「知識人の予言」

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中国の政府系シンクタンク、中国社会科学院の日本研究所初代所長の何方氏が3日、北京市内で死去した。

94歳と高齢だったが、改革派知識人たちに大きな衝撃を与えた。筆者にとっては前回の共産党大会が終了した2012年11月、中国人の記者や人権派弁護士ら約10人と一緒に何氏を囲んだ食事会での会話が忘れられない。

そのとき、何氏は新総書記、習近平氏の就任演説について「これから粛清が始まる。体制を批判する人の多くは捕まるだろう。君たちも気を付けた方がよい」と語った。「事態はそんなに深刻なのか」と聞かれると、何氏はこう答えた。

「死語となっている毛沢東時代の『為人民服務』(人民に奉仕する)などが繰り返されているところが異様だ」「これが政治運動を始めるサインだ。人を捕まえなければ政治運動にならない。私は共産党と70年以上も付き合っているから、よく分かる」

あの食事会から5年。参加メンバーの中ですでに4人が拘束され、そのうち2人の有罪が確定した。

治安当局の厳しい監視と嫌がらせに耐えられなくなり、仕事を辞め米国に渡った記者らも3人いる。中国全土で改革・自由派への粛清の嵐が吹き荒れている。何氏の予言は不幸にして的中した。

戦争時代を経験した共産党古参幹部である何氏は、9月末まで精力的に執筆活動を行っていた。習近平政権による言論への締め付けが強化される中、何氏は欧米や日本メディアの取材に実名で応じ、現政権に苦言を呈する数少ない人物の一人だった。

何氏の死について、北京のある人権派弁護士は「一つの時代が終わった」とつぶやいた。

習氏と郷里が同じ陝西省出身の何氏は16歳の時、革命の聖地、延安に赴き、共産党軍に参加。延安の抗日軍政大学などでロシア語を学んだ後、党指導者、張聞天氏の秘書になった。張氏は党総書記も務めたことがある大物政治家で、毛沢東からライバル視された時期もあった。

新中国建国後、張氏は権力中枢から外され、駐ソ連大使に任命されると、何氏も外務省に配属され、国際問題の研究者となった。

文化大革命中に一時迫害されたが、名誉回復した後、1980年代初頭から約7年間、中国社会科学院日本研究所の所長として活躍した。多くの論文を発表し、日本の政治、外交問題のみならず、日本の思想文化を中国に紹介することにも熱心だった。

「自分の人生で大きな後悔が二つある」と回顧したことがある。一つは二十代の時に権力闘争に巻き込まれ「国民党のスパイ」とぬれぎぬを着せられたとき、拷問に耐えられず一時認めてしまったことだ。

もう一つは、59年の廬山会議で張氏が失脚した直後、人生の師匠を裏切って批判を展開したことである。「自分をどうしても許すことができない。その後の人生はざんげしながら生きている」と吐露した。

毛沢東をまねる習近平政権の政治手法について厳しく批判したこともある。

2015年、何氏は改革派雑誌だった「炎黄春秋」で日中関係について自身の考えをまとめた論文を発表した。

「謝罪を求める被害者の意識を捨てて、平常心を持って日本と接するべきだ」と主張した。

安倍晋三政権が主導した安全保障法制についても「普通の国家を目指すことと、軍国主義の復活は全く別問題だ。今の日本で軍国主義の復活はあり得ない」と論じた。

中国屈指の日本問題の研究者である何氏の主張に、習指導部が全く耳を貸さないことは残念だ。

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