「東洋社会における「秘密結社」とは」

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東洋社会における「秘密結社」とは

黄巾の乱

現代を生きる私たちは、「秘密結社」というと、快傑ハリマオの相手方のような子供向けのアクション番組か、アニメの敵役を思い浮かべるか、KKK(クー・クラックス・クラン)やイルミナティ、フリーメイソンとかを思い浮かべ、何やら秘密めいたいかがわしい団体といったイメージを思い浮かべるのではないかと思います。

ところが実際には、西欧的意味における「秘密結社」というのは、時の王権から正式な認可を受けていない団体のことをいいます。

つまりこれは、ひらたくいえば、政権から未認可の任意団体のことです。

日本でも政府に届け出のない任意団体は、「秘密結社」です。
ですから清水次郎長率いる清水一家は、任侠団体として政権の認可を受けてはいませんから、西洋的な言い方をすれば、秘密結社です。

しかも清水一家の場合、結社の構成員は、任侠道の盃を交わすという政府の公認のない秘密の儀式を行っています。
もちろん、その他の任侠○○一家は、すべて同じです。

明治以降の憲法は「結社の自由」を認めていますから、いまの日本国内では、いかなる任意団体を作ろうが違法とされることはないし、構成員がいくつもの団体をかけもちしても、ほとんどの場合、まったく問題になりません。

清水一家も、もちろん堂々たる任意団体です。
その意味では、維新後の日本に、中世の西洋的な意味での「秘密結社」として分類される団体はありません。

要するに「秘密結社」というのは、単に「時の政権から公式な認可を受けていない団体」というにすぎないわけです。

もちろんその中には、秘匿性の高い団体もあったでしょうし、堂々と公開活動している団体もあったことでしょう。
ところが、いわゆる東洋の、特に支那から半島にかけての人たちにとっては、「秘密結社」は、我々日本人や、欧米人からみても、まったく異なる存在となります。

どういうことかというと、少々古い話になります。
二世紀に、太平道(たいへいどう)という宗教団体が支那に起こります。

太平道は、張角(ちょうかく)という人物を教祖とする、信仰団体で、数十万の信者を持ち、武装して軍事組織化していました。
この太平道の信者たちが、

「蒼天已死 黃天當立歲在甲子 天下大吉」
(蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在り、天下大吉)

というスローガンを掲げて、頭に黄色い布を巻いて、後漢王朝の転覆を図った大規模な反乱が、有名な「黄巾の乱(こうきんのらん)」です。

事態を重く見た後漢の霊帝は、正規軍を動員して黄巾の乱を鎮めました。
はじめ歩の悪かった正規軍でしたが、太平道の教祖の張角が病死したために、乱は鎮圧されています。

この太平道とほぼおなじ時期に誕生したのが、「五斗米道(ごとべいどう)」です。

「五斗米道」は、江蘇州出身の張陵(ちょうりょう)という人物が、チベット・・・ではなくチベットの「近く」で修行して、万病を治す霊力を身に着けたとする、これもまたいまでいう新興宗教的団体で、開祖が西暦143年です。

張陵の死後、息子の張衡(ちょうこう)が跡をつぎ、呪術的な儀式を学べば神仙の力を手に入れることができるとして、その入門や修行のために、一回、五斗(およそ1升)の米を信者たちから集めました。

張衡の上手なところは、そうして集めた米で、流民に食事を無償で提供し、流民たちをも、信者の輪に取り込んでいったところです。
しかも、信者たちには、それぞれ、まるで軍隊同然の役職を授け、教団の組織化を図りました。

こうして組織化された五斗米道の集団もまた、軍事組織化していきます。
そして黄巾の乱が起きたとき、五斗米道は、後漢王朝に協力して黄巾軍撃退に尽力し、漢江の上流にある渓谷を平定したあとに駐屯した南鄭(なんてい)を占領して、ここに後漢王朝から独立した「神政王国」をうちたてます。

後漢王朝は、慌てて軍隊を差し向けるのですが、逆に撃退され、五斗米道は逆に勢力を伸ばして陝西省(せんせいしょう)南部から四川省(しせんしょう)東部にかけて、彼らの王国にし、巨大な勢力を持つようになります。

ところが西暦215年に、三国志に出てくる魏の曹操の武力の前に降参し、魏の属国になります。

そして今度は、逆に曹操の保護を受けることで、信者を支那全土に広げるわけです。

曹操も、五斗米道の信者たちが宗教的熱意で戦いを有利に展開してくれる五斗米道に、始めの頃は重宝するのですが、魏の勢力がマシてくると、次第に五斗米道が邪魔になる。

こうして曹操は、五斗米道の信者たちを北方へ強制移住させます。
これを嫌がったり、地下にもぐって官憲の手を逃れた信者たちが起こしたのが「秘密結社」となるわけです。

そしてこれが、支那における最初の「秘密結社」となります。

こうして地下に潜った五斗米道の秘密結社は、東晋に庇護を求め、東晋が東遷したときに、これに付いて江西省の竜虎山に拠点を移して、再び教団勢力を拡大し、その後、教団名を何度か変えて、最後にたどり着いた教団名が、仏教ならぬ「道教」です。

要するに支那においては、政権の言うことを聞かない、政権と対立的な団体、もしくは政権または公的団体から追われる団体が「秘密結社」です。
その意味では、支那事変の前に、国民党から徹底的に狩られていた支那共産党も、その当時は、まさに「秘密結社」だったわけです。

要するに支那においては、古来、政府や政治権力集団から追われる秘匿性の高い結社が「秘密結社」の持つ意味となります。

そしてこれが、上下関係でしか人間関係を捉えることができない半島に行きますと、宗教的権威や肩書などを利用して、人よりも上位に立った者が、武力や奸計を用いて下の者から収奪する団体が「秘密結社」になります。

表面上は人々の幸せや世界の平和を口にしていても、上に立つ者にとって、下の者のモノは自分のモノ、自分のモノも自分のモノという半島マインドからは、「秘密結社」の実態は、どこまでも教祖個人の贅沢に置かれます。

要するに「秘密結社」という言葉は同じでも、そこにある意味は、
日本仮面ライダーの敵のショッカーたちが所属する団体のようなイメージ。
西洋  単に、時の政府が認可していない任意団体
支那  武装集団
朝鮮  権威や肩書などを利用して、上の者が富を得る仕組み。
といったように、言葉のニュアンスが微妙に違います。

漢字で書いたら同じ「秘密結社」でも、そこに込められた語感には、だいぶ大きな違いがあるのです。

ちなみに日本でも戦国期に、一向宗の信徒たちが、北陸全体を事実上の自治国としたことがあります。

しかし、この場合の一向宗は、西洋的な意味における「秘密結社」ではありません。

なぜなら、日本は十七条憲法によって「厚く三宝を敬え」とされた国であり、一向宗は秘密の組織ではありません。
ですから加賀の一向宗信徒たちは、西欧的な意味における「秘密結社」ではありません。

武装した武力集団であったという意味においては、支那の五斗米道や太平道に近いといえるかもしれません。

しかしこの場合も、一向宗の信徒たちの行動は、戦国に明け暮れる当時の武将支配を逃れて平和に生きることを目的としたものであって、しかも一向宗そのものの存在は、朝廷からも大名たちからも認められたものであったわけですから、やはり支那的な意味での「秘密結社」とは異なります。

加賀国一向一揆は、なるほど朝倉氏、上杉謙信、織田信長などと軍事的衝突を起こし、最終的には上杉謙信率いる本隊に大敗していますけれど、どこまでも民のために武力に対して武力で立ち向かっただけであって、信徒たちもその指導者たちも、おそらく誰一人、自分たちが「秘密結社」であるなどとは思っていません。

また一向宗は、集団の話し合いによる自治を行い、その目的は、あくまでひとりひとりの信徒たちの生活の安定にありました。

つまり上に立つ者が、巨額の収入を得て個人的な贅沢を尽くすための組織ではありません。

ですから、半島的な意味での秘密結社ではありません。

ところが、支那朝鮮の人が日本の戦国史を学ぶと、どう見ても加賀の一向一揆による自治国の成立は「秘密結社」に見えてしまうわけです。
理由は、言語感覚が日本人と微妙に異なるからです。

なぜ日本人が、そういったことに割りと無頓着でいれるかというと、日本人は大昔から、人間の体と生命は、御魂がこの世で、魂の向上のための訓練をするための一時的な、現世での姿と考えてきたことによります。
人の本体が魂であって、肉体は、その魂を鍛えるための乗り物です。

「イワシの頭も信心から」としてきたのが日本人です。
ですから自己の魂を鍛えることができ、魂の向上に役立つと思えば、日本人は、どんな宗教の教えでも、そこから何かの知恵を得ようとします。

逆にいえば日本人にとっては、自己の魂の成長に役立つと思えば、一神教であれ、多神教であれ、そこから得るべきものと得たいと考えるわけです。

日本人の信仰感は、12月25日にはキリスト教のクリスマスを祝い、大晦日にはお寺に行って除夜の鐘を突き、元日の夜が明けると神社に初詣するというように、諸外国の人たちから見ると、まるで何でもあり、のように見えるといいますが、根底にそのような考え方がありますから、すべてを受け入れることができるわけです。

ところが、そうした日本人の純粋さを、自己の欲望のために利用主義的に利用して、自己の権力の増大や、金儲けに利用しようと考える人たちが、日本の社会の中に日本人のような顔をして、日本語を話し、日本国籍を取得しています。

文化の違いというのは、実は、たいへんにおそろしいものです。
それは、人々のあらゆる価値判断の根幹となることだからです。

だから差別しろというのではありません。
もちろん警戒は必要です。
ただいえることは、古い日本語で「たむら」というのですが、大昔は、カマドの上に神棚を祀り、そこに神様に織りてきていただいていたわけです。

ですからカマドは、神聖な場所でした。
けれど、カマドで火を炊けば、そこには必ず、真っ黒な煤(すす)がたまります。

この「煤(すす)」のことを「たむら」と言ったのですが、面白いことに、漢字では「たむら」のことを「黨」と書きました。
そしてこの「黨」という漢字は、いまの新字では、「党」と書くのです。

いつの時代でも、どんな社会でも、必ず「たむら」は存在します。
家の中がきれいなら、「たむら」は目立ちます。
片付けなければ、という気持ちも起きます。
けれど、家の中が全体に汚れていれば、「たむら」はまったく目立ちません。

目立ちませんが、いつの間にか溜まったススは、ついには煙突の詰まりを起こし、暖炉そのものまで使えなくしてしまうのです。

言い換えれば、「たむら」が「たむら」とわかるためには、世の中がきれいになっていなければならないのです。

このことは、言い換えると、世の中に正しい価値観がしっかりと根づいている必要があるということです。

そして日本人にとっての価値観の源(みなもと)は、やはり神話にあると思います。

その神話は、戦後GHQの教育指令によって、一時は教育が禁止されましたが、そのGHQは、昭和27年にとっくに解散し、GHQの指令も、その時点で白紙になっているのです。

ということは、GHQの指令がいまだに守られ、神話教育が復活していないのは、昭和20年から27年のGHQ解散までの間に、いわゆる「敗戦利得者」となった集団が、いまだに我が国を汚し続けているにすぎないということになります。

カマドにススがたまり、煙突が詰まっているのがいまの日本であるように思います。

正常化するためには、煙突の大掃除をしなければなりません。
そしてそのためには、ニワトリが先かタマゴが先かではありませんが、むしろ私たち自身が神話を積極的に取り戻す努力をしていくことなのではないかと思います。

ねずさん

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