「イスラム国」

画像の説明

「国境の破壊」「既存の国際秩序への挑戦」「世界史的意義」などなど、様々な言葉で飾り付けられてきたイスラーム国(IS)も、衰退、消滅へと着実に歩を進めている。

2017年7月にイラク軍が同派の最大の拠点であるモスルの奪回を宣言したことは、「イスラーム国」の拠り所や、実在性を強く揺さぶった。「イスラーム国」は現在もシリアやイラク、あるいはその他の地域で領域を占拠しているが、同派の「統治」の実態に鑑みれば、占拠していた地域の中で群を抜いて人口が多かったモスルを喪失した打撃は回復不能とすら言える。

2015年の人質殺害事件や幾多の国際テロ事件を通じて、日本人の心にも大きなインパクトを与えた「イスラーム国」の現状とは? 足もとで「崩壊間近か」という報道も出るなか、本稿では、「イスラーム国」とはいったいいかなる現象だったのかを、同派の成り立ちや実態に着目して考察する。

日本人にも大きなインパクト

誰が「イスラーム国」を育てたか?

まず、「イスラーム国」の生い立ちを詳しく振り返ろう。最初にはっきりさせておくべきことは、「イスラーム国」とは「国家」やそれに準ずる政体ではないということだ。

なにがしかの政体として「統治」しているというのは、「イスラーム国」側の宣伝に過ぎない。「イスラーム国」とはテロ組織・犯罪集団の固有名詞に過ぎず、そこに政体としての実態や正統性を見出し得ない。

「イスラーム国」の起源は、1979年以降ソ連軍と戦うためにアフガニスタンに渡ったアラブ・ムスリムの戦闘員たちである。そうした戦闘員の流れを汲む集団の一つで、アブー・ムスアブ・ザルカーウィー(ヨルダン人。本名はアフマド・ハラーイラ)が率いる集団が、2001年のアメリカ軍の侵攻後にイラクに移転した。

彼らは、2003年のアメリカ軍のイラク占領後に武装闘争を活発化させ、日本人を含む外国人の誘拐・斬首映像の発信などで世界的に著名になった。このグループが、2004年秋にウサーマ・ビン・ラーディンに忠誠を表明し、「二大河の国のアル=カーイダ」を名乗った。

この行為は、各地のイスラーム過激派武装勢力がアル=カーイダの名声や威信を利用して自らの活動を正当化し、アル=カーイダの側は自身の勢力が世界的に拡大しているかのように装うという、「アル=カーイダ現象」現象の嚆矢となった。

瀕死の状態から復活、きっかけはアラブの政治混乱

ザルカーウィーは2006年6月にアメリカ軍によって殺害されたが、「二大河の国のアル=カーイダ」は活動を続けた。そして、イラクのその他の武装勢力諸派や地元の部族勢力を解体・併合する形で連合体を組織した。それが、2006年10月に発足宣言が出された「イラク・イスラーム国」である。

「イラク・イスラーム国」は、「閣僚」を任命し、歴史的なカリフ制のもとに置かれていた復古調の「省庁」の名称を採用するなど「国家」の体裁を構築したと主張した。つまり、彼らが「国家」を主張したのはこの時であり、2014年6月ではない。

もっとも、「イラク・イスラーム国」は、イラクの武装勢力や地元の人々に対する解体・併合路線や極端な宗教解釈・実践が忌避され、2011年初頭の段階で政治的・社会的影響力をほぼ喪失した。同派は、活動の低迷期でも1ヵ月に1~2回程度バグダードの中心部で数十人を殺害する作戦を実行する能力を保っていた。

しかし、このような作戦では、当時のイラク情勢や国際情勢に影響を与えることはできなかったし、世論の関心を引くようなメッセージを発信することもできなかった。

瀕死の状態から復活

きっかけはアラブ諸国の政治混乱

瀕死の状態にある、と言ってよかった「イラク・イスラーム国」が復活した契機は、2011年春以降に顕在化したアラブ諸国の政治的混乱である。チュニジアやエジプトで政権を放逐した民衆の抗議行動の手法を模倣した運動が発生し、イラクやシリアでも混乱が生じた。特に、シリアでは抗議行動が短期間のうちに武力衝突に転じ、次いで中東内外の諸国が各々の政治目標を実現するために干渉する国際紛争へと発展した。

この過程で、シリア政府の打倒を目指す諸国は、シリア政府を攻撃するならばイスラーム過激派であってもこれを肯定・奨励するかのような態度をとった。「イラク・イスラーム国」はこれに乗じ、「ヌスラ戦線」というフロント組織をシリアに送り込み、これを窓口に国際的にヒト・モノ・カネなどの資源を調達することに成功した。国際的なイスラーム過激派対策に、「シリアの反体制派支援」という名目で重大な綻びが生じたのである。

この成功に自信を深めた「イラク・イスラーム国」は、2013年4月に「ヌスラ戦線」がフロント組織に過ぎないことを暴露し、これを統合して「イラクとシャームのイスラーム国」へと名称を変更した。「ヌスラ戦線」の一部は、統合・名称変更に反発して独自にアル=カーイダの傘下に入った。これは、アル=カーイダと「イスラーム国」との対立・絶縁の直接的な契機となった。

イラク大攻勢でモスル占拠、アル=カーイダと立場逆転

ザルカーウィーは2006年6月にアメリカ軍によって殺害されたが、「二大河の国のアル=カーイダ」は活動を続けた。そして、イラクのその他の武装勢力諸派や地元の部族勢力を解体・併合する形で連合体を組織した。それが、2006年10月に発足宣言が出された「イラク・イスラーム国」である。

「イラク・イスラーム国」は、「閣僚」を任命し、歴史的なカリフ制のもとに置かれていた復古調の「省庁」の名称を採用するなど「国家」の体裁を構築したと主張した。つまり、彼らが「国家」を主張したのはこの時であり、2014年6月ではない。

もっとも、「イラク・イスラーム国」は、イラクの武装勢力や地元の人々に対する解体・併合路線や極端な宗教解釈・実践が忌避され、2011年初頭の段階で政治的・社会的影響力をほぼ喪失した。同派は、活動の低迷期でも1ヵ月に1~2回程度バグダードの中心部で数十人を殺害する作戦を実行する能力を保っていた。しかし、このような作戦では、当時のイラク情勢や国際情勢に影響を与えることはできなかったし、世論の関心を引くようなメッセージを発信することもできなかった。

瀕死の状態から復活

きっかけはアラブ諸国の政治混乱

瀕死の状態にある、と言ってよかった「イラク・イスラーム国」が復活した契機は、2011年春以降に顕在化したアラブ諸国の政治的混乱である。

チュニジアやエジプトで政権を放逐した民衆の抗議行動の手法を模倣した運動が発生し、イラクやシリアでも混乱が生じた。特に、シリアでは抗議行動が短期間のうちに武力衝突に転じ、次いで中東内外の諸国が各々の政治目標を実現するために干渉する国際紛争へと発展した。

この過程で、シリア政府の打倒を目指す諸国は、シリア政府を攻撃するならばイスラーム過激派であってもこれを肯定・奨励するかのような態度をとった。「イラク・イスラーム国」はこれに乗じ、「ヌスラ戦線」というフロント組織をシリアに送り込み、これを窓口に国際的にヒト・モノ・カネなどの資源を調達することに成功した。国際的なイスラーム過激派対策に、「シリアの反体制派支援」という名目で重大な綻びが生じたのである。

この成功に自信を深めた「イラク・イスラーム国」は、2013年4月に「ヌスラ戦線」がフロント組織に過ぎないことを暴露し、これを統合して「イラクとシャームのイスラーム国」へと名称を変更した。「ヌスラ戦線」の一部は、統合・名称変更に反発して独自にアル=カーイダの傘下に入った。これは、アル=カーイダと「イスラーム国」との対立・絶縁の直接的な契機となった。

イラク大攻勢でモスル占拠、アル=カーイダと立場逆転

シリア紛争を窓口に資源を調達する経路を確保した「イラクとシャームのイスラーム国」は、これを元手にイラクでも大攻勢に出た。劇的な戦果は2014年6月のモスルの占拠である。モスルの占拠は、単なる拠点制圧にとどまらず、装備の奪取、財源(収奪の対象である多数の住民)の獲得、各種財物の略奪など、組織の運営上きわめて重要な資産の獲得を意味した。

そして、これを今度はシリア側に投入することによりさらなる戦果を上げ、同派に対抗しているはずの「穏健な反体制派」はなすすべもなく圧倒された。一連の戦果を経て、「イラクとシャームのイスラーム国」は、カリフ制の樹立と、組織名から地名を外し「イスラーム国」と名称を変更することを宣言した。これにより、同派はイスラーム共同体を代表し、その構成員の誰もが忠誠を誓うべき「カリフ国」を僭称したのである。

「イスラーム国」はアル=カーイダとの競合において圧倒的優位に立った。これは、同派が世界中から潤沢に資源を調達し、現場で戦果を上げるとともに、シリアとイラクにまたがって領域を占拠し、両国の間の国境を物理的に「破壊する」という、極めて効果的な示威行動を行ったこととも関係している。

「国境破壊」は、イスラーム共同体が異教徒やその傀儡によって侵害され、共同体を分断する諸国家がでっち上げられたと考えているイスラーム過激派の支持者を惹きつけ、さらなる資源調達を促進した。

「イスラーム国」は、その後も既存の通貨体制を否定して貴金属貨幣の導入を宣言するなど、「イスラーム統治」を演出するプロパガンダを繰り返した。これに幻惑されて各地から「イスラーム国」に合流した者も多数に上ったが、「イスラーム国」にはトルコ、ヨルダン、レバノンのような隣接地や、カリフに忠誠を誓って「イスラーム国」の傘下に入ったその他の諸地域においても「国境破壊」には至らなかったし、貴金属貨幣の導入も限られた地域においてプロパガンダ水準でしか実現しなかった。

イラクでの活動経験が10年以上に達し、この間アフガニスタンやその他の諸地域で「ジハード」に参加した活動家たちが死亡したり高齢化したりする中、「イスラーム国」の構成員や幹部の中でイラク人の比率が上昇したと言われている。自称カリフであるアブー・バクル・バグダーディーや、前任のアブー・ウマル・バグダーディーはそうしたイラク人の代表格であろう。

また、「シリアの反体制派」を偽装するためにシリア出身者を前面に立てたが、「イスラーム国」の報道官として著名だったアブー・ムハンマド・アドナーニーの例がこれにあたる。

リアルとインターネットで勢力を拡大した求心力

一方、「イスラーム国」が2014年6月以降イラクにおいて急速に占拠地を拡大し、そこで「統治機構」を整えたことには、イラクの元政権党であるバアス党や旧フセイン政権の軍・治安機関の構成員が「イスラーム国」に加わっているからだとの説明がある。

ただし、バアス党や同党に近い武装勢力、およびイラクの政界の中に「イスラーム国」を支持したり、利用したりしたものが存在したとしても、それらは「イスラーム国」のモスル占拠後短期間のうちに粛清されたため、彼らが「イスラーム国」の運営の手法や思考・行動様式に強い影響を与えているとは考えにくい。また、「イスラーム国」の幹部や構成員の中にバアス党や旧フセイン政権の者が加わっているとの情報は、ほとんどが裏付けや実証が困難な情報であることにも注意が必要である。

リアルとインターネットで勢力拡大

世界から3万人を引き寄せた求心力

大々的に戦果を上げ、潤沢な財源を奪取したことにより、「イスラーム国」は勢力を拡大した。イラクやシリアで占拠した地域にとどまらず、世界各地のイスラーム過激派の武装勢力の中で、「カリフに忠誠を表明」して「イスラーム国」の一部であると主張するものが現れたのである。

その地理的な広がりは、フィリピン、バングラデシュ、アフガニスタン、カフカス、イエメン、エジプト、チュニジア、アルジェリア、ソマリア、ナイジェリアなどに及んだ。2016年7月に「イスラーム国」が発表した同派の機構についての広報動画によると、世界各地に35の「州」が存在することになっている。

また、現実の世界にとどまらず、インターネットの世界でも、これまでアル=カーイダなどイスラーム過激派諸派の広報の場となってきた掲示板サイトの一部が「カリフに忠誠を表明」し、もっぱら「イスラーム国」のためだけの広報媒体へと変貌する例も見られた。「イスラーム国」がこれらの集団とどのような人的なつながりを持ち、実際にどの程度指揮・監督していたかを含め、検証・解明すべき点が多い。

しかし、「イスラーム国」が実際に占拠している地域は、2015年初頭をピークに縮小を続けた。イラク・シリアの両政府は、諸外国の支援を受けて「イスラーム国」に占拠された地域の奪回を進めた。ただし、いずれの場合もイラク、シリアに介入する諸外国の立場の相違や権益争いが原因で非常に効率が悪く、「イスラーム国」の早期殲滅を望む立場から見れば合格点とは言えないものだった。

「イスラーム国」の実態はどうなっているのか?

イラクやシリアで「イスラーム国」と交戦した諸勢力の働き以上に同派の退潮に効果的だったのは、世界各国で「イスラーム国」向けの資源の調達と移動に対する規制が強まったことである。2015年末時点の推計で、100ヵ国近くから約3万人もの人員がイラク・シリアで「イスラーム国」に合流したと考えられている。

「イスラーム国」は世界中のムスリムに「移住」を勧める広報を行っていたが、だからと言って敵対勢力の工作員が侵入したり、必要な能力や資質を持たず組織にとって負担にしかならない人員が増加したりすることは望んでいない。そうなると、身元確認・選抜、ある程度の訓練、そして密航のための旅程支援を行う組織やネットワークが、「イスラーム国」に多数の人員を送り出した諸国に相当強固に存在していたと考えることができる。

「イスラーム国」への代表的な人員の供給国は、チュニジア、サウジ、トルコ、ロシア、ヨルダン、そしてフランス、イギリス、ベルギーなどのEU諸国である。アジアにおいては、インドネシア、バングラデシュ、オーストラリアからの人員供給が目立った。

外部からの資源供給という観点から見ると、2015年以降、チュニジア、フランス、サウジ、ベルギー、トルコなどで「イスラーム国」の犯行と考えられる爆破事件や襲撃事件が起きたことは、同派にとって資源の調達と移動の道を狭める自殺行為に他ならなかった。

別の観点から見ると、これまで「イスラーム国」の資源調達地となってきた諸国が自国内でそれを取り締まろうとすれば、取り締まりの現場で抵抗される場合も含め、「イスラーム国」と衝突する可能性は上がる。

EU諸国での様々な事件は、その手法や被害の規模の面で衝撃的なものと受け止められたが、裏を返せば長期間にわたり「イスラーム国」による資源の調達を放置してきた諸国の失態だったのである。これまで資源の調達・移動に利用してきた場所での取り締まりが強化されたことにより、「イスラーム国」はイラクやシリアに資源を送り込むことが困難になっていった。

「イスラーム国」の実態はどうなっているのか?

これまで述べてきたように、「イスラーム国」は犯罪組織として資源を調達し、組織を運営するメカニズムを世界規模で発達させてきた。その実態はどうなっているのか。同派は、人員の勧誘・選抜・教化・旅程支援・合流・教練のメカニズムの構築、人員勧誘の誘因となる給与や「福利厚生」の提供に見られるように、犯罪組織として資源を調達したり、構成員が利益を分配したりする仕組みは持っていた。また、訓練施設を設け、部隊を編成し、広範囲で戦闘を行う管理・兵站部門を組織した。

生産軽視で現実と建て前の大きな乖離

イラクやシリアで「イスラーム国」と交戦した諸勢力の働き以上に同派の退潮に効果的だったのは、世界各国で「イスラーム国」向けの資源の調達と移動に対する規制が強まったことである。2015年末時点の推計で、100ヵ国近くから約3万人もの人員がイラク・シリアで「イスラーム国」に合流したと考えられている。

「イスラーム国」は世界中のムスリムに「移住」を勧める広報を行っていたが、だからと言って敵対勢力の工作員が侵入したり、必要な能力や資質を持たず組織にとって負担にしかならない人員が増加したりすることは望んでいない。そうなると、身元確認・選抜、ある程度の訓練、そして密航のための旅程支援を行う組織やネットワークが、「イスラーム国」に多数の人員を送り出した諸国に相当強固に存在していたと考えることができる。

「イスラーム国」への代表的な人員の供給国は、チュニジア、サウジ、トルコ、ロシア、ヨルダン、そしてフランス、イギリス、ベルギーなどのEU諸国である。アジアにおいては、インドネシア、バングラデシュ、オーストラリアからの人員供給が目立った。

外部からの資源供給という観点から見ると、2015年以降、チュニジア、フランス、サウジ、ベルギー、トルコなどで「イスラーム国」の犯行と考えられる爆破事件や襲撃事件が起きたことは、同派にとって資源の調達と移動の道を狭める自殺行為に他ならなかった。別の観点から見ると、これまで「イスラーム国」の資源調達地となってきた諸国が自国内でそれを取り締まろうとすれば、取り締まりの現場で抵抗される場合も含め、「イスラーム国」と衝突する可能性は上がる。

EU諸国での様々な事件は、その手法や被害の規模の面で衝撃的なものと受け止められたが、裏を返せば長期間にわたり「イスラーム国」による資源の調達を放置してきた諸国の失態だったのである。これまで資源の調達・移動に利用してきた場所での取り締まりが強化されたことにより、「イスラーム国」はイラクやシリアに資源を送り込むことが困難になっていった。

生産軽視で現実と建て前の大きな乖離

イラクやシリアで「イスラーム国」と交戦した諸勢力の働き以上に同派の退潮に効果的だったのは、世界各国で「イスラーム国」向けの資源の調達と移動に対する規制が強まったことである。2015年末時点の推計で、100ヵ国近くから約3万人もの人員がイラク・シリアで「イスラーム国」に合流したと考えられている。

「イスラーム国」は世界中のムスリムに「移住」を勧める広報を行っていたが、だからと言って敵対勢力の工作員が侵入したり、必要な能力や資質を持たず組織にとって負担にしかならない人員が増加したりすることは望んでいない。そうなると、身元確認・選抜、ある程度の訓練、そして密航のための旅程支援を行う組織やネットワークが、「イスラーム国」に多数の人員を送り出した諸国に相当強固に存在していたと考えることができる。

「イスラーム国」への代表的な人員の供給国は、チュニジア、サウジ、トルコ、ロシア、ヨルダン、そしてフランス、イギリス、ベルギーなどのEU諸国である。アジアにおいては、インドネシア、バングラデシュ、オーストラリアからの人員供給が目立った。

外部からの資源供給という観点から見ると、2015年以降、チュニジア、フランス、サウジ、ベルギー、トルコなどで「イスラーム国」の犯行と考えられる爆破事件や襲撃事件が起きたことは、同派にとって資源の調達と移動の道を狭める自殺行為に他ならなかった。別の観点から見ると、これまで「イスラーム国」の資源調達地となってきた諸国が自国内でそれを取り締まろうとすれば、取り締まりの現場で抵抗される場合も含め、「イスラーム国」と衝突する可能性は上がる。

EU諸国での様々な事件は、その手法や被害の規模の面で衝撃的なものと受け止められたが、裏を返せば長期間にわたり「イスラーム国」による資源の調達を放置してきた諸国の失態だったのである。これまで資源の調達・移動に利用してきた場所での取り締まりが強化されたことにより、「イスラーム国」はイラクやシリアに資源を送り込むことが困難になっていった。

一方、「イスラーム国」が2014年6月以降イラクにおいて急速に占拠地を拡大し、そこで「統治機構」を整えたことには、イラクの元政権党であるバアス党や旧フセイン政権の軍・治安機関の構成員が「イスラーム国」に加わっているからだとの説明がある。

ただし、バアス党や同党に近い武装勢力、およびイラクの政界の中に「イスラーム国」を支持したり、利用したりしたものが存在したとしても、それらは「イスラーム国」のモスル占拠後短期間のうちに粛清されたため、彼らが「イスラーム国」の運営の手法や思考・行動様式に強い影響を与えているとは考えにくい。また、「イスラーム国」の幹部や構成員の中にバアス党や旧フセイン政権の者が加わっているとの情報は、ほとんどが裏付けや実証が困難な情報であることにも注意が必要である。

リアルとインターネットで勢力拡大

世界から3万人を引き寄せた求心力

大々的に戦果を上げ、潤沢な財源を奪取したことにより、「イスラーム国」は勢力を拡大した。イラクやシリアで占拠した地域にとどまらず、世界各地のイスラーム過激派の武装勢力の中で、「カリフに忠誠を表明」して「イスラーム国」の一部であると主張するものが現れたのである。

その地理的な広がりは、フィリピン、バングラデシュ、アフガニスタン、カフカス、イエメン、エジプト、チュニジア、アルジェリア、ソマリア、ナイジェリアなどに及んだ。2016年7月に「イスラーム国」が発表した同派の機構についての広報動画によると、世界各地に35の「州」が存在することになっている。

また、現実の世界にとどまらず、インターネットの世界でも、これまでアル=カーイダなどイスラーム過激派諸派の広報の場となってきた掲示板サイトの一部が「カリフに忠誠を表明」し、もっぱら「イスラーム国」のためだけの広報媒体へと変貌する例も見られた。「イスラーム国」がこれらの集団とどのような人的なつながりを持ち、実際にどの程度指揮・監督していたかを含め、検証・解明すべき点が多い。

しかし、「イスラーム国」が実際に占拠している地域は、2015年初頭をピークに縮小を続けた。イラク・シリアの両政府は、諸外国の支援を受けて「イスラーム国」に占拠された地域の奪回を進めた。ただし、いずれの場合もイラク、シリアに介入する諸外国の立場の相違や権益争いが原因で非常に効率が悪く、「イスラーム国」の早期殲滅を望む立場から見れば合格点とは言えないものだった。LEFT:

さらに、占拠した地域の住民を監視・抑圧するための部門や、年少者を含む住民を動員するための広報・教育部門を熱心に整備し、それを「イスラーム統治」の成果として広報した。それだけにとどまらず、「イスラーム統治」の実践として斬首、石打ちや建物からの投げ落としによる死刑、窃盗犯の手首切断、礼拝や断食を怠った者への鞭打ちなどの刑罰を導入し、それを公開で行った。

生産軽視で現実と建て前の大きな乖離

一方、なにがしかの政体として制圧下にある地域の発展やその住民の生活水準の向上に資する活動や、そのための制度の構築をしていたとは言い難い。同派自身がその機構を紹介した動画でも、生産や流通、各種サービスの提供に従事する「役所」は少数に過ぎず、機構の上からも生産やサービス供給を軽視していたことがうかがえる。

また、天然資源や文化財の盗掘・密売などによって得た収益は、戦闘や外国人の構成員への給与・「福利厚生」に費やされたはずであり、制圧下の社会や住民のために用いられた分は少ないだろう。「イスラーム国」は、宗教的な救貧税を取り立て、貧しい人々に配布したとの広報を盛んに行ったが、対象となる貧しい人々とは、同派によって経済活動の基盤を破壊され、生活が立ち行かなくなった人々に他ならない。「イスラーム国」に占拠された地域の住民にとって、同派による「統治」なるものは、厳しい監視と原始的な刑罰による抑圧と脅迫、一方的な財産の収奪に過ぎなかった。

他にも、「イスラーム国」の建前と実態の乖離は様々なところで顕在化した。例えば、「イスラーム国」は既存の経済体制を「不信仰」と断罪し、アメリカ・ドルをはじめとする紙幣を廃止し、貴金属貨幣を導入すると主張した。

同派が占拠する地域の一部では、貴金属貨幣の使用が強制された。しかし、その一方で「イスラーム国」は自らの経済的資源を既存の経済体制から、既存の紙幣を用いて調達し続けた。同派が資金源の一部にしたと考えられている天然資源や文化財の密輸、臓器売買のようなものは、外部に買い手がついて初めて成立するものだった。

また、証券や仮想通貨の取引も「イスラーム国」の資金づくりに利用されたとの説もある。インターネットや衛星放送の利用も、「イスラーム国」の実態を示す例とみなすことができる。「イスラーム国」はテロ組織として社会的反響を呼ぶために、インターネットや報道機関を巧みに利用したと言える。

しかし、彼ら自身は、占拠した地域の住民に対しこれらの技術やサービスの利用を禁止した。要するに、「イスラーム国」は敵である世俗的な社会の経済活動や、そこでの技術・サービスに寄生して活動しているに過ぎなかったのである。

日本人にとっての「イスラーム国」とは何か?

さらに、占拠した地域の住民を監視・抑圧するための部門や、年少者を含む住民を動員するための広報・教育部門を熱心に整備し、それを「イスラーム統治」の成果として広報した。それだけにとどまらず、「イスラーム統治」の実践として斬首、石打ちや建物からの投げ落としによる死刑、窃盗犯の手首切断、礼拝や断食を怠った者への鞭打ちなどの刑罰を導入し、それを公開で行った。

生産軽視で現実と建て前の大きな乖離

一方、なにがしかの政体として制圧下にある地域の発展やその住民の生活水準の向上に資する活動や、そのための制度の構築をしていたとは言い難い。同派自身がその機構を紹介した動画でも、生産や流通、各種サービスの提供に従事する「役所」は少数に過ぎず、機構の上からも生産やサービス供給を軽視していたことがうかがえる。

また、天然資源や文化財の盗掘・密売などによって得た収益は、戦闘や外国人の構成員への給与・「福利厚生」に費やされたはずであり、制圧下の社会や住民のために用いられた分は少ないだろう。「イスラーム国」は、宗教的な救貧税を取り立て、貧しい人々に配布したとの広報を盛んに行ったが、対象となる貧しい人々とは、同派によって経済活動の基盤を破壊され、生活が立ち行かなくなった人々に他ならない。「イスラーム国」に占拠された地域の住民にとって、同派による「統治」なるものは、厳しい監視と原始的な刑罰による抑圧と脅迫、一方的な財産の収奪に過ぎなかった。
他にも、「イスラーム国」の建前と実態の乖離は様々なところで顕在化した。例えば、「イスラーム国」は既存の経済体制を「不信仰」と断罪し、アメリカ・ドルをはじめとする紙幣を廃止し、貴金属貨幣を導入すると主張した。同派が占拠する地域の一部では、貴金属貨幣の使用が強制された。しかし、その一方で「イスラーム国」は自らの経済的資源を既存の経済体制から、既存の紙幣を用いて調達し続けた。同派が資金源の一部にしたと考えられている天然資源や文化財の密輸、臓器売買のようなものは、外部に買い手がついて初めて成立するものだった。

また、証券や仮想通貨の取引も「イスラーム国」の資金づくりに利用されたとの説もある。インターネットや衛星放送の利用も、「イスラーム国」の実態を示す例とみなすことができる。「イスラーム国」はテロ組織として社会的反響を呼ぶために、インターネットや報道機関を巧みに利用したと言える。しかし、彼ら自身は、占拠した地域の住民に対しこれらの技術やサービスの利用を禁止した。要するに、「イスラーム国」は敵である世俗的な社会の経済活動や、そこでの技術・サービスに寄生して活動しているに過ぎなかったのである。

日本人にとっての「イスラーム国」とは何か?

単なる犯罪組織として理解することは難しくない

日本人にとっての「イスラーム国」

では、そんな「イスラーム国」とは日本人にとって、どのような存在なのだろうか。中東における紛争や社会問題を扱うことは、日本では遠隔地の出来事、あるいは日本人にとっては縁遠く理解困難な出来事として思考停止状態になるか、先進国と途上国との間の格差・不平等・差別、あるいは文明的・宿命的な対立のような「大きな話」を語るための材料として利用されるかのような状態になりがちである。

「イスラーム国」の問題も、犯罪組織・テロ組織としての彼らの実態を考察するよりも、「日本人が被害に遭った」「日本が脅迫された」「日本人にとって比較的なじみ深い場所が攻撃を受けた」といった部分が強調され、「正体不明、理解不能な脅威」として喧伝された感が強い。

「イスラーム国」には、「思想」や主張、特異なプロパガンダ、残虐性などの側面だけでなく、組織を運営するための技術や手法、資源を調達するためのメカニズム、同派を増長させた国際関係上の問題など、観察・分析すべき点が多数ある。今後「イスラーム国」や同種の団体による被害を減らすためにも、より体系的な観察や分析が必要であろう。

現時点で、直接「イスラーム国」に参加したり、同派のために活動したりした日本人は非常に少数である。これは、100ヵ国以上から約3万人が「イスラーム国」に合流したと推定され、「イスラーム国」を支える組織やネットワークが世界中に存在しているという現実に鑑みれば、非常に恵まれているとすら言える。

日本人の中でイスラーム過激派の活動に協力したり、彼らと親しい関係になったりした者がごく少数に過ぎないことが、「イスラーム国」に参加した日本人がほとんどいなかった主因であろう。

しかし、このような状態が今後も続く保証はない。好奇心や売名行為という理由も含め、「イスラーム国」に近づこうとした日本人が全くいなかったというわけではないし、「イスラーム国」の存在や活動を正当化したり、同派のプロパガンダの拡散に手を貸すような振る舞いをしたりした者もいただろう。SNSなどを通じれば、そうした人々が「イスラーム国」のような組織と直接結びつくようになる可能性は高まる。

また、直接の構成員でない者が、「拡散者」としてプロパガンダやメッセージの拡散や解説をすることによって「イスラーム国」の共鳴者・模倣者が増加したことが世界的な問題となっている。「拡散者」本人や彼らの行為は、言論の自由が保障された社会においてはさしたる罪に問うことができないため、「拡散者」をどのように抑え込むかは、日本社会にとっても重大な課題である。

「イスラーム国現象」とは何だったのか?

単なる犯罪組織として理解することは難しくない

コメント


認証コード2736

コメントは管理者の承認後に表示されます。