「日本人としての生き方」

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日本人としての生き方・醍醐忠重海軍中将

8月になると、どうしても戦争関連の記事が多くなりますが、今日はその中から、やはり毎年掲載している醍醐忠重のお話をしたいと思います。

醍醐忠重(だいごただしげ)海軍中将は、終戦当時日本海軍の第六艦隊司令長官だった人です。
第六艦隊というのは潜水艦の艦隊です。

明治24(1891)年の生まれで、醍醐の名字が示すとおり、もともと名門貴族の嫡男です。

醍醐家は旧侯爵家です。

「公侯伯子男」といって、これは明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級の制度です。
簡単にいうと、
公爵は、旧五摂家と徳川家宗家、島津家宗家、毛利家
侯爵は、清華家と徳川御三家、および15万石以上の元大名家など
伯爵は、堂上家と5万石以上の元大名家、および東西本願寺世襲門跡家の大谷家など
子爵は、維新前に諸侯だった大名家および旧直参旗本家のうち大身の家など
男爵は、明治維新後に華族となった家老家や大社の世襲神職14家など
となっています。

醍醐中将の醍醐家は、このうちの侯爵の家柄ですから、とても身分の高い家であったわけです。

醍醐忠重海軍中将

醍醐中将の父親は戊辰戦争で奥羽鎮撫副総督などを務めた人ですが、醍醐中将がまだ八歳の頃に他界されて、母も相次いでお亡くなりになりました。
醍醐中将は、幼くして孤児となり、やはり名門の一條家にひきとられています。

醍醐中将は、乃木大将が院長だった頃の学習院旧制中等科に通い、同時に嘉納治五郎の講道館で柔道を修業しました。
柔道はとても強かったそうです。

ちなみにこの時代の講道館柔道は、いまのオリンピック柔道と異なり、一本と技ありしかありません。
また体重別もありません。
一方、当て身と言われる拳法や蹴り技などもある実践的な柔道で、とりわけ相手の力を利用して技を決めるため、まさに小柄な者が大柄な力持ちを投げたり押さえ込んだりする技を極めるものであったわけです。

さて、醍醐中将は、明治42(1900)年に、第四十期海軍兵学校生となりました。
入校時の成績は、150名中、126番とふるわなかったのですが、入学後の猛勉強で、卒業時には144名中、17番になっていました。
たいへんな努力家であったわけです。

兵学校で同期だった福留繁元海軍中将によると、兵学校当時の醍醐中将は、
「(華族の家柄だけあって)さすがに行儀が良く、上品で服装もきちんとしていた。酒を飲んでも少しも乱れることはなく、謹厳で謙譲な奴だった」そうです。

昔は、海軍兵学校で成績上位者は、一定の現場勤務のあと、海軍大学校に進学しました。
卒業すれば、その日から高級士官になるからです。
けれど醍醐中将は現場勤務を選択しました。

海軍では、はじめ巡洋戦艦「吾妻」の乗組員になり、大正6(1917)年には、初の潜水艦勤務に就きました。

この時代の潜水艦というのは、実はたいへんな乗り物で、潜水中は排ガスが艦内に充満するし、艦内は50度近い高温になり、乗組員は汗と油でぐしょぐしょになりながら任務をこなすというものでした。

ある意味、潜水艦乗りというのは、最先端の船でありながらも、もっとも敬遠されがちで、しかも最も地味な艦隊でした。

安楽な道と苦難の道があるならば、進んで苦難の道を選ぼうというのが、古来からの日本男児の美意識です。
当時大尉だった醍醐のもとには、練習艦隊参謀にという内示もあったのですが、彼はそれを断わり、生涯を潜水艦に賭けるという選択をしています。

彼が少佐として潜水艦長だった頃のことです。
海軍が艦隊をA軍、B軍に分けて、大演習を行ったことがあります。
このとき醍醐中将が艦長を務める潜水艦は、たった一隻で、相手チームの戦艦群がいる厳戒態勢の舞鶴港に侵入し、相手の全艦隊を轟沈、ないしは大破させてしまいました。

もちろん演習ですから実弾は使用していませんが、厳戒態勢の連合艦隊全艦が、醍醐中将の潜水艦一隻のために、なすすべもなく全滅させられたという事実は、当時の海軍関係者全員の度肝を抜くものであったそうです。

ちなみに軍というものは、一瞬の判断が生死を分けます。
優秀な装備は軍を強くしますが、それ以上に優秀な指揮官に指揮された軍は、想定以上の実力を発揮するものです。

昭和13(1938)年、醍醐中将にご皇室の侍従武官の話がもちあがりました。
このとき彼が海軍大学校を出ていないからと反対意見があったそうです。
しかし人格、識見からいって充分適格との上層部の判断で、彼は見事に侍従武官になっています。

当時を振り返って、入江侍従は、
「醍醐さんは、まじめで冗談など滅多に言われない方でしたが、決して固苦しい方ではなく、非常にやわらかい、温かい雰囲気をもった方でした」と語っています。

さて、戦争も末期となった昭和20(1945)年5月のことです。
醍醐中将は第六艦隊司令長官に就任しました。
このとき、第六艦隊の全員が、歓喜して彼を迎えたといいます。

潜水艦を愛し、潜水艦を知り、部下たちの心を理解する醍醐中将の長官就任は、まさに艦隊全員の喜びだったのです。
それは、「醍醐の長官就任で戦争末期の重苦しい艦隊の気分がまさに一新された」というほどのものでした。

終戦の直前に、機雷によって沈められながら生き残った潜水艦乗りの方がいます。

海に投げ出された300名の乗員は、海上を漂流中にサメに襲われて、ひとり、またひとりと海上を朱に染めました。
最後の最後まで仲間を励まし続け、ようやく救助されたその方(直接お話を伺いましたが、そのお名前は伏せます)は、漂流中、ふと気が遠くなったとき、醍醐中将の「しっかりしろ!」という声が聞こえて我に返ったそうです。

醍醐中将は、末端の艦隊員からも、それだけ愛され尊敬された司令長官であったわけです。

この頃の第六艦隊は、作戦可能な潜水艦はたったの9隻になっていました。
けれど醍醐中将が司令長官となった潜水艦隊は、そのたった9隻で、めざましい戦果をあげています。

重巡インデアナポリス撃沈。
駆逐艦アンダーヒル撃沈。
駆逐艦ギリガン大破。

なかでもインデアナポリスは、原爆を、テニアン島に運んだ重巡です。
そのインデアナポリスに、伊58潜水艦は、六本の魚雷を発射し、三本を命中させて撃沈しました。

このことを、当時のニューヨークタイムズは、「わが海戦史上最悪の一ページ」と書いています。

そのニューヨークタイムスは、開戦前から日本悪玉論を展開した新聞社でしたが、会社オーナーの細君は、Chinese女性でした。
そのときから、いまも昔も反日リベラルメディアです

さて、この頃の第六艦隊の潜水艦は、人間魚雷「回天」を搭載していました。
醍醐中将は、その回天の出撃の都度、必ず出撃の基地を訪れています。
そして連合艦隊司令長官から贈られた短刀を搭乗員に授与して、激励しました。

出撃する回天の乗員ひとり一人と握手をされていますが、そのときの醍醐中将の眼はうるみ、顔には深刻な苦悩がにじんでいたそうです。
優秀な若者を特攻させなければならないのです。
そのことに醍醐中将は深く苦しみ悩んでいたのです。

終戦直後のことです。
艦隊司令部の機密費の処理をどうするかという問題が起こりました。
このとき、第六艦隊には、かなり巨額の金が残っていました。
そしてそのお金の処分が、醍醐長官の決定に委ねられました。

醍醐中将は、
「このお金は国家のお金です。ですから一銭たりとも私すべきものではありません。何か有意義な使い道はありませんか?」と、鳥巣参謀に相談しています。

鳥巣参謀は答えました。
「回天で戦死した搭乗員の霊前に供えたらどうでしょう。本来なら戦死者全員に供えられれば良いが、この混乱の中ではとても手が回りかねます。
回天関係ならば全員わかっていますから」
醍醐中将はこの方法に賛成し、即座に決定しました。

決定は、昭和21(1946)年の正月から春にかけて実行に移されました。

その実行方法が、またすごいのです。
第六艦隊の各幕僚が手分けして遺族を訪問しました。そして長官の弔辞を捧げ、仏前に香料をお供えしました。遠距離でどうしても行けないところには、やむなく郵送しました。

このときの醍醐長官の弔辞が残っています。
以下にその弔辞を引用します。

わかりやすさを優先するために、いつものねず式で、現代語に訳してみます。

*****
【弔辞・謹みて回天特別攻撃隊員の英霊に捧ぐ】

去る八月十五日、終戦の大詔下りました。
皇国は鉾(ほこ)を収めて、
ポツダム宣言受諾のやむなきに至りました。
まことに痛恨のきわみにして、
何をもってこれをたとえたらよいのか、
言葉もありません。

散華された貴君の忠魂を思えば、
哀々切々の情、胸に迫って胸が張り裂けんばかりです。

かえりみるに貴君には、
志を立てて海軍に入り勇躍、大東亜戦争に臨んでいただきました。
けれど戦い中途からの戦況は厳しく、
そのために貴君は回天特別攻撃隊員となり、
戦勢を挽回しようとしてくださいました。
その闘魂はまことに鬼神をも泣かしむるものです。

貴君は秋霜烈日の訓練に従事されました。
ひとたび出撃するや、
必死必殺の体当り攻撃をして
敵艦船を轟沈する偉功を樹ててくださいました。
そして悠久の大義に殉じられました。
まことにその忠烈、
万世に燦然と輝くものです。

けれど貴君の武勲が赫々(かくかく)たりしものであったにもかかわらず、
戦い利あらず、ついに今日の悲運となりました。
いったい誰が今日のこの事態を予期したことでしょう。

私達は貴君の期待にそうことができませんでした。
ですから貴君の忠魂を慰めることができません。
ああ、なんと申し上げたら良いのでしょう。

けれど貴君の誠忠遺烈は、
万古国民の精髄です。
必ずや貴君の七生報国の精神は脈々と続き、
永遠に皇国を護ることでしょう。

いま皇国は、有志以来最大の苦難に直面しています。
今後におけるイバラの道は、実に計り知れません。

私達は必ずや、貴君の特攻精神を継承し、
耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、
もって新日本の建設に邁進することをお誓いします。

願わくばやすらかにお眠りください。
ここに敬弔の誠を捧げ、
貴君の英霊を慰める弔辞とします。

元第六艦隊司令長官
海軍中将 侯爵 醍醐忠重
*****

遺族の中に、復員して帰って来た弟が、そのお蔭で大学に入ることができた人がいました。
彼は亡き兄のひき合わせであると言って父母と共におおいに喜び、やがて大学を卒えて立派な社会人になりました。
その話を聞いた鳥巣元参謀は心から喜ばれました。

「長官がお聞きになったら、さぞ喜ばれたことだろう」

そのとき醍醐中将は、すでにこの世の人ではなかったのです。

それは昭和21(1946)年12月のことでした。
醍醐中将は突然、オランダ当局による逮捕命令を受けました。
その日のうちに巣鴨に収容され、さらにバタビアを経て、翌年2月上旬に、ボルネオのポンチャナック刑務所に移送されました。

実は醍醐中将は、昭和18年11月から第二十二特別根拠地隊司令官としてボルネオに駐在していました。
そこでポンチャナック事件に遭遇しています。
ポンチャナック事件というのは、概略次のような事件でした。

昭和18年頃から、日本の敗勢を予想した南ボルネオでは、オランダの一大佐の指揮するゲリラ部隊が、華僑やインドネシア人をまき込んで、反日の運動を激化させていました。
これは当時行われた反日のための軍事作戦で、日本軍の守備する地域をかく乱させ、敵の戦力を削ぐために、反乱分子にカネや武器を渡して、反乱をさせるというものです。

正々堂々と正面切って戦ったら日本に敵わないし、戦うとなれば自国民が犠牲になります。
だから現地の民衆をそそのかすのです。

カネに誘われて暴れたい若者など、民族にかかわらずどこの国にもたくさんいます。
だからそういう連中をそそのかすわけです。
しかし訓練を受けていない現地の若者に、武器だけ渡したところで、日々猛烈な訓練を重ねている日本軍に敵うはずもありません。

暴れれば、鎮圧され、場合によっては全滅させられる可能性のほうが大きいのです。
これが何を意味しているかというと、現地で反乱のために動員されている若者たちは、ただの捨て駒でしかないということです。
その若者にも、親兄弟や母や姉妹がいるのです。
どんな理由があったにせよ、死ねばその悲しみは、人類共通です。
つまり反乱をそそのかしている人々というのは、反乱を起こす若者たちの人の命をなんとも思っていない連中だということなのです。

さて、ある日ポンチャナックの特別警備隊長をしていた上杉敬明大尉のもとに、副隊長の中村少尉から、ある情報がもたらされました。

それは、12月8日の大詔奉戴日に行なわれる祝賀会の際、接待役を命ぜられていたインドネシア婦人会のメンバーのための飲料に、反日運動家らが毒を混ぜて、日本の司政官や警備隊幹部、ならびに現地人で構成する婦人会員を皆殺しにし、同時に決起部隊が蜂起して一挙に日本軍を一掃しようとする、というものでした。

報告を受けた第二十二特根司令部は、ただちに容疑者らの逮捕と、彼らの武器・弾薬の押収を命令しました。
そして調査の結果、逮捕された千余人は、まちがいなく反乱の陰謀を企てていたことが確認されました。

しかし、ポンチャナック付近には千人も収容する施設はありません。
そのうえ付近海面にはすでに敵潜が出没しています。
つまり、逮捕した犯人を、別な島に送ることができない情況あったのです。
さらに日本軍の警備隊といっても、たかだか百人ほどしかいません。
さらに、逮捕されていないゲリラもあとどのくらいいるかわからない。
いったん反乱が起きれば、むしろ日本側が全滅するのは目に見えています。
そこで司令部は、四月上旬、上杉大尉に彼らの即時処刑を命じました。

その一方、終戦後のボルネオでは、逆に、オランダからの猛烈な離反、独立運動が起こっていました。
オランダにしてみれば、現地人をたらしこんで憎っくき日本を追い出しさえすれば、ボルネオは手に入ると思っていたのに、実際には、そのオランダ人を、ボルネオの人々は排除したがっていたのです。

そこでオランダは、現地人たちの鉾先をそらすために、ボルネオの民衆の前で、
「君たちを苛んだ日本軍を我々が追い出したのだ」
という報復裁判を演出しようと企図しました。
こうして醍醐中将は、戦争終結後一年半も経ってから、ポンチヤナック事件の日本側総責任者として、ポンチヤナック刑務所に収監されたのです。

このポンチヤナック刑務所というのがひどいところでした。
郊外の沼田の中にあり、土地が低いために雨が降ると水びたしになります。
しかも井戸もなく、飲み水はすべて天水です。
貯めた天水には、ボウフラがわいています。
不衛生極まりない悪環境です。
昭和49年になって、上杉大尉と同期だった小説家の豊田穣氏がこの地を訪れているのですが、30年近い時を経由しても、その汚さはまったく変わっていなかったと、著書に書いています。

醍醐中将は、昭和22年2月にこの刑務所に入れられました。
刑務所の周囲には、深さ2メートルほどのドブがあります。
そこは猫の死体などが浮いていて臭気のひどいところでした。

看守は、そのドブさらいを醍醐中将に命じました。
普通、これはありえないことです。
海軍中将といえば、国際的には三ツ星のヴァイス・アドミラルです。
それだけの高官は、世界中どこに行っても敬意をもって迎えられるものです。
けれど、オランダの醍醐中将に対する措置は真逆でした。

醍醐中将は、真っ暗などぶの中にもぐって、メタンガスで窒息しそうになりながら、何時間もかけてドブの掃除をしました。
それだけではなく、毎日、笞で打たれたり、殴られたりしました。
しかし醍醐中将は、最後まで泣き言も愚痴も、ひとことも口にしませんでした。

インドネシア人の看守は、ついに醍醐中将の堂々とした態度に心惹かれてしまいました。
そして、
「自分の権限でできることなら、何でもしてあげるから申し出なさい」
と言ってくれるようになりました。

どのみち報復目的の一方的裁判です。
すべてが書類の上で運ばれ、反対訊問も、証人を呼ぶことも許されず、裁判はわずか三時間で終わりました。
そして10月3日、醍醐中将に死刑の判決が言い渡されました。

死刑の判決が出ると、その後に、助命嘆願書をオランダ総督に提出するのがしきたりです。

嘆願書が却下されてはじめて死刑が確定するのです。
死刑が確定した時、通訳が醍醐中将にそのことを伝えると、醍醐中将は、
「ありがとう。大変お世話になりました。オランダの裁判官の皆さんに、
あなたからよろしく申し上げてください」と静かに言ったそうです。

処刑は民衆の面前で行なわれました。

処刑の模様を、華僑新聞が次のように伝えています。

「醍醐はしっかりと処刑台上に縛りつけられ、身には真っ黒の洋服を着用、頭にはラシャの帽子を被り、目かくし布はなかった。努めて平静の様子だった。刑執行官は希望により歌をうたうことを許したので、彼は国歌を歌った。

その歌調には壮絶なものがあった。歌い終わって彼は天皇陛下万歳を三唱した。それが終わると直ちに12名の射手によって一斉に発砲され、全弾腹部に命中し、体は前に倒れ、鮮血は地に満ちた。」

陸軍の現地軍司令官として同じ獄中に生活し、醍醐中将の四カ月後に処刑された海野馬一陸軍少佐は、醍醐中将の処刑のことを、どうしても日本に伝えたくて、彼が持っていた谷口雅春著「生命の実相」という本の行間に、針穴で次の文を書き綴りました。

これはのちに彼の遺品として日本に返還されています。

そこには、次のように書いてあります。
「十二月五日
昨日、醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。
閣下は平然としておられる。
実に立派なものだ。
1,2日のうちに死んで行く人とは思えぬ位に。
かつて侍従武官までされた人だったのに。

十二月六日
海軍中将侯爵醍醐閣下銃殺さる。
余りに憐れなご最後だったが、
併しご立派な死だった。
国歌を歌い、
陛下の万歳を唱し斃れられた。
その声我が胸に沁む。
天よ、閣下の霊に冥福を垂れ給え。
予と閣下とはバタビア刑務所以来親交あり、
予の病気の時は襦袢まで洗って頂いたこともあり、
閣下は私のお貸しした「生命の実相」を
よくお読みになり、死の前日、そのお礼を申された。
閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。」

東日本大震災の現場でも、たいへんな避難所生活の中で明るくみんなを励ましながら生きておいでの方が、日本にはたくさんいました。
よく「頑張る」と言いますが、日本語のガンバルは、「顔(がん)晴(ば)る」であるといいます。

醍醐中将は、名誉や地位よりも、現場の一兵卒としての道を選ばれた人です。

華族でありながら、普通の日本人と一緒に働く方でした。
誰よりも努力し、潜水艦長、艦隊司令長官にまで出世しました。
本人が謙虚でいても、周囲はちゃんと見ていたのです。

明らかにオランダ側に非があるのに、その責任をとらされ、処刑されました。

泣き言も言わず、ぶたれても、窒息しそうなドブ掃除を任されても、愚痴も言わず、それだけでなく、身近な刑務所の看守たちには、いつも笑顔でやさしく接しました。

君が代を歌い、陛下に万歳を捧げられ、逝かれました。

醍醐中将の生きざまには、まさに日本人としての生きざまがあります。
醍醐中将のご冥福を、心からお祈り申し上げます。

ねずさん

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