「日本史の中の世界一」

画像の説明
日本列島は世界の陸地面積のわずか0.2%、それもユーラシア大陸の片隅だ。そこに住んでいる日本人は世界人口の約1.7%に過ぎない。

それなのに、なぜこんなに世界一が沢山あるのか。これが『日本史の中の世界一』を読んで、まず感じた疑問であった。

この本には世界最古の土器から戦後の高度成長まで、世界一と言える日本の事跡が50も紹介されている。それも単にそれらを並べただけではなく、美術史の世界的大家・田中英道・東北大学名誉教授が編集し、各分野での著名な専門家がその背景に至るまで具体的に説明しているので、それらを生み出した国柄に関する卓越した日本論となっている。

その国柄の一つとして、特に目立つのは、天才な個人が現れて世界一を作り出したというよりも(もちろんそのような事例もあるが)、多くの国民が参加してその力を寄せ集めてなし遂げた事例が非常に多い、ということである。

式年遷宮というシステムの独創性

たとえば伊勢の神宮の20年ごとの式年遷宮。各神殿が二つ並んだ敷地を持ち、ひとつの神殿が20年経って古びた頃、隣の敷地に全く新しい神殿が建てられて、神はそちらに遷られる。第一回の式年遷宮は持統天皇4(690)年に行われたが、その時点では、世界最古の木造建築物として今も残る法隆寺は建立されていた。

そのような高度な建築技術を持っていたにもかかわらず、飛鳥時代の先人たちは、その「最先端」の技術を、伊勢神宮の建築には用いていない。
 
その代わりに、すぐに朽ち果てる弥生時代の倉庫さながらの神殿を、20年ごとに建て替えるという「神殿のリメイク・システム」を考案したのである。

このシステムにより、神宮は古びることなく、1,300年以上も後の現代においても真新しいままでいる。

この式年遷宮というシステムの独創性に、私は驚くほかない。しかし、そのシステムが、はるか1,300年の時を超え、21世紀の今日まで「生きている」ことは、さらなる驚きである。世界史上、このような信仰に基づく、このようなシステムが、このように長く続いている例は他にない。
(同上)
さらに驚くべきは、この建て替えが内宮と外宮という二つの「正宮」だけでなく、14の別宮と、109の摂社、末社、所管社、すなわち合計125の神社すべてで行われる、ということである。しかも建物だけでなく、「御装束」(神様の衣服)や「御神宝」(お使いになる道具)も約800種、2,500点をすべて2千数百人の職人が長い歳月をかけて作り直す。

無数の力がひとつになって成し遂げた「偉業」
無数の多くの代々の国民が、力を合わせて続けてきた

御遷宮には1万本以上のヒノキが使われるが、それらは木曽地方などの神宮備林で育てられる。樹齢2、300年の用材を大量に育てるための人々がおり、用材を切り出す際には神事が行われる。

切り出された用材は直径1メートル近く、長さ数メートルのものもある。それらを奉曳車に乗せて、長さ100~500mの綱を200~5,000名の曳き手が掛け声に従って引く「御木曳(おきびき)」という行事もある。

平成18(2006)年から翌年にかけて行われた第62回御遷宮の御木曳行事には一日神領民という希望者が約7万7,000人も参加した。筆者は沿道でその行事を見学したが、日本全国から集まった人々が、地域ごとに揃いの法被(はっぴ)を着て、いかにも楽しそうに掛け声に合わせて綱を引っ張っていた。

この第62回目御遷宮の総費用は550億円という。神宮を参拝した人々のお賽銭や、篤志家・企業などからの寄付、さらには全国の神社での神宮大麻(おふだ)の販売などによってまかなわれている。いわば国民の多くが御遷宮を支えているとも言えるのである。

このような大規模な御遷宮が過去1,300年以上、62回も続けられてきたという事は驚くべき事実である。御遷宮は「続いてきた」のではない。我が先人たち、それも無数の代々の国民が力を合わせて「続けてきた」のである。その努力こそ世界唯一というべきであろう。

のべ260万余人が参加した奈良の大仏建立

国民参加という点では、天平勝宝4(752)年に完成した世界最大のブロンズ像・奈良の大仏も同様である。大仏建立を志された聖武天皇は詔(みことのり)を出されて、「生きとし生けるものがことごとく栄えることを望む」と語られた。しかし、単に国家権力をもって人民を使役したのでは、その志は果たせない。

ただ徒らに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしり(悪くいうこと)を生じて、かえって罪に陥ることを恐れる。…国・郡などの役人はこの造仏のために、人民の暮らしを侵(おか)し、乱したり、無理に物資を取りたてたりすることがあってはならぬ。
(同上)

この詔は現実の政策によって実行された。造仏に従事した木工、仏師、銅工、鉄工などの技術者ばかりでなく、人夫、雑役夫などの雇人にも、賃金と食米が支給された。現場の重労働に従事する工人には、一日約8合の玄米が炊かれ、塩・味噌・醤油・酢・海藻・漬物・野菜・木の実等が副食として出された。

工事に従事した延べ人数は、金知識(鋳造関係の技術者)が37万2,075人、役夫(えきふ)が51万4,902人、材木知識が5万1,590人、役夫が166万5,071人と合計260万余人。当時の日本の推定人口は約500万人だから、そのかなりの割合の国民が参加したわけである。

事業に参加する人々には賃金や食事を支給するばかりでは無い。聖武天皇は一人ひとりがこの事業の趣旨をよく理解し、それに主体的に参加することを期待された。詔にはこうも言われている。

もし更に人の一枝の草、一把(ひとにぎり)の土を持って、像を助け造らんことを情願(ねがう)あらば、恣(まま)にこれを許せ。
 
もし人民が寄進したいというのであれば、どんなにわずかの寄進でもよろこんで受けよう。わたしは国民とともにこの大事業をなしとげたいからだ。

『日本の歴史文庫3 奈良の都』虎尾俊哉・著/講談社
大仏の建立に参加した一般人民は国家権力者に使役された奴隷だったと考えるのは過ちである。またこれらの人々がすべて賃金や食事目当てだった、と考えるのも表面的に見える。ちょうど現代の御遷宮に多くの国民がボランティア参加しているように、当時の人々は聖武天皇が国民全体の幸福を祈って発願された事業に参加できる誇りと喜びを感じていたのではないか。

「百姓は、みずから進んで、老人を扶け、幼児を携えて」
多くの国民が喜んで国家的巨大事業に参画するというのは、仁徳天皇陵の築造においても見られたようだ。

この「前方後円墳」と呼ばれる古墳は、全長が486メートル、円の部分は高さ34メートルもある。取り囲む二重の濠まで含めた総面積は34万5,480平方メートルであり、秦の始皇帝の底面積11万5,600平方メートルの三倍、エジプト最大のクフ王の大ピラミッドの底面積5万2,900平方メートルの六倍以上だ。大きさだけでなく、その全体の形態は中国にも朝鮮にも前例のない美しい形態である。

(『日本史の中の世界一』田中英道・編集/育鵬社)

ある試算によれば、これだけの土を更地に盛り上げるためには10トンのダンプカーで25万台分の運搬が必要であり、これを全て人力で行うためには延べ680万人が必要という。

仁徳天皇は「民のかまど」の逸話で日本書紀などに聖帝として描かれている。高台から国を望まれて、かまどから煙が見えないことから、民が不作で窮乏しているのであろうと考えられ、税を免じた。宮殿の茅葦屋根が破れても修理させず、風雨で衣服が濡れる有様だった。6年の後、ようやく天皇が宮殿修理の許可を出されると…

百姓は、みずから進んで、老人を扶け、幼児を携えて、材料を運び、簣(こ)を背負って、昼夜を問わずに、力を尽くして競いつくった。従って、あまり日数がかからないで、宮室がことごとく完成した。そこでいまに至るまで、聖帝とたたえ申し上げるのである。
(同上)

仁徳天皇が崩御された際も、多くの民が天皇の聖徳を偲んで、このような形で力を合わせて陵を造営したものと想像しうる。

なぜ江戸時代の教育水準は、あれほどまでに高かったのか?
国民による国民のための詩集

多くの国民が参加して偉業を成し遂げるというのは、巨大建造物に限らない。世界最古、最大の選詩集『万葉集』もその一つである。4,516首という規模で世界最大であり、かつ、7~8世紀の歌を集めている。

規模や古さだけではなく、万葉集が特徴的なのは天皇から庶民ままでほとんどあらゆる階層を含んでいることである。
アメリカの文学史家、ドナルド・キーン氏は…天皇の国見の歌から、恋の歌、生活の歌まで、その題材の豊富なことは、詩集として世界でも稀なことであると述べている。
 
作者も宮宮廷の詩人だけでなく、防人(さきもり)の歌や東人の歌、農民、遊行女婦、乞食まで多様な階層の歌が選ばれているのである。いかに階層に対する偏見がないか、また平等な世界であったかがよくわかる。
(同上)

西洋や中国の詩集が専門歌人の作品を集めているのに対し、万葉集は、多くの国民がそれぞれの思いを詠んだ詩歌を集めた、まさに国民による国民のための詩集であった。この和歌の伝統は、現代の日本でも皇室を中心に中学生から老人まで数万の短歌を集める「歌会始め」に連なっている。

国を挙げて取り組んだ教育水準の向上

幅広い国民参加による世界レベルの偉業達成というパターンは近現代でも続いている。江戸時代の教育水準の高さはその一つである。
トロイの遺跡発掘で有名なドイツの考古学者シュリーマン(1822~1890)は、トロイ発掘の6年前の1865年に旅行者として日本を訪れ、1カ月の間、江戸、横浜などに滞在しているが、「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。
 
中国をも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と旅行記のなかで書いている。
(同上)

この世界一の教育水準は、日本各地に無数に設置された藩校、私塾、寺子屋によって達成された。藩校の最初は、元禄10(1697)年に米沢藩が設立した興譲館だが、その後、全国に広がり、幕末までに約260のすべての藩が、規模や形態の差はあれ、藩校を設置している。

私塾は寛文2(1662)年に、伊藤仁斎が京都に古義堂を開設して以来、様々な専門分野で広がり、幕末には全国で1,500もあったといわれている。

寺子屋は農民や町民の子供たちにお坊さんや神主、町のご隠居や武士などが教えていた。幕末には全国で1万から1万5,000もあった。現代日本の小学校数約2万に匹敵する規模の初等教育が行われていたことになる。

藩校を運営した各藩主から、私塾を経営した各分野の専門学者、さらには寺子屋で教えるご隠居さんまで、国民の各層がそれぞれに人づくりの志を持って取り組んだ結果が、世界一の教育水準なのである。

「何事か成らざらん」に込められた深い意味
「何事か成らざらん(できない事などあろうか)」

『日本史のなかの世界一』には、このほかにも「江戸時代、268年間の安寧」「日本の花火の豪華さ美しさ」「パーフエクト・ゲームとなった日本海海戦」「戦後日本、奇跡の復興と高度経済成長」「自然環境との調和、森林の保存の歴史」と、興味深い世界一が次々と紹介されていくが、これらも無数の国民が力を合わせて実現したものである。

その最後を飾るのが「世界最長の王朝、万世一系の天皇」で、皇室が2,000年以上も続いてきたこと自体が世界史の奇跡なのだが、その陰にあって皇室を支えてきた無数の先人たちがいたことを忘れてはならない。

「和をもって尊しとす」とは、聖徳太子の17条憲法の第一条冒頭の一節だが、これは単に「仲良くしなさい」という意味ではない。第一条は、上下和睦して事を議論する時は、物事の道理が自ずから通うので、「何事か成らざらん(できない事などあろうか)」という強い信念で結ばれている。

世界の陸地面積の0.2%でしかない日本列島に住む、世界人口のわずか約1.7%の日本人が、これだけの世界一を成し遂げたことを見れば、人々の「和」によって「できない事などあろうか」と断言された太子の確信の正しさが史実として証明されている、と思えるのである。

MAG2

コメント


認証コード2371

コメントは管理者の承認後に表示されます。