「恩を尊ぶのが日本人」

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恩を尊ぶのが日本人利家とまつの娘が取り持つ八丈島と金沢の縁

大河ドラマでも有名となった前田利家とまつ夫妻。その娘である豪姫が、豊臣秀吉夫妻のもとで養女として育てられたのもまた広く知られています。今回の無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、この豪姫と夫の宇喜多秀家との間の感動的なエピソードとともに、恩を尊ぶ日本人の美しさが紹介されています。

【歴史秘話】かくも切ない夫婦愛

戦国武将・宇喜多秀家とその妻・豪姫。本日は二人にまつわる話をご紹介します。
「博多の歴女」こと白駒妃登美さんの語りをとおして人間の中に眠る美しい心が感動と共に伝わってきます。

宇喜多秀家とその妻・豪姫

戦国武将・宇喜多秀家とその妻・豪姫。日本史上、ひときわ輝く夫婦の物語です。

前田利家とまつ夫妻の四女・豪姫は、子のなかった豊臣秀吉とねね夫妻のもとで、養女として大切に育てられました。一方、宇喜多秀家は10歳で父・直家を病で失うと、後を託された秀吉の手で立派な武将に育て上げられます。二人にとって秀吉は育ての親であるとともに、結婚をとりもってくれた恩人でもあったのです。

その秀吉が死ぬ間際のこと。側室の淀殿との間で晩年にもうけた秀頼の行く末を案じた秀吉は、豊臣政権を支える五大老を枕元に呼びます。そこには徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝ら重鎮が居並ぶ中、ただ一人、二十代の宇喜多秀家の姿もありました。

「返す返すも頼みまいらせ候」

と何度も頼む秀吉を目の当たりにして、今度は自分が秀頼様をお守りする番だと、秀家は心に誓ったことでしょう。

それから二年後の慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦においても、秀家は何の迷いもなく石田三成率いる西軍につくと、その中軸として約6時間に及ぶ合戦を戦い抜くのです。

しかし秀吉への恩返しを誓った秀家の奮闘虚しく、相次ぐ裏切りの末に西軍は敗北。敗軍の将となった宇喜多秀家に科されたのは、八丈島への流罪でした。

豪姫は夫とともに八丈島に渡ることを切望しますが、許されません。当時は夫婦が何らかの理由で別れて暮らす場合、息子は父方に、娘は母方に引き取られるのが常でした。そのため豪姫は娘とともに前田家へ、二人の息子は秀家に伴われて八丈島へと向かったのです。

豪姫の肖像画の「額の辺り」が消えかけている理由

自然環境の厳しい八丈島での暮らしは、秀家にとって苦難の連続でした。そんな秀家を何とか助けたいと願った豪姫は、前田家を通じて幕府の許可を得ると、毎年のように米や金子、衣類、雑貨、医薬品などを仕送りしたのです。

ある時豪姫は、絵師に描かせた自分の肖像画を荷物の中に紛れ込ませ、八丈島に送りました。その肖像画はいまも秀家の子孫がお持ちだそうですが、その肖像画の写しが、豪姫の菩提寺である大蓮寺(石川県金沢市)にあります。

色使いも含めて実に綺麗に描かれているのですが、よく見ると額の辺りだけ色が薄く、消えかけているのが分かります。これは八丈島に流されたまだ幼い息子たちが、毎日のように涙を流しながら「母上、母上……」と額の辺りを撫でていたためにそうなったのです。

若くして秀家と離れ離れとなった豪姫でしたが、その後は再婚話をすべて断り、金沢で61年の生涯を閉じました。いつかまた愛する家族と一緒に暮らしたいという豪姫の祈りは、残念ながら天に届くことはありませんでした。

もっとも、彼女のもう一つの祈りを天は聞き届けてくれたようです。来る日も来る日も家族の無事を祈った豪姫。彼女が亡くなった時、八丈島に流された三人はまだ健在だったのです。それどころか人生50年といわれていた時代に、秀家は八丈島で49年生き長らえ、83歳で生涯を閉じました。

きっと人の思いというのは時空を超えて、相手に届くのでしょう。

その後、八丈島に住む宇喜多家への仕送りは、加賀藩によって途切れることなく幕末まで続けられました。しかも新政府によって罪を解かれた宇喜多一族を船で迎えに行き、東京に住む家を用意して、生活の面倒までみたというのです。

八丈島の住人が今も金沢の大蓮寺を訪れる理由

秀家と豪姫の時代から既に400年余りが経ちましたが、いまも大蓮寺にある豪姫の肖像画に「あの時はありがとうございます」と手を合わせに来る八丈島の人がいるといいます。

「あの時」というのは、八丈島が飢饉に見舞われた時のことで、秀家は豪姫からの仕送りを、惜しげもなく飢えに苦しむ島民たちに分け与えていたのです。

秀家と豪姫から受けた恩を400年にわたって語り継ぐとともに、500キロ離れたお寺までお参りに訪れる島民たち。私はその姿に、恩を尊ぶ日本人の美しさが見事に表れていると思うのです。

MAG2

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