「卑弥呼」

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卑弥呼に「卑」、邪馬台国に「邪」という漢字が使われている理由

「邪馬台国は女王卑弥呼によって統治されていた」―。日本史の授業で誰しも学んだ内容ですよね。しかし、実は卑弥呼は女性ではなかったかもしれないそうです。無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、先日亡くなられた渡部昇一氏の遺作となった『渡部昇一の少年日本史』の中から、「卑弥呼」についての考察を紹介しています。

現役高校生も感動した日本の歴史

渡部昇一氏の遺作となった『渡部昇一の少年日本史』。発売2週間で早くも3刷が決定、東京の八重洲ブックセンター本店の人文ベストセラーランキングでも人気第1位となるなど、大きな反響を呼んでおり、中学生や高校生からも、「歴史の面白さを初めて知り、感動した」という声が寄せられています。

彼ら、彼女らを感動させた、本書で語られる日本の歴史とはどのようなものなのでしょうか? その一部をご紹介いたします。

なぜ「卑弥呼」と呼ばれたのか?

日本の歴史を語るときに、日本で書かれた『古事記』や『日本書紀』にあたらず、わざわざ海の向こうで書かれた文献に頼るというのは大いに問題があると思いませんか。

皆さんもすぐに気がつくはずです。

当時は今ほど交通手段が発達していませんでした。飛行機や電車はもちろん、船だって大したものはなかったでしょう。もちろん、新聞もテレビもインターネットもありません。

そんな時代に、海を隔てた朝鮮半島や中国大陸に住む人々が日本についてどれほど正確な知識を持っていたでしょうか。人の行き来すら限られていた時代に、いったい何がわかるというのでしょうか。

もし知っていることがあったとしても、せいぜい場所が近い九州北部あたりの人々と貿易などをしていて交流のあった人たちが耳にした噂話程度のものだったに違いありません。彼らはその噂話を自分の国の歴史に書いたのです。

たとえば日本について書いたものとして卑弥呼や邪馬台国について触れた『魏志倭人伝』が有名です。これは『三国志』の「魏書」にある「東夷伝」中に含まれていて、三世紀の末頃に書かれたといわれています。

「東夷伝」の「東夷」というのは「東のほうの蛮族」という意味です。そんな海の向こうの蛮族について、どれほどの関心を抱き、どれほどの知識を持っていたでしょうか。

おそらく「東のほうにどうも島があるらしい、その島の名前は『やまと』というそうだ」という、噂の噂ぐらいのレベルで耳にしたことを書いたと考えるほうが妥当でしょう。邪馬台の「台」は「と」と読めますから、「やまと」に「邪馬台」という漢字を当てて書いたのでしょう。

しかも相手には野蛮国という先入観がありますから、「邪」という悪い漢字を使っているわけです。

そこの支配者は卑弥呼という女王であるというのも、どこかで耳にしたことなのでしょう。

なぜ卑弥呼は「女性」とされているのか

日本人から見れば卑弥呼は「日の御子」です。日本人は昔から天皇のことを日の御子と呼んでいたのです。だから、卑弥呼とは天皇のことなのではないでしょうか。

われわれが小学校のときに歌っていた紀元節(神武天皇が即位した日として明治6年に定められ、昭和23年に廃止されるまで続いた祝日、現在の建国記念日)の歌の三番に「天つひつぎの高みくら(天津日嗣の高御座)」という歌詞がありました。天皇は天津日嗣の人だから日嗣の御子となって、日の御子と呼んだのです。

しかし『魏志倭人伝』の作者は野蛮人の国の日の御子だから「卑」という字を使って卑弥呼としたのでしょう。

本当はお日様の「日」だったに違いありません。それが女王であったというのは、日本の神話では天照大神という女神がいたという話が伝わっていて、それと重なって女王の卑弥呼になったのだろうと私は想像しています。

このような想像の産物が『魏志倭人伝』なのではないかということは昔の人も考えたようで、第二次世界大戦の前までのまともな日本の歴史家は誰も『魏志倭人伝』を取り上げていませんでした。

ところが戦後になると、とくに1970年代あたりは中国大陸や朝鮮半島を重んずる風潮が強くなって、あたかも邪馬台国や卑弥呼が『魏志倭人伝』に記されたとおりであったようにこじつける仮説がたくさん出てきました。しかし、前記のような理由から、こういう仮説は無視するのが正しいように思います。

『魏志倭人伝』を取り上げるならば、『古事記』や『日本書紀』のほうが遥かに信頼できます。なぜならば、『古事記』や『日本書紀』は日本で書かれた日本の歴史書なのですから。

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