「五輪」

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東京都の小池百合子知事による都政改革は世論を錦の御旗に驀進(ばくしん)を続けているように見える。

メディアも庶民も彼女の快進撃に意を唱えることができない「空気」を感じる。豊洲問題については、過去に遡る弾劾裁判が正当化され、そして東京五輪開催問題についても同様の手法でその開催経費にメスを入れた。

小池知事の私的諮問機関とも言える都政改革本部の東京五輪プロジェクトチーム(PT)は、橋下大阪維新を実現させた敏腕、慶應大の上山信一教授をリーダーとして五輪見直しを提言した。「このままでは3兆円を超える開催費となる」という発表は、都民、国民を驚愕させるに十分なものだった。少なくとも東京五輪組織委員会(OCOG)のあり方に都民、国民の目を向けさせることに成功した。

「えぇ~そんなにかかるの? なんとかならないの」から「そんなにかかるなら五輪やめれば」まで、東京五輪開催準備について懐疑的な意見が飛び交っている。しかし、当初8000億円と言われた予算が3兆円になる、という構図は客観的事実からはほど遠い。

この点については、多くの専門家と言われる人々が指摘しているので詳述はしないが、立候補時の書類に記された最小予算金額と開催準備を踏まえた実行希望予算の違いと思えばわかりやすいのではないだろうか。

小池PTは五輪開催予算の見直しを提言し、具体的に三つの競技会場の既存施設への移設等を掲げた。中でもボート、カヌー会場となる海の森水上競技場については、当初69億円の予算が1000億円に膨らみ、491億円に下がったものの、当初予算の7倍という数字が都民、国民に与えるイメージは強烈で、メディアの批判もこれに集中した。そして、代替有力候補地として長沼ボート競技場が震災復興というコンセプト付で提案されるに到り、世論はこの提案に大きく傾いた。

しかしこの提案は、東京五輪開催契約で示した「歴史上最もコンパクトな」五輪という選手第一主義(アスリートファースト)への信条からは大きくかけ離れることになること、大きな会場変更には、既に海の森水上競技場をベストなボート、カヌー会場として、選んでいる国際競技連盟(IF)の承認が必要であり、最終的には国際オリンピック委員会(IOC)理事会の決定を受けなければならないことがあるので、当初から五輪を知る関係者には実現不可能なものに思えた。

五輪には五輪のルールがある

10月19日から文部科学省が主催した「スポーツ・文化・ワールド・フォーラム」の招きで来日したIOCのバッハ会長は、10月18日に都庁を訪れ、表敬訪問の形で小池知事と会談した。その際明確に、最初に決めたことを守るとともに「選手第一主義」と「ひとつの選手村」の大切さを強調した。ボート、カヌー会場のことは一切触れていないが、彼がここで主張したかったことは、「オリンピックにはオリンピックのルールがある」ということだった。

バッハ会長は、初の五輪金メダリストのIOC会長である。1976年モントリオール五輪フェンシングフルーレ団体で金メダルを獲得したが、それよりも重要なのが1981年にバーデンバーデン(当時西ドイツ)で開催されたオリンピックコングレスに選手代表として演者を務めていることである。

このコングレスは五輪運動において五輪大会に次ぐ貴重なイベントで、IOCは8年に一度の開催を理想としてきた。世界中のスポーツ関係者が一堂に介して、オリンピック運動の今後について語り合う場であり、未来のオリンピックへの展望を共有する場である。そして、この第11回オリンピックコングレスの最も重大な議決の一つが「選手の声」を聞く、選手委員会の創設にあった。

選手代表のトマス・バッハはこの選手委員会の創設メンバーとなった。すなわち彼は、物を言えるオリンピック選手の先駆けであり、以降の彼の歩みは理想的なIOC会長になるための訓練の日々とも見て取れる。オリンピックの将来はこの時から彼の双肩にかかったと言っても過言ではない。

その詳細は省くが、1991年にIOC委員となって以来、様々なIOC委員会での働きで頭角を現し、1996年にIOC理事となってからは、誰もが認めるIOCの実力者となっていった。その懐にあった最も大事な至言は「選手がオリンピック運動の要である」という思想であり、それがバッハの掲げるオリンピックアジェンダ2020(アジェンダ2020)の根幹のひとつ、選手第一主義に繋がる哲学なのである。

その哲学を持したバッハ会長から見て、小池知事が掲げた都政改革の中に浮上した東京五輪会場見直しは、スポーツが政治に対して解決しなければならない問題であり、特に分村を前提とする長沼ボート場への変更案は、選手第一主義への無理解を示し、それへの啓蒙にバッハ会長自らが動くしかなかったのである。

新都知事の政治的なパフォーマンスという実態

実は2014年に舛添知事が誕生した際にも五輪会場見直し問題が浮上した。その結果、自転車競技場は静岡に、ヨットは江の島にと、東京五輪が掲げていた8㎞圏内の歴史上最もコンパクトな五輪の理想は崩れかけていった。

しかし一方で、アジェンダ2020の掲げる持続可能な五輪開催のための節約についてのベクトルもあり、IOCはこの提案を受け入れた。しかし、それは最終的な決心でなければならなかった。この落としどころに妥協したIOCが驚いたのは、再び小池新都知事が誕生したと同時に8㎞圏内のコンパクト五輪の理念を覆す長沼ボート場案が浮上したことである。

これにIOCとOCOG、開催都市、JOCの調整を任される調整委員会委員長のコーツが直ぐに嚙みついたのも無理はない。寝耳に水。知事が変わる度に東京五輪の理念が崩れていくように見えたのだから、ここで釘をさすしかないではないか。東京五輪の重要なパートナーである開催都市の首長に。そこで、バッハ会長来日時にIOCはこの問題についての収拾を図ろうと決心したのである。

IOCから見れば、東京五輪は開催が決定した直後からスポーツを政治的に利用しているように思えてしかたがない。招致時代の猪瀬知事から舛添知事に代わった途端に国立競技場の問題が浮上し、当初予算では実現が不可能として、予算縮小の上での再コンペが行われた。スポーツ界の歴史が詰まった1964年東京五輪のレガシーは無残にも取り壊され、その上に建築が予定されているのは、陸上の世界選手権が開催できるかどうかも分からないスタジアムである。

そして、今回、小池知事のPTの提案は、国際競技連盟(IF)が将来的なボート競技やカヌー競技の拠点としての構想をも見込んで認証した海の森水上競技場を移設すると言うのである。

この両者の「改革案」は都民、国民目線で経費削減という正論に見えるだろうが、その実態は新都知事の政治的なパフォーマンスである。最もメスを入れやすい東京五輪の予算への斬り込みを行い、日本では弱小で、もっとも言うことを聞きそうなスポーツへのお達しを行おうというものである。

誤算は小池知事側にあったと見る。バッハ会長が来日中に見せたのはスポーツ外交の基本的戦略である。一方、都知事の豊洲問題や五輪問題のメスの入れ方は政治的戦略である。後者が敵を潰すことによって結果を得るのに対して、前者は敵を生かして解決する方法である。

10月19日のバッハ・小池会談を急遽小池知事側の要望で公開にしたことをPT側は透明性の戦略としているが、この種の会談をオープンにすることについては、前任のロゲ会長以来IOC側は日常としているし、アジェンダ2020を掲げるバッハ会長にはすべての人を五輪のステークホルダーに抱えるという目的があり、そのためのオープン化は急速に進んでいる。

私が関わっていたサマランチ体制ではありえなかったことだが、IOC総会が今ではネットストリーミングで見られるようになったのは、その一端である。

五輪憲章を否定する小池知事の常識

スポーツ外交の肝は、スポーツ的な臨機応変な対応であり、仕組まれたシナリオを超えるような、その時にベストな判断を引き出すやり方である。そして、相手の主張を生かして、自らの場において一つの繋がりを見つけることである。四者会談の提案はまさにそうで、都知事と組織委員会が対立関係にある構造を、IOCが自ら下りてきて、日本政府も巻き込んで、同じ場で日本オリンピック委員会(JOC)とともに解決しようということである。

アジェンダ2020で五輪経費削減を目指すIOCの主張を敷衍(ふえん)して、資金を拠出する所が権限を持つという小池知事やPTの常識は、政財界で通用しても、五輪運動の場ではただの政治的介入に見られる。

五輪組織委員会を都の監理団体に置くという発想は、五輪憲章の否定となり、IOCが絶対に受け入れることはないだろう。なぜなら、そもそも五輪の理念は、スポーツによる世界平和実現なのであり、世界のトップアスリートが人間の限界に挑戦する姿を、国を超え、政治を超え、宗教を超え、あらゆる垣根を超えて、称え、そして支える中で、平和への希望を有するという確かなる信念を共有することなのである。政治からの自律を貫かなければならない。

PTが出した、このままでは3兆円かかるという警鐘を受けて、我々が賢察しなければならないことは、五輪運動が世界平和構築の残された一縷の望みであり、そのために我々が五輪開催準備にいくらをかけるべきなのか? そして、どうやってその費用を捻出するのかという試行錯誤である。バッハ会長はその場を四者会談に求めている。

五輪を政治的パフォーマンスに利用しようとすれば、オリンポスの神は黙ってはいない。そのことは舛添知事の末路を見れば明らかである。日本ウエイトリフティング協会会長としてスポーツの現場の声に耳を傾けてきた小池知事ならば、IOCのスポーツ外交に応じていくセンスがあると信じたい。

優秀なPTは、今回のIOCのスポーツ外交を見てギアを変えた。今後はIOCの選手第一主義に合わせてくるだろう。それはボート、カヌー会場の候補地から、彩湖を外し、長沼ボート場を残し、かつ海の森水上競技場の選択肢を二つにしたことからも伺える。

従来案の常設に加え、仮設を提案した。これによって、小池知事が長沼を選択しない可能性を増やし、海の森水上競技場の仮設を選べば、都民ファーストを尊重したことになるとともに、もし常設を選択すれば、IOCへの忠誠を示しつつ、かつ都民への貢献も示すことができる。PTが動かなければ491億円が300億円になることはなかったからである。

1964年の東京五輪が歴史に残るほどの評価を得たことはIOCの記憶にある。信頼できるはずのパートナーだった日本がリオ五輪の準備段階にも劣る七転八倒を繰り返している。

日本贔屓だったバッハ会長も疑心を抱かざるをえない状態になっている現実がある。小池知事がどこまでオリンピズムに近づけるかどうか? オリンポスの神は見ているはずだ。

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