「江戸から東京」

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慶応4(1868)年、江戸が東京と改称されました。

改称の理由は、皇居のあるところが「京」であり、その皇居が京都から東の江戸に移ったから、と言われます。

けれどそれならば、むしろ京都が「昔、皇居があったところ」として「西京」、あるいはたとえば「山科京」とでもし、いまの東京を「京」と呼ぶべきです。にもかかわらず、どうして「京」は京であり、江戸が「東京」なのでしょうか。

実は、これには理由があって、意図して日本の都の所在地を京都と東京の二箇所にしたのです。

ですから都は京の都から東京へ「遷都(せんと)」したのではなくて、「奠都(てんと)」といいます。
そしてこのことは、今に至るまで「遷都」と改名されていませんから、いまでも日本の首都は、東京と京都と二箇所にあります。

この考えを提唱したのが、江戸時代中期の経世家(経済学者)の佐藤信淵(さとうのぶひろ)です。
「経済」という用語は、ご存知のようにもともと「経世済民」からきていて、これは支那・東晋の葛洪の著作『抱朴子』の造語です。

いまでは「経済」はすっかりお金のことばかりになりましたが、もともとは、江戸中期の太宰春台『経済録』にあるように、「天下国家を治むるを経済と云い、世を經(おさ)め民を済(すく)ふ」ために行われる経済、政治、社会科学などを包括する学問のことを「経済」、これを教えたり説いたりする人を「経世家」と呼んだわけです。

佐藤信淵は、まさにその「経世家」で、もともとは秋田出身の医者だった人です。

江戸に出て開業医をしたのですが、そのかたわらで国学者の平田篤胤の門人となり、その後、神道家の吉川源十郎と、幕府に無許可で道場開設のための寄付金集めをして江戸所払いとなり、千葉県の船橋に移り住んでいます。

その船橋で書き上げたのが『混同秘策』です。

『混同秘策』は、文政6(1823)年に著した書で、佐藤信淵はこの著書のなかで、西欧による世界的な植民地支配の圧力の前に、我が国は国全体の国防を強化するため、江戸を「東の京」、つまり「東京」とすべし、と論じています。

この論を明治になって採用して大久保利通が決めたのが、いま使われている「東京」という名称です。

この本は最近では、やや意図的に誤訳されて、「世界征服を目論んだとんでもない奇書」というレッテルを貼られていますが、全然違います。

というより、そこまでして日本を破壊したい人たちが隠したかったことが、実はこの『混同秘策』にかかれています。
その冒頭にある言葉です。
いつものねず式で現代語訳してみます。

「日本は皇国であり、大地の最初にできた国である。従って日本には、万国共通の根本がある。日本がその根本を明らかにするとき、
世界はひとつになり、天皇を頂いたシラス世界となる。
謹(つつし)んで神代の古典を拝読してみると、この世の海も山川も、
そのことごとくはイザナキ、スサノオなどの神々によって育まれたものである。我々が万国の安寧を念頭において行動することは、
皇国に生まれた者の要務である」

なるほど読み方によっては、まるで世界征服論です。
しかし佐藤信淵が書いているのは、そういうことではありません。

シラス統治によって育まれた日本的な、庶民の愛と喜びと幸せと美しさが保証された国家の考え方こそが、人類の未来を担うということを書いているのです。

そして日本は、そういう「大切な使命を持った国」なのだから、

「これを護るために都を京の都から江戸に移し、日本の政治機構は江戸、大阪、京都の三箇所とし、そさらに大切な行政機構は、駿河、名古屋、高知、松江、博多、萩、熊本、新潟、青森、仙台など、全国14箇所に分散すべし。
さらに海洋においては、八丈島や小笠原諸島、南沙諸島、西沙諸島方面も
開発して国防に備えよ」

と説いています。
実に立派な、現代でも十分に通用する指摘であり考察であると思います。

佐藤信淵がこの書を世に出したのは、ペリーが来航した嘉永6(1853)年の30年も前のことです。

つまり昨今の左傾化した学者の先生等が「幕末にペリーがやってきて日本人がびっくりして慌てた」という説は嘘だとわかります。

なぜなら佐藤信淵は、欧米列強が南北米大陸、アフリカ、アジア諸国を次々と侵略し、植民地化していく現実を知って、日本の国防がいかにあるべきかを、ペリーの30年も前に語っているからです。

では、幕府がペリーを警戒したのは何故かといえば、ペリーの船が、世界初の水平方向に炸裂弾を発射することができる、当時の世界最先端のペクサン砲という大砲を備えていたからです。

そのような大砲を、木造家屋ばかりの江戸市中に放たれたら、たいへんな事態になります。
だから幕府は、まさに経世済民のために対策に苦慮したのです。

おもしろいのは、この佐藤信淵の『混同秘策』が、佐藤信淵自身が江戸所払いを受けた、いわば罪人でありながら、その思想そのものは幕府もしっかりと学び、それを政治に活かしている点です。

いまの世なら、幕府を逆恨みして、どこかの元理事長のように百万円の札束を持ってウロウロしそうなところですが、当時の日本人の考え方は違います。

学を修め、経世済民を説くものは、たとえその身が官吏によって処罰を受けようとも、どこまでも誠意誠実を貫きとおすというのが、日本男児の基本的価値観です。

吉田松陰や橋本左内、梅田雲兵など、安政の大獄で処刑された志士たちがそうでしたし、東京裁判で処刑されて殉国七士となった東条英機首相や松井石根陸軍大将なども、その心根は同じです。

男子たるもの、何があっても罪を負っても、どこまでも誠意誠実を貫き通すというこの考え方は、かつては須佐之男命の生涯を通じて、少年時代に誰もが学んだ常識です。

佐藤信淵が江戸を追われたのは、上に述べましたように、私塾の建設資金のカンパを募るにあたって幕府の許可無くこれを行った、というものです。

その結果、佐藤信淵は江戸所払いになるのですが、行った先は、江戸のすぐ近くの船橋です。

要するに幕府は、佐藤信淵の行為については処罰を行ったものの、彼の信念や思想信条は認めていたということが、この船橋という土地でわかります。

佐藤信淵は、船橋で、船橋大神宮の宮司にお世話になりながらこの書を著していますが、幕府が佐藤信淵を船橋大神宮に置いたことにも意味があります。

船橋大神宮の御祭神は天照大御神ですが、この神宮はもともと徳川家の大本である源氏の棟梁の八幡太郎義家ゆかりの神宮です。

つまり幕府は、国学者でもある佐藤信淵を、徳川家にとって最大のご先祖である八幡太郎義家に預けた、という形をとっています。
江戸所払いと言いながら、幕府がどれだけ佐藤信淵の能力を買っていたかわかります。

八丈島や小笠原諸島の話が出ましたので、ちょっとだけ脱線します。
小笠原は、寛文10(1670)年、4代将軍徳川家綱の時代に、紀州藩のみかん船が遭難して「名も知れぬ無人島」に漂着したことで発見されています。

そしてその3年後には幕府が島々の調査を行い、各島にそれぞれ、父島、母島、弟島、姉島、妹島などの名前を付けています。
父島には「天照大神、八幡大菩薩、春日明神」を祀った祠と、「此島大日本国之内也」と記した碑も立てられました。

つまり小笠原は日本の領土になっていたのです。

そして小笠原諸島が日本の領土であることは、1727年にドイツ人医師ケンペルが書いた『日本誌』以降、様々な西欧の文物に紹介され、明らかにそこは日本の先占による日本の領土あることが西洋にも知れ渡っていました。

ところが、文政10(1827)年に英国海軍のブロッサム号がやってきて、勝手にそこを英国領であると宣言して、宣言文を刻んだ銅板を木に打ち付けて行ってしまいます。

その3年後の天保元(1830)年には、英国は、小笠原の領有を確実にするため、米英人ら5人と、ハワイ人20人を開拓団として父島に送り込み、そこでやってくる捕鯨船に水や食料、家畜などを販売して生計をたてさせるようにしました。

島は、その後米国が英国から独立したことによって、米国領となり、米国は島を専有して、幕末頃には父島には米国人ら50人が住むようになっていたのです。

つまり小笠原諸島は、米国の領土に飲み込まれていたのです。

これを知った幕府は、文久元(1861)年、外国奉行の水野忠徳(ただのり)を小笠原に派遣しました。

水野の船が港に入ると、島にいた米国人達は星条旗を掲げて、これに対抗しました。水野は、この島々が日本の領有下にあること、欧米人のこれまでの生活は保障すること、今後日本人移民に協力してもらうことを、彼らに話しています。

このときの水野忠徳の真摯な態度は、島にいた米国人らの心を打ちったということが、記録に書かれています。

実は島では、度々米国人などの欧米人の船乗りたちがやってきて、乱暴狼藉を働いていたのです。
島にいた米国人たちは、これにたいへんに困らせられていたのです。
彼らは、積極的に日本に協力することによって、むしろ日本に保護してもらうことを望みました。

その結果、小笠原は、再び日本の領土として再確認されて、現在に至っているわけです。

幕末にペリーがやってきたとき、沖縄ではペリーは乱暴な態度をとっています。

ところがペリーは、小笠原では、ちゃんと賃料を払い、土地も購入し、乱暴な態度も一切とっていません。
なぜなら、そこには、日本を深く愛し信頼し、日本人になることを望んだアメリカ人が住んでいたからです。

さて佐藤信淵は、『混同秘策』の中で、
1 日本は天皇のシラス国であること。
2 安全のため、日本の政治機構は江戸、大阪、京都の三箇所とすべきこと。
3 行政機構は駿河、名古屋、高知、松江、博多、萩、熊本、新潟、青森、仙台など、全国14箇所に分散すべきこと。
を述べています。

日本は外国からの圧力だけでなく、年中、地震や津波、大水、地すべり、火山の噴火など、大規模な自然災害と常に隣り合わせにある国です。

そのことを考えれば、政治経済の東京一極集中がいかに危険なことか。
これは、少し考えれば誰でもわかることです。

ところがわかるのに、しかも明治天皇の東京奠都(てんと)は、どこまでも奠都(天皇の御在所である都を京都と東京の二箇所に置くことで、遷都とは区別される)であって、これは明らかに一国二都制度であるにも関わらず、政治経済の実際の運用は、完全に東京一極集中です。

もしその東京に大地震だけでなく、その余波として、東日本大震災級の大津波が襲ったらどうなるのか。
一瞬にして、日本壊滅です。

他国からの軍事的脅威というだけでなく、日本には自然災害による脅威も、まぎれもない現実です。

そうであれば、「日本の政治機構は江戸、大阪、京都の三箇所とすべし。行政機構は駿河、名古屋、高知、松江、博多、萩、熊本、新潟、青森、仙台など、全国14箇所に分散すべし」という佐藤信淵の主張は、佐藤信淵にくだらないレッテルを貼ることよりも、もっと真面目に真剣に検討すべき課題なのではないかと思います。

ねずさん

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