「尊皇攘夷」

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昨日の記事で、幕末の「尊王攘夷と佐幕を、対立と闘争のマルクス史観で説明することは不可能」ということを書かせていただきました。
少し考えたらわかることですが、薩長は「尊皇攘夷」だったわけです。
その薩長が明治新政府を築いたとき、どうして彼らは鎖国を解いて開国したのでしょうか。

このことについて、明確かつ合理的な説明は、戦後の日本史教育の中ではまったくありません。
また、幕末から明治維新を描いた小説などの作品においても、その答えを明示したものはありません。

けれど、おそらく誰もが不思議に思うはずです。
攘夷というのは、外国人を打ち払うことです。
それがどうして積極的な開国に至ったのでしょうか。
それは、ただ、戦争に負けないようにするためだったのでしょうか。
日本の独立を守るためだったのでしょうか。
それとも、ただの変節でしょうか。

さらにいえば、明治天皇の父である孝明天皇は攘夷派であったといわれています。

ところが息子の明治天皇は開国派です。

これはおかしいから、明治天皇は替え玉だったのではないかなどと言い出す人もいるほどです。

私から見れば、まったく日本をわかっていない、まさに「群盲像を撫づ」の域の低次元な発想としかいいようがありません。

昨日も書きましたが、歴史というのは、史実とは異なります。
個々の史実のつながりを合理的に説明するのが歴史です。

そしてその歴史が正しい歴史認識であるかどうかは、その歴史認識によって歴史を再現できるかどうかにかかっています。
間違った歴史認識では、歴史の再現が不可能だからです。

早い話、南京大虐殺や半島の慰安婦問題などが、その再現不可能な誤った歴史認識の典型です。

もし南京で25万人の大虐殺が行われたとするならば、南京市の当時の人口がすくなくとも25万人以上いなければなりません。けれど実際には20万人程度です。では+5万人は、誰を殺したのでしょうか。

慰安婦も同じです。

日本軍が20万人の年頃の女性を強制連行したというのなら、当時の朝鮮半島の人口は、いったい何人だったのでしょうか。

同級生の10人にひとりが目の前で性奴隷として強制連行されて、あの火病という特技を持つ半島の男性たちは、それをただ黙って見ていただけだとでもいうのでしょうか。

さて、幕末明治維新に話を戻します。
実は、江戸中期の国学から、幕末の尊皇攘夷、明治の開国、昭和の大アジア主義まで、実はすべては一本の糸でちゃんとつながっているのです。

江戸の中期に、光格天皇という天皇がおいでになりました。
「光の格に匹敵する天皇」という御名を持つ天皇です。

どれだけ偉大な天皇として、当時の人々から尊敬されたかということですが、ではなぜ、そこまで尊敬された天皇であったのかというと、実は当時の幕府は恥ずかしながら、内部の政争がたいへんだったのです。
いまの時代と似ています。

森友だ、加計だと、九州で大水害が発生しても、まだそんな議論ばかりしている。

そもそも国会で取り上げるまでもない地方行政の問題を、ただ政争の道具にしているわけです。

実は、江戸時代も中期になり、江戸幕府の政権が安定してくると、その安定した政権の内部で、様々な出世争いが起こっていたわけです。いまとよく似た時代であったわけです。

そのような折に、京の都で大火災がありました。
京都中がほとんど燃えてしまうという大事件で、火災後、都の人々は食べるものなく、餓死者が相次ぐという情況になりました。

ところが江戸は大火になったわけではない。
だから江戸城内では、京都の大火ほったらかしで、内部内輪揉めに明け暮れていたわけです。

そんな情況に心をくだかれた光格天皇は、幕府にお蔵米の供出を命じました。

お蔵米の供出というのは、政治です。
そして天皇が政治に口を出してはいけないというのは、我が国の古来からの伝統です。

なぜならそれをしたら、天皇が最高権力者になってしまうからです。

国の頂点が最高権力者なら、その最高権力者の政治責任は誰も追求できません。

そうなると、国は、責任を負わない権力者が統治をすることになります。
そして、国の頂点が権力者なら、下にいる民百姓(たみひゃくしょう)は、権力下の隷民です。

そして隷民というのは、権力者のただの所有物です。
物と同じですから、殺されても奪われても誰も文句をいえません。
それが世界の統治です。

ところが日本は、その最高権力者の上に天皇をおいたのです。
天皇は政治権力を持ちません。

その政治権力よりもさらに上位の、神々に連なる国家最高の権威です。
そしてその最高権威が、民百姓を「おほみたから」とする。
そうなると、民百姓は天皇の「たから」ですから、天皇に親任された権力者は、民百姓を私有できません。

なぜなら、民百姓は、自分たちよりも上位の天皇の「たから」だからです。
これによって、民百姓が、権力からの自由を実現してきたのが、日本という国の国柄です。

ところが、あまりの都の窮状に、光格天皇は幕府にお蔵米の供出を命じたわけです。

これは「禁中並公家諸法度」からも禁止行為です。
結果として、幕府は緊急拠出として、お蔵米1500俵を京の都に提供しました。

これによって、焼け出された京の都の人々は、なんとか命をつなぐことができたのです。

しかし、国政を担う政治権力者が、内部の権力闘争や出世競争ばかりにうつつをぬかしているようでは、安定した政治は実現できません。
取り返さなければならないことは、長い年月の間に常識化形式化し、忘れ去れれた我が国の統治の本質を、再び、「なぜそうなのか」という理由を明確にして学びなおすこと、それこそが当時の時代における喫緊の課題となりました。

この時代の主流となっていた学問は、儒学です。
儒学が良い悪いではなく、我が国にには我が国の歴史文化伝統があります。

このことも、現代とよく似ています。
西欧の○○主義と呼ばれる「イズム」や、共産主義による対立と階級闘争の思想に、GHQの反日思想などがあふれ、日本の古くからの歴史伝統文化に裏打ちされた我が国のかたちや、そのことのもたらす意味を、誰もが忘れてしまっている。

ご飯を食べるときに、私たちは「いただきます」と両手を合わせて頭を下げますが、それがどうして頭を下げるのかわからない。

あるいはテレビの御皇室に関する討論会では、保守派と呼ばれる著名人が、「俺はどうして天皇に敬語を使わなきゃならないのかわかんねえんだよ」などと公然とのたまう始末です。

そこで光格天皇がお考えになられたことが、皇族や貴族のための大学をつくることでした。

我が国の歴史伝統文化を見直し、祖先が築こうとした日本の姿を学問的に明らかにするとともに、その学習をする。
そのための大学です。

しかし、天皇には、そうしたことを実行に移す権限がありません。
なぜならそれを天皇自らが行えば、天皇の権力行使にあたるからです。

そこで光格天皇が行われたことが天皇の御位の「譲位」です。
実は、今上陛下は2007年に、この光格天皇の事績と譲位についての調査をご近習の方にお命じになられています。

こうして光格天皇は、譲位によって太上天皇(上皇)となられます。
これが我が国で行われた最後の譲位と上皇への就任です。

上皇となられた光格上皇は、京都に大学を築きました。
それが「学習院」です。

これはいまの東京にある「学習院大学」とは違って(東京の学習院は明治になってから設置されたものです)、公家と皇族専科大学として設置されましたが、実は生徒は幅広く諸藩からも入学者が集まりました。

そしてこの大学の設置にあたり、スポンサーとなったのが、徳川御三家の水戸徳川家です。

水戸徳川家は、ご存知天下の副将軍水戸光圀公、通称水戸黄門様のお家柄です。

そして水戸黄門様の時代から、なんとかして国学の普及促進のためにと、努力を重ねてきた歴史を持ちます。
その水戸徳川家が中心となり、この学習院の設立が、光格上皇のもとで行われました。

ちなみに上皇は天皇と異なります。
天皇は神にお仕えする大神官ですから政治権力を揮うことはできませんが、上皇にはそのような決まりはありません。

ですから光格天皇は、自ら天皇位を譲位して上皇となられることで、大学建設を実現されたわけです。

この京都学習院を中心に、儒学とは異なる国学運動が全国的に盛んに起こるようになっていきました。

そして幕末の嘉永六年に起きた事件が黒船来航です。

この時代、欧米列強諸国によって、世界中の有色民族が、民族ごと隷民化され、収奪され、人としてさえも認められないという情況になっていることは、当時の武士や商人たちの間では常識となっていました。

日本は、そのような諸国と関わりになりたくないから、ずっと鎖国を通してきました。
ですから外国船がやってきても、すべて簡単に追い払ってきたのです。

ところがペリーの乗った黒船は、なんと当時にあって世界最新式のペクサン砲という大砲を搭載した軍艦でした。
これは強力な炸裂弾を水平に発射できるという大砲で、そのようなものを江戸の市中に撃ち込まれたら、木造家屋の江戸市中は、大火事になります。

そこでやむなく、幕府は日米和親条約を締結するのですが、そのすぐ後から、日本国内の金(Gold)がアメリカに流出を始めます。

目の前で、日本の富がまるでダンプカーで排出するように、外国に持ち出されて行くのです。
おかげで日本国内にはたいへんな不況が襲います。

日本において政治は、太政大臣が行おうと、将軍が行おうと、総理大臣が行おうと、どのような場合にあっても、天皇の民である一般の庶民が、豊かに安心して安全に幸せに暮らせるようにしていくことが政治です。
それが国学の立場です。

だから黒船以降、特に水戸徳川家を中心に「尊王攘夷運動」が起こりました。

「尊王」というのは、我が国は天皇のもとにあるという思想であり、歴史的伝統です。
「攘夷」は、民衆を隷民化しようとする者を追い払えという思想です。
従って「尊皇攘夷」は、天皇のもとにある民百姓の安全と安心と幸せを護るために、それを阻害する者を打ち払えという思想です。

そしてそのために、我が国がどのような体制を採ったら良いのかというテクニックとして、佐幕派と、公武合体派が生まれました。

つまり、尊皇攘夷という民の自由を守る思想が根底にあり、そのための具体的な国の体制論として、佐幕や公武合体論などが生まれていったわけです。

尊王は誰もが認めるところです。
しかしそのために国のかたちをどうするかは、政治上の争いになります。
そしてこのことに、最も反応したのが、水戸徳川家でした。

国学を学んできた水戸藩の若い武士たちは、その純粋さ故に天狗党として決起しています。
これが「天狗党の乱」で、筑波山に1500名ほどの武士たちが篭りました。

しかしこれは幕府の知るところとなり、天狗党は解散を命ぜられ、さらに首謀者たち325名が打ち首の刑にあっています。

いまの歴史教育では、この天狗党の乱はほとんど教えられず、なぜか安政の大獄ばかりが強調されますが、安政の大獄で処刑されたのは、わずか8人です。

天狗党とは比べ物にならない小さな事件だったのです。

ところがこの天狗党の乱が教えられない。
何故かと言うと、天狗党の乱が出てくると、尊王攘夷派と佐幕派の対立と闘争という歴史認識が構成できなくなるからです。

しかし乱は現実にあったことです。
ということは、現代の歴史認識は、どこか大きな過ちを犯しているということです。

では、どういうことだったのかというと、光格上皇以来、尊王こそが我が国の国是であるということが、すでにこの時代常識化していたということなのです。

だからこそ徳川御三家の一角である水戸徳川家から、尊皇攘夷が旗揚げされているのです。
そしてここでいう「攘夷」というのは、支配によって民に隷属を求める欧米列強に対して、いかに我が国の民の自由を、人として、大御心によって「たから」として得られている幸せをどこまでも守り抜こうという動きであったわけです。

そしてそのためには、欧米列強の強さの原因を知り、むしろそれを積極的に採り入れることによって、我が国の国是を守り抜く、そのことを実現するために公武合体で行くのか、現体制のままで行くのかという政争が起きたわけです。

結局、幕末動乱の後に、公武合体ではなく、神武創業に還るという明治新政府が誕生しました。

その立役者となった薩長は、もちろん尊王攘夷派です。
そして攘夷派であるからこそ、外国の強さを学び、その強さを取り入れようとしました。

なぜか。
我が国における「おほみたから」としての民を守るためです。
つまり、それが尊王思想です。

この思想が明治に入って大躍進して、我が国だけではなく、欧米列強によって支配され隷属されているアジアの有色人種全体にまで広げていこうとして発展したのが、頭山満の玄洋社などが提唱していた「大アジア主義」です。

大アジア主義というのは、大東亜主義とは異なります。

ヨーロッパにおいて、アジアというのはもともと、いまでいう中東のあたりのことをいいました。

それが、いつの間にかユーラシア大陸全体の地域を指す名称となっていったのですが、その意味でのアジア、つまりエジプトから中東、インド、東南アジア諸国、China、Koreaを含む広大な地域において、虐げられ隷民化されていた有色人種全体が、人としての人格権を得て欧米諸国の白人と対等な関係を築いていくこと、つまり人種平等論そのものですが、それをまずは、ユーラシアからスタートして行こうというのが、「大アジア主義」です。

さらにこれを東亜地域だけに絞ったものが、大東亜主義です。

そしてこの思想もまた、根底にあるのは光格天皇以来の尊皇の国学思想です。

つまり我が国では、民が「おほみたから」とされる体制、民衆が肌の色などによって差別されなず、誰もが平等に人権を得て、愛と喜びと幸せと美しさの実現に向けて努力していくことができる世の中を、守り育むことが、日本人の本質であり、日本人としての生き方であるという考え方が、国家の主軸となる考え方であったのです。

現代人の私達日本人は、そうした過去の思想の系譜をすっかり忘れてしまっています。

ところが忘れてしまっているはずなのに、行動は、ほとんどの日本人が、その思想のもとで行動しています。

それがなぜかといえば、我が国が民をこそ「おほみたから」としてきたその体制と思想は、上古の昔どころか、それ以前の時代からずっと続く最古の国家としての国是であったからです。
骨髄に染み込んでいるのです。

ですから逆に言えば、その骨髄に染み込んだ日本人としてのDNAにあるものを、理論的にしっかりと再認識していくこと、私達日本人が、どこまでも愛と喜びと幸せと美しさを希求し、互いを「おほみたから」として尊敬しあう心を持っていること、そのことを私達自身がしっかりと再認識し、さらにそれを堂々と世界に向けて発信していくことができる日本人になっていくことこそが、いま、もっとも求められている大切なことなのではないかと思います。

ねずさん

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