ、一九九六年まで、一千五百年来固城湾を望み、美しいたたずまいを見せていた松鶴洞前方後円墳を、ただ学会の勢いということで、前方と後方を二分し、その間に醜悪な小山を造ってしまったのでしょうか。

ただ「高く見えたと思われる」の一言で、遺構の未来とその美しい外観をバラバラにしてしまったのではないでしょうか。現在の日韓の人たちに対して、また同時に往時の伽耶・加羅の人、その地で交易をおこなってきた倭国の居留民に対して、あまりにも心ない行いと言わざるをえません。

『知っていますか、任那(みまな)日本府』(PHP研究所)は
臆病な学者たちが言及することを避けている真実に迫っている
津田左右吉の功罪

このような韓国側の改竄・捏造を日本人の学者も充分に知っているはずですが、なぜ「だめだ」と言わないのでしょうか。なぜ迎合しているのでしょうか。彼らは、指摘してしまうと韓国側から資料をもらえなかったり、お互いの学会の交流ができなくなってしまうであるとか、変なことばかり気にかけているのです。

ですから、「任那」という言葉も使いたがらないのです。これはおかしいことです。事の善し悪しは別にしても、事実は事実として、後世の人のために残すべきです。

教授の方針に逆らえば、准教授の立場もなくなります。当然、学生も逆らえません。ですから、最近の学生がやっているのが木簡の研究です。木簡は「字」が書いてあるわけですから、否定のしようがない。完全に確かなものしか研究できなくなっていて、木簡の研究をせざるをえないのです。そうすると、他のことがおろそかになってしまうという悪循環が起こり、日本の歴史学、特に文献歴史学が遅れているのです。

これらの左翼的学会の風潮をつくったのは、津田左右吉です。

彼は、『古事記』『日本書紀』の仲哀天皇以前は作りものである、ということを書いたために、昭和十七年、「皇統を蔑視した」ということで裁かれます。

皮肉なことにミッドウェー海戦の直前に東京高裁で禁錮二年・執行猶予つきの判決が出ました。一番日本の国力が上がってきたときに実刑にせず、執行猶予つきの判決ですから、ずいぶん公平な判断を下したと思います。

ただ、それを戦後の学者が「津田先生は偉かった。裁判にまでかけられて、政府に反抗した」というように利用しようとしたのです。

戦後数年経って、『世界』が津田左右吉に論文をお願いして、それがまた騒ぎになりました。

津田左右吉は「自分は皇室否定論ではない」という論文を書いたのです。そのことに左翼連中がびっくりして、「これはないことにしてくれ」と言ったのを突っぱね、それ以降津田左右吉は論文を書かなくなってしまいました。

一方、津田左右吉の名前と戦前の学説だけが残り、裁判を受けたという事実をもって、学者たちは彼の名前を利用しながら、戦後日本の社会主義的風潮に乗っかってしまったのです。

世界でも稀有な例

そして、これを良しとしたのが、朝鮮半島の歴史学者たちです。これにより、彼らが触れることを避けてきた「日本人が朝鮮半島で高句麗と戦い、新羅王城を攻め、一時期は百済の宗主国的役割を果たしていた」という研究をする必要がなくなってしまったからです。

今は百済も新羅も、大陸の隋や唐も滅亡しましたが、ひとり我が国のみ、善し悪しは別に、絶えることのない歴史のつながりの中に生き続けているのは、世界でも稀有な例であり、誇らしいことでもあります。

任那について否定する風潮が続いていますが、歴史というものは、善悪は別にして史実は史実として研究を重ね、明らかにせねばなりません。その意味で、極端な左翼史観や、極端なナショナリズムにとらわれることのないよう、研究を積み重ねていってほしいものです。

iRONNA

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