「世界に先駆けた外科手術 佐藤泰然」

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大切なことは、患者の健康と安全です。
いくら儲かるかではありません。
しかし、儲からなくては最先端の医療は行なえません。
こういうところにこそ、政治が介入するべきところがあるのだと思います。

それを履き違えて、医療利権のぶら下がり政治家など、誰も望んでなどいない。

江戸時代の文久年間(1861~1864)といえば、明治維新(1868)のすこし前の時代です。

ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn)という米国人が、横浜にやってきました。
あの「ヘボン式ローマ字」を生んだヘボンです。
米国長老派教会からの医療伝道宣教師として派遣されて来日しました。
ヘボンは、この時代を代表する最先端の外科医でもあったのです。

ちなみにこの時代、基本的に西欧においては、医師と看護師は教会に付属するものでした。
心と身体の両方が宗教のもとにあったというのは、それはそれなりに納得のできることです。

そのヘボンのもとに、ある日、卵巣水腫の病人がやってきました。
卵巣水腫は、卵巣に水が溜まって袋が出来てしまうという難病です。
病人を診断したヘボンは、
「手遅れです。これは難病なので治療方法がありません」と答えました。

いまなら卵巣を摘出手術すれば助かる病気です。
けれど当時は、まだそれは理論上は可能でも現実には困難とされていました。

理由は簡単です。
麻酔の技術がまだ進歩していなかったのです。
患者は女性です。
それが生きたまま、麻酔なしで、身体にメスを入れられるのです。
耐えられるものではない。

ところがたまたま横浜でヘボンと親交のあったのが、佐藤泰然(さとうたいぜん、1804〜1872年)です。
話を聞いた佐藤泰然は、「開腹手術をしましょう」と、簡単にヘボンに言いました。

ヘボンが驚いたのは当然です。
西洋から遠く離れた未開の蛮国にやってきたのです。
できるはずがない。
「それでは病人が死んでしまう」とヘボンは怒りました。
これもまた当然です。医術を軽く見られたら困る。

ところが佐藤泰然は、10年ほど前に、同じ病気にかかった2名の開腹手術を成功させ完治させていたのです。
ヘボンはびっくりして「信じられない」と答えたそうです。

佐藤泰然は、順天堂大学の創始者です。

生まれは文化元(1804)年で、川崎で育ちますが、26歳のとき蘭方医を志して高野長英に師事し、31歳で長崎に留学。そこで蘭医ニーマンの指導を受けました。

天保9(1838)年に江戸へ帰って、両国薬研堀に「和田塾」という外科専門の病院を開設しています。「和田」というのは、母方の姓です。

ちょうどその頃、全国で疱瘡(天然痘)が大流行しました。
いまでこそ克服された天然痘ですが、当時は死亡率が40%もある難病で、しかも感染力が強い病気です。
平安時代に都で貴族がバタバタと死んだという記録があったりしますが、多くがこの疱瘡です。

この病気はやっかいなことに、治っても顔や手足に「あばた」が残る。
ですから人々に大変恐れられていました。

このとき佐藤泰然は、自分の子どもに疱瘡の「うみ」を少しだけ接種することで、免疫を持たせることに成功し、これを江戸で普及させていました。
この時代、大阪の緒方洪庵、江戸の佐藤泰然が、まさに疱瘡対策の二大巨頭だったのです。

ところでこの種痘、いまではあたりまえに普及していることですが、当時は随分と反対運動に遭ったようです。
疱瘡が恐ろしい病気でしたから、疱瘡封じのお護りがバカ高い値段で取引されていたのです。
こちらは全国組織ですから、種痘などで病気が治られては困る。
商売の邪魔になるのです。

それで何を佐藤泰然や緒方洪庵が何を言われていたかというと、
「疱瘡の膿を付けられると人が牛になる。」

いまにしてみればあまりにも馬鹿げた荒唐無稽な話ですが、ところが大衆文化の中においては、真面目くさった学術論や実際の証拠などよりも、この手のカルトチックな話の方が功を奏したりします。
馬鹿げているから伝播力がないのではなくて、馬鹿げているから伝播力があるのです。

多くの場合、この手のデマには根拠が明示されません。
あいつはカルトだ!
あれはインチキだ!
という言葉はよく聞きますが、なぜカルトで、なぜインチキなのかの説明がない。

あっても、ただ悪意に満ちたものでしかなく、聞くに堪えないただの中傷だったりします。

ちなみに日本人の場合、あまり悪口を言うことに慣れていないというか、まさに「人の噂も75日」なのですが、半島からの渡来人さんたちの場合、75日どころか75年でも云い続ける。

完全に否定されても、ほとぼりが冷めた頃にまた同じことを言い出す。
これは実は幼児の固執性と同じで、「ママ、あれ買って〜〜」と、買ってくれるまで泣き続けるのと同じです。

特別な要求があるわけでもなく、ただ人を中傷することで、自分が偉くなった、上に立ったような自己満足を得たいがためだけなのだそうですが、あわれなものです。

さて、そういうことで、佐藤泰然や緒方洪庵の種痘は、それまでのいわば「御札利権」と衝突したわけで、おかげで、いまでこそ両者は高く評価されていますが、当時は、泰然や洪庵がやってくるだけで、「ウシにされる」と子どもたちまでもが逃げ出したといいます。

だからこそ佐藤泰然は、我が子に種痘を行い、疱瘡から我が子を護るという荒業をやってのけたわけですが、世の中で一番可愛いのは、我が子です。

おそらく本人も相当悩み、また精神的にも追い詰められていたのかもしれません。

ところが縁というのは奇なもので、この「我が子に種痘を行った」ということが江戸で評判になり、佐藤泰然は佐倉藩主の堀田正睦(ほったまさよし)に招かれます。

佐倉藩主の堀田正睦といえば、徳川幕府の老中まで勤めた大物で、蘭学かぶれと呼ばれたほどの蘭学好きで、藩士を長崎に送って修業させたりもしていました。

そして佐藤泰然を千葉の佐倉に招き、彼を藩校の教授に据えたのです。

この招きに応じた泰然が、天保14(1843)年8月に、佐倉城下の本町に開いた塾が「佐倉順天堂」です。

この建物はいまでも現存していて、記念館になっています。
行ってみるとわかりますが、吉田松陰の松下村塾と同じく、とても小さな木造の建物です。

現代の空調まで完璧に整えられた最新型の病院施設からみたら、ただの普通の木造の一軒家でしかないこの建物で、どうやって衛生管理をしていたのだろうかとまで不安に思いますが、聞けば、当時は、いまどきの病院などよりも、よほど清潔で、廊下から柱に至るまで、毎日2回、きれいな水と雑巾で舐めても大丈夫なほど拭き清められていたのだそうです。

「佐倉順天堂」の「順天」とは、中国の古書にある言葉で、「天の道に順(したがう)」という意味で、佐藤泰然が、この言葉を塾の名前に付けたのは、「順天」こそが医者として人間として、最も大切なことと考えたからだと言われています。

どこまでも「仁」という言葉が浮かびますが、順天堂大学の学是は、やはり「仁」です。

「人有りて我有り他を思いやり慈しむ心是れすなわち仁」

これが佐藤泰然が描いた順天堂の建学の精神です。

佐藤泰然によって、佐倉順天堂の治療は国内の最高水準を極めました。
高弟であった関寛斎(せきかんさい)が「順天堂外科実験」という書を著しているのですが、そこに記載された治療例は、当時の世界にあって、並ぶもののない世界最高水準のものとなっています。

たとえば嘉永2(1849)年には、牛に天然痘のうみを植え付けて、そのワクチンを人に接種し、天然痘の予防に成功しています。
また嘉永4(1851)年12月には、日本初の膀胱穿刺(ぼうこうせんし)手術に成功しています。

膀胱穿刺というのは、尿が詰まって激しい痛みを起こす病気で、膀胱に針を刺して尿を取る大手術です。
さらに翌、嘉永5年には、冒頭の卵巣水腫摘出のための開腹手術や乳癌の摘出手術を成功させています。

ただし・・・
上にも書きましたが、この時代、まだ麻酔がありません。
麻酔は、紀州の華岡青洲(はなおかせいしゅう)らが研究していましたが、当時はまだ、あまりにも大きな危険をともなうものだったのです。

ですから患者は、麻酔なしで体を切り開かれました。
いまならとても残酷なことです。
しかし当時の外科手術の最先端は、まだそういう時代でした。

佐藤泰然は、痛みより病人の命を大切にしました。
そして患者とその家族は、その佐藤泰然を信頼し、信じました。

無菌室も止血剤も輸血もなかった時代です。
出血を考えると、手術は相当手際よく行われなければならず、おそらく今の時代なら佐藤泰然はまさに「神の手」として世界から絶賛される外科医となっていたであろうと思われます。

それにしても、手術を行った佐藤泰然もすごいですが、麻酔もなしで手術に耐えた患者さん、身内の方ともすごかったと思います。

生きたまま、体を切り開かれるのです。 これをなし得たのは、医師への信頼以外にありえません。 その信頼に足るだけの医師であったし、我慢強い患者とその家族の愛の支えがなければ、これは実現できないことです。

数々の難病に対する手術の成功で、佐藤泰然は嘉永6(1853)年2月には、町医から藩医にとりたてられます。

そして佐倉順天堂は、大阪の緒方洪庵の蘭学塾「適塾(てきじゅく)」と並んで、その名を全国に知られるようになりました。

佐倉順天堂では、塾生がオランダ語の習得と書物だけの勉強をするだけでなく、実際の診療に役立つ知識・技術を習得させることを目指した教育が行われました。

この結果、佐倉順天堂からは、明治医学界を担う多くの優秀な人材が育ちます。

佐藤泰然は、安政6(1859)年、病気を理由に家督を養子の佐藤尚中(さとうたかなか)に譲り、55歳で隠居します。

そして、文久2(1862)年、佐倉を離れ、横浜に移住していました。
冒頭のヘボンとの交流のあった時期は、その横浜在住のときの逸話です。

泰然は、明治5(1872)年、東京下谷茅町(現台東区池之端)に移り、肺炎のため没しました。
享年60歳でした。

家督を相続した佐藤尚中は、明治に入ってすぐ、東京に出て順天堂病院を興しました。

これが現在も続く順天堂大学です。

一方、佐倉の順天堂は同じく佐藤泰然の子の佐藤舜海(しゅんかい)に委ねられ、施設を拡充し、昭和27(1952)年跡取り不在で閉鎖されるまで、およそ一世紀にわたって世界最先端といえる民間治療にあたりました。

さて、その佐藤泰然の曾孫に、佐藤登志子がいます。
彼女は結婚して姓が変わりました。

夫の名を「鴎外(おうがい)」といいます
そうです。
森鴎外です。

佐藤泰然が藩医にとりたてられた嘉永6(1853)年といえば、ペリーの乗った黒船が浦賀に来航した年です。
このときペリーは、日本の開国・通商を求める米大統領の親書をもって来日していますが、幕府側が一年の猶予を求めたため、ペリーはいったんひきあげています。

そして翌安政元(1854)年1月16日、再びペリーは来航し、今度は東京湾に直接侵入します。

そして約1ヶ月の交渉の末、同年3月に締結したのが、日米和親条約で、その条約の第九条に日本が、
「片務的最恵国待遇を米国に与える」
という記述があります。

これが治外法権を法的に認める根拠になっています。
外交というのは、いっけん玉虫色の表現の中に、極めて恐ろしい事実や含みが隠されているものです。

不平等条約がなぜ「不平等」かといえば、それは「治外法権」を外国に認めたからです。

外国人が日本で犯罪を犯しても、日本政府はこれを取り締まることができない、だから不平等条約です。

しかし考えてみれば、現代社会でも世界共通で、外国人の犯人が大使館に逃げ込んだら、当該地の国家の法律は大使館の中までは及びません。
これもまた「治外法権」です。

さて、佐藤泰然は卵巣摘出手術などについて、まさに世界に先駆けて成功していますが、肝心なことは、佐藤泰然が、ただの西洋医学を行う蘭方医というだけではなかったことです。

佐藤泰然は、漢方医と呼ばれる日本古来の治療法も並行して行っています。

蘭方医師の多くが、ただ蘭学の医術を極めただけであったのに対し、佐藤泰然は日本古来の治療術も並行して行いました。

つまり彼は、病人を治すという本来の医術を行ったのであり、そのために西洋医術も用いるけれど、同時に根治療法としての漢方医の手法も採り入れました。

21世紀となった昨今においても、国の制度は「西洋医学」でなければだめだ、というものです。
しかし西洋医学に傾倒することで、医療費はうなぎのぼりに増加しています。

一方、漢方医は、その根幹となる薬草が、ことごとくChina産になり、その安全性を疑問視する声もあります。

大切なことは、患者の健康と安全であって、いくら儲かるかではないはずです。
日本の医療制度も、抜本的な見直しが必要な時期にきているといえるかもしれません。

ねずさん

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