「武士と日本刀」

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日本刀が武士の魂と呼ばれるようになったのは、江戸時代、国内から戦(いくさ)がなくなってからのことだと言われています。

それまでは、刀は護身用の武器のひとつにすぎないと考えられていました。ですから戦国武者たちは、槍や大薙刀(おおなぎなた)を携行しましたし、宮本武蔵が鎖鎌(くさりがま)と対決した話も有名です。

実は、攻撃用の武器としては、刀より弓、あるいは槍や薙刀、鎖鎌の方が有利だといわれています。
あの宮本武蔵ですら、宝蔵院流の槍に苦戦したのは有名な話ですが、大奥のお女中などが習った薙刀(なぎなた)は、男性よりも非力な女性でも軽く大男を打ち負かすことができました。

六尺棒を使った棒術も強いです。

棒は、江戸時代には奉行所の捕物方が用いましたが、刺叉(さすまた)のような残酷さのないただの棒でありながら、修行した者の手にかかると、まるで孫悟空の如意棒さながらに伸び縮みするし、棒の端から端まで全部が武器になります。

赤鬼青鬼が持っているような鉄棒よりも、はるかに軽くて扱いやすく、しかも樫の木を使った棒は、めったなことで折れません。

剣術三段上といって、柔術や空手などの素手の戦いの有段者が、剣術使いと平手で戦う時は、剣道二段の相手なら、柔道や空手は五段くらいの有段者でないと互角に戦えないといわれました。

ところがその剣道も、棒術や薙刀と戦う時は、二段上でないと勝負にならないといわれたのだそうです。

ところが江戸期には、刀こそが「武士の魂」といわれました。
実は、ここに、いかにも日本人らしい道徳観が隠れています。

そしてこの伝統が昭和にまで引き継がれ、将校は「軍刀」を携行しました。

戦闘機乗りは、飛行機の計器を狂わせる可能性すらあったのに、軍刀を持って飛行機に乗り込んでいます。

戦うための武器というなら、刀より銃のほうが断然有利です。
銃がそれほど普及していなかった時代でも、刀より、槍や薙刀の方が、断然有利です。
にも関わらず日本の武士は、刀をこそ魂としたのです。

昭和の軍人も同じです。

日本人にとっての軍刀は、西洋の儀仗兵の持つ儀礼用のサーベルと違い、どこまでも武人の魂と考えられたのです。
もっというなら、玉砕の戦場では、将校が最期の突撃するときは、軍服に着けた階級章を外し、一兵卒として、軍刀を抜いて敵の機関銃の前に突撃して行きました。

なぜでしょう?
どうして刀が武士の魂であり、最期の突撃は抜刀だったのでしょう。

理由は、武士の武士たる由縁にあります。
武士は、そもそも人を殺す職業です。
しかし人は「心」で生きるものです。

人を殺して心が痛まないのは、人ではありません。
それは、平時であっても戦場であっても同じことです。

親は子を叱って叩きます。
叩かれた子も痛いけれど、叩いた親も心が泣いています。
子を叩いて心が泣かないなら、それは親でもなく、人でさえありません。
これと同じです。

武士は、この世におけるウシハク存在です。

世の不正を正し、正義正道を貫くために、必要に応じて人を斬ります。
しかし、人を斬るという権力を持つということは、同時に、その責任を負うということです。

ですから、武士は腰に大小二本の刀を差しました。

大刀は、非道を正すために相手を斬るのに用います。

そして、たとえどんな事情があれ、人を斬ったら、自らもその責任をとって腹を切る、そのために脇差しを差しています。
江戸城内に昇る時は、大名、お殿様であって、武士は大刀は預け、脇差しのみを腰に差しました。

城内で人を斬る必要はありません。
けれど、そこは政治の場です。
政治は世間に対して権力を及ぼすものです。
従って、それを行う者には、常に責任が伴います。
殿中の武士たちが、脇差しだけを差していたのは、
「いつでも責任をもって腹を切る覚悟と意思の表明」です。

「政(まつりごと)」は、「正」しきを「行う」と書きます。
つまり「政」は、大刀そのものです。

ですから政治を担う者は、政という大刀をすでに携行しています。
だからこそ、登城する武士たちは、責任をとる脇差しを城内で常に腰に携帯したのです。

その意味で私は、少し極端なことを言えば、国会議員は、脇差しを差して議事堂に臨むべきです。

もちろん、脇差しであっても、殺傷力はあります。
国会議員で不埒な行いや、いたずらに政争を行うものは、容赦なく切り捨て御免にすべきですし、事業仕分けなどで結果として国民に迷惑をかけた国会議員は、その脇差しで腹を斬るべきです。

このことは、行政官僚も同じです。
省庁の課長以上は、脇差しを携行すべき・・・かもしれません。

江戸時代までの日本では、政治には、常にそれだけの覚悟が求められたし、それがあたりまえとされたのです。

なぜなら、武士たちは、天子様から、その天子様の「おほみたから」を預かる立場です。
その責任を負うのは、あまりにもあたりまえなことです。
要するにこれは、武士の責任こそが、武士の魂である、ということです。

ですから「武士の魂」というのは、刀そのものが魂なのではなく、そこに込められた「まつりごと」を行う者の覚悟です。

そういうことがわからない外国人が時代劇をつくると、庶民が武士の刀をまたいだといって、武士が「ワシの魂をまたぐとは何事か」といって、斬り捨て御免で庶民を斬ったなどという、デタラメを芝居にします。

ところがちゃんとした教育によって、その意味を教えられてこなかった戦後世代は、それに対して「あなたの国ではそうだったかもしれないけれど、日本の武士道は、違うのですよ」ということが言えない。

言えないから、そのまま引きずられて、そのような不埒な時代劇がつくられてしまいます。

昭和の軍人も、将校は軍刀を携行しました。

そして玉砕戦の最期になったときは、将校はその軍刀で腹を斬るか、抜刀して突撃を行って散っていきました。
抜刀して敵陣に突っ込むときは、階級章も外しました。
なぜかといえば、軍人は国家の機能です。
撃てと命令されれば撃つのが軍人です。
機能ですから、そこに人としての心はありません。
あるのは、ただ、勝つか負けるかの非常な世界です。

けれど、もうこれで最期となったときは、機能に徹して生きた軍人であっても、人の命を大切に思う、心の痛みを知る人間として死んでいきたい。
そう思うから、階級章をはずし、一緒に戦ってくれた部下たちとともに、軍刀を抜いて突撃したのです。

こうしたことは、ただ勝ちたいだけの相手にはわかりません。
だから日本兵の突貫攻撃に、ただ恐怖してあたり構わず機関銃を撃ってきます。

それは彼らがどこまでも、彼らが心のない機能としての「兵」だからです。

しかし「兵」である前に、私たちは「人」です。
無差別に人を殺す機能ではなく、心を持ち、人の痛みを知る人間です。
だから、階級章をはずし、軍刀で突撃したのです。

日本人としての誇りを持つということは、究極的には「心をもった人として生きること」なのだと思います。

やみくもに人を攻撃して個人的な満足を得るというのは、心のある人の行いではありません。

その矜持(きょうじ)を常に持ち、心は常在戦場にあるというのが、日本男児の戦慄する生き方なのではないかと思います。

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