「似ている第一次大戦のあと」

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第一次世界大戦のあと、軍縮会議が行われて、英米日の戦艦総排水量比率が「5:5:3」にされたという話は、お聞きに成られたことのある方も多いと思います。

けれど実は、この軍縮会議、4回ありました。

1919(大正8年)に、第一次世界大戦の終戦処理をするために「パリ講和会議」が行なわれたことは、みなさまよくご存知のことと思います。
この会議の席上、日本は、新たに設立される予定の国際連盟規約に「人種平等の原則を入れる」という、当時の世界ではまさに画期的な提案をかかげたことも、有名な史実です。

ところがこの会議の席で、日本は参加16カ国中、11カ国の賛成を得るという、多数決の論理に従えば、明らかに成立になろうとする快挙を成し遂げるのですが、会議の議長であった米国第二十八代大統領ウッドロー・ウィルソンがこれを、「全会一致でない」というひとことで、退けたということも、やはり有名な話でご存知の方も多いかと思います。

このときの日本の「人種の平等」という理想の提案は、実はものすごいことということができます。

なぜならこの時代というのは、西欧諸国のお金持ちや、そのお金持ちたちのいる、いわゆる欧米列強の諸国は、富の大部分を、人種を差別した植民地政策によって得ていた時代です。

それが人種が平等になるということは、欧米の資本家や貴族たちにとっては、その富の源泉を失うことを意味するのです。

つまり、それはもしかしたらヨーロッパで数百年続いた資産家たちの破産をさえ招くという提案であったわけです。

それだけの気宇壮大な提案をしておきながら、参加16カ国中、11カ国の賛成を得たということは、これは当時の日本の政治力の凄さということができます。

ちなみに、そのことを裏付けるひとつの事実があって、このときの日本の全権大使は、日本を出発してパリにわたるのに際し、当時は船旅ですので、普通なら、インド洋経由でパリに向かいます。

ところがこのときの日本の全権は、なんと太平洋経由で、先に米国に入り、そのあと大西洋を航海してパリに渡っているのです。

なぜそのような、かえって遠回りをするようなルートをとったかというと、国内に黒人差別という問題を抱えた米国において、当時、黒人たちの市民権運動が極めて盛んだったことによります。

つまり、日本の全権大使は、人種の平等を主張し、その主張を世界に向けて公言しながら、米国入りしたわけです。

これに米国黒人社会が好感しないはずはなく、このとき日本の全権が、特に米国の黒人たちに何か発言したというようなことはひとこともなかったのですが、日本の全権が米国に来てくれたというだけで、米国の黒人たちは狂喜して、これを歓迎してくれたわけです。

そして実は、そのことを歓迎する米国白人もたくさんいたのです。
当時の米国では、黒人には市民権がありません。
つまり選挙権もありません。

従って、選挙で選ばれる米議会も、大統領も、市民権のない人たちの意向など、まるで聞く必要がなかったのですが、白人社会のなかで、黒人たちへの差別を、よろしくないと考える人たちがいて、その人たちに日本の全権の訪米が、大きな力を与えたということは、これは政治的にきわめて大きな出来事でもあったわけです。

ですからウイルソン大統領も、会議の実は前日までは、日本の主張に、前向きの姿勢を見せていたのです。

ですから全権、このときの全権は、牧野伸顕(まきののぶあき)ですが、会議が始まるまで、人種平等法案は、必ず通ると確信を持てるところまで、根回しを徹底していたし、本当に全力を投入して、世界の人種の平等を実現しようと、がんばっていたわけです。

ところがいざ会議が始まると、ウイルソン大統領は、まるで手のひらを返したように、人種の平等をしりぞけました。

このパリ講和会議における、国際連盟設立の呼びかけ人は、米国ウイルソン大統領です。

ところが、この時点では、まだ米国は自国で国際会議を開けるだけの国際的信用がありません。

だからパリで会議が開かれ、国際連盟の設立もそこで決まったのですが、ところが米議会は、その国際連盟に米国が加盟することを拒否します。
要するに、簡単にいえば、米国に国際会議を呼びかけるだけの信用がない状況で、どうして米国が世界のために働かなくれはならないのだ?というのが、議会の反応であったわけです。

そんな次第ですから、ウイルソン大統領としては、なんとしてもアメリカで国際会議を開きたい。

そこで、国際連盟設立の2年後に、開催されたのが、ワシントン軍縮会議です。

実はこのワシントン軍縮会議、米国が主催した初の国際会議です。
そして同時に、史上初の「軍縮」のための会議でもありました。

この会議開催に際して、ウイルソン大統領にはひとつの狙いがありました。

当時の米国は、ヨーロッパからみたら、ただの海の向こうの田舎です。
ヨーロッパの人の感覚としては、日本が生んだ満洲国くらいの感じと思っていただいたら、わかりやすいでしょうか。
要するに栄えある白人諸国にとって、アメリカは当時は、ただの田舎とみられていたわけです。

ところが第一次世界大戦で、ヨーロッパ諸国は戦場になります。
しかもそこで起きた戦争は、ヨーロッパの歴史に、かつてないほどの消耗戦となりました。

なぜかというと、火薬や大砲の威力が、この時代に急激に進歩したからです。

それまでのヨーロッパでは、戦争は日常茶飯事といってよいほど行われていましたが、戦うのは傭兵です。

傭兵は自分の命が商売です。
死んだら商売になりませんから、ちょっとだけ戦って、形成が決まったら、サッサと白旗を掲げて降参してしまう。
それで戦争は終わりだったわけです。

ところが、ナポレオン以来、国民国家が誕生して、兵たちが死ぬまで戦うようになりました。

そこに加えて、火薬や大砲が劇的に進歩したのです。
そして起きたのが第一次世界大戦です。
だから、第一次世界大戦では、両軍合わせて約1千万人の戦死者、2千万人の戦傷者が生じることになりました。
実は、第一次世界大戦は、ものすごい戦争だったのです。

それだけすごい戦争ですから、第一次世界大戦中の4年2ヶ月の間、ヨーロッパの産業は、ほぼ壊滅状態となります。
ところがそうなると、それまでヨーロッパから工業製品を買っていた世界中の国々では、商品が手に入らなくなります。

そこで、各国は、ヨーロッパから買っていた工業製品の発注を、大量に米国に発注しました。
もちろん、日本も、この受注で、国内景気は最大限に上向きとなり、このことが、国内バブルのような好景気を生み、大正デモクラシーの「はいからさん」の時代を迎えています。

ところが米国の好況は、日本の比ではないほどで、戦争特需で、まさに米国経済は、急激に成長するわけです。

そんな米国が、いつまでもヨーロッパの田舎であってはならない。
アメリカは、新たな世界のリーダーとなっていくべきであるというのが、ひとことでいえば、ウイルソン大統領の立場であり、主張でした。

そして第一次世界大戦が終わったとき、アメリカは、それまでの世界最強の大英帝国にさえ、なんと47億ドルというすさまじい債権国になっていたわけです。

ウイルソン大統領は、この債権国の立場を利用して、英国に、それまでの日英同盟を破棄させ、新たに米英同盟を構築しようともちかけます。
英国にしてみれば、47億ドルの借金があるわけですから、米国の誘いに乗るしかない。

そんな状況で、1922(大正11年)にワシントン軍縮会議が行われるわけです。

もちろん、巷間言われるように、第一次世界大戦後の世界の列強諸国にとって、建艦競争はたいへんな国費の出捐(しゅつえん)になっているわけで、そんな負担を減らして、内政にもっとお金を遣おうよ、というのは、それなりに世界が納得しうる能書きともなっていました。

そしてこの軍縮会議によって、米:英:日の戦艦総排水量比率は、5:5:3と定められたわけです。
このことは、もともと、
(英+日=10)対(米国5)
という海軍力が、今度は、
(英+米=10)対(日本3)
と変化することを意味します。

米国の世界における立場は、対日本という点だけでみても、10対5で、明らかに劣っていたものが、今度は一夜にして、10対3と、米英同盟有利という形にかわるわけです。

つまり簡単にまとめれば、世界の軍事バランスが大きく変形し、日本は世界の最強国のひとつという立場から、一瞬にして弱国という状況に置かれることになったわけです。

けれど、このときの交渉結果は、もちろん日本は3ですけれど、その対象は戦艦だけです。
もともと日本海軍の強さは、戦艦よりも魚雷艇にあり、小さな魚雷艇が、敵弾の雨をくぐり抜けて、敵艦50メートルにまで近づいて、巨大魚雷を発射するという戦法です。

実は、日本海海戦の勝利も、この魚雷艇の活躍が群を抜いています。

しかもこの当時の日本の軍人は、体は小柄だけれども、とてつもなく強い。

剣術、柔術、銃剣術を身に着けたひとりの日本軍人は、大柄な白人5人の戦力にあたるとまでいわれた時代です。
なにせ、剣術をやっている日本人には、西洋人のパンチがまったく当たらない。

木刀で練習し、その切っ先を見切って躱(かわ)づのです。
刀の切っ先のスピードは、どんなハードパンチャーのパンチのスピードを上回ります。

パンチが当たらないからと、取っ組み合いをしようとすると、今度は柔術で一瞬にして投げ飛ばされる。
本当に日本の軍人は、おそろしい、まるで魔法使いのような存在だったのです。

ですから、日本にしてみれば、戦艦が3になったところで、実質的な戦闘能力は13くらいあるのだから、一向にかまわない・・・といった感覚が、実は、この時代にはあったし、それはまた、事実でもあったわけです。

ところがそんなカラクリがあれば、せっかくアメリカ初の軍縮会議の成果も、結果としは何の意味も果たさない。
そこで5年後の1927(昭和2年)に、今度は、ジュネーブで海軍軍縮会議を開こうと、米国が呼びかけます。
そして今度は、戦艦だけでなく、補助艦である巡洋艦や潜水艦まで規制の対象にしようということになったのです。

日本は、お声がけをいただいて、この軍縮会議に参加しました。
日本の目的は、強国の地位にあることではなく、どこまでも、世界の平和と安定にあったからです。

ところがこの会議、散開となってしまいます。
日本が何をしたわけでもありません。
主催者である米国と、米国の同盟国である英国の利害が対立し、二国で勝手に喧嘩をはじめて、日本がなにもしないうちに、会議が散開になってしまったのです。

これが、世界で二度目の軍縮会議です。

三度目の軍縮会議は、その3年後、1930(昭和5年)ロンドンで開催されました。

そしてその会議の席上、戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等を含めて、日本の海軍力の保有比率は、対英米比で、69.75%と決められました。

要するに、英米に対して、約7割です。
5:3よりは、ややマシですが、当時の日本側の認識としては、上に述べましたように、日本軍は強いから、ハードが7割でも、戦えば十分に勝てると考えられたわけです。

しかし、しかし!です。
第一次世界大戦後、日本はドイツが保有していた太平洋の島々を信託統治領としました。

要するに広大な太平洋のおよそ3分の1の広大なエリアが、日本の一部になったわけです。

当時の国際的常識というのは、今風にいうなら、オクレタ国で、ススンダ国の人に何かあった場合、その責任をオクレタ国では取ることが出来ませんから、代わってススンダ国が、それぞれでオクレタ地域について、互いに責任を負担し合うというものです。

このことは異常なことでもなんでもなくて、たとえば日本で日本人がジャンボジェットの飛行機事故で死亡すれば、巨額の補償金が支払われますが、途上国の飛行機で事故にあえば、それほどの補償金はまずもらえません。

まして、70年前の世界では・・・という状況ですから、いわゆる列強諸国が、互いに世界の国々を分担して、互いに責任を負担し合うということが行われたわけです。

つまり、広大なエリアの太平洋の島々が日本の信託統治領になったということは、もしそのエリア内で、列強諸国の船等に万一のことがあった場合、日本はそれに対して責任をもって対応しなければなりません。
エリアは広大です。

そうであれば、当然に日本の海軍力は、ただ兵が強いということだけでは足りず、それにふさわしいハード面での海軍力が、実は不可欠だったわけです。

ただ、そのことは、平和を前提とすれば、莫大な予算を必要とする建艦競争の費用は、できれば民政に回したい。

しかもこの時期、大戦が終わり、西洋での工業が復活してきています。
つまり、日本国内では、戦争特需が終わり、大学を出ても就職がないという、不況が襲い始めていたのです。

ですから枢密院はこの決定を受け入れました。
けれど、これに噛み付いたのが、立憲政友会です。
当時の政友会の党首は、鳩山一郎です。
軍縮を決めてきたのは、民政党の浜口雄幸内閣です。

鳩山一郎にとっては、民政党政権をひっくり返し、政友会が政権を奪取する、これは実によい機会です。
そこで鳩山一郎率いる政友会が行ったキャンペーンが、大日本帝国憲法第11条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(統帥大権)を盾にした、「統帥権干犯問題」問題です。

政府が軍令(=統帥)事項である兵力量を天皇の承諾無しに決めたことは憲法違反だという主張です。

実は、この主張は、幕末に徳川幕府が米国と通商条約を結んだことに、薩長土肥の諸藩が「天皇の勅許なく外国と条約を結んだことはケシカラン」と言った、あの主張の焼き直しでした。

結局、浜口雄幸は、暴漢に狙撃されて倒れ、内閣は倒れ、代理内閣として民政党若槻礼次郎内閣が臨時に組閣するけれど、8ヶ月で倒れ、翌年には、政友会の犬養毅による内閣が組閣されます。
ところがその犬養毅も、在任中に暗殺されてしまう。

この統帥権干犯問題から、日本の軍部が日本の政治の派遣を握ったかのような歴史観がありますが、これは大嘘のコンコンチキです。

だいたい、軍部軍部言うけれど、いったい軍部って、陸軍のことなのか、海軍のことなのか、そもそも軍部って誰のことを言っているのかさえ曖昧です。

むしろこの時代の日本軍は、海軍は、政府が勝手に軍縮を決めてくるなかで、責任だけを押し付けられ、責任をまっとうするためには、少ない予算でいかにして広大な海域を守るために船を運用するか、どうやって世界の新造艦に負けない船を少ない予算で確保するか、あっちこっちに頭を下げまくって、ひたすら予算確保に勤めていたというのが実情だし、だからこそ、現場の強者よりも、予算をひっぱってこれる官僚軍人でなければ出世しないという状況が生まれたりしていたのです。

海軍は、船作りと維持のための費用確保で汲々としていたし、陸軍は、海軍よりもはるかに人数が多くて、しかも治安の悪化した大陸にまで出兵させられていながら、予算を絞られているから、十分な兵力を確保できない。
そのために尼港事件のように、日本人が虐殺され、日本の軍人が皆殺しされるような事態が起きても、政治はまるで、そうした現実を見ようとしない。

要するに当時の日本の政治は、世界の動きや日本を取り巻く軍事について、まるで省みることなく、民政党と政友会という二大政党のもとで、いたずらな国内政争が繰り返されていたのです。

いまの日本とよく似ています。

北朝鮮が一触触発の状況にあり、実際に核を搭載したミサイルで日本に狙いをつけ、韓国にはそんな北に対する親北政権が誕生し、これで半島は自分のものと確信した中共政府は、尖閣領域から竹島海域まで軍事力を伸ばそうとしてきているという、まさに第三次世界大戦が起こりかねない情況があり、また国内では、外国人による信じられないような日本人に対する虐殺や、身元不明死体がゴロゴロとあがってきているという不穏な情況があるのに、国会で野党が騒いでいるのは、読売新聞を読みなさい発言へのケチと、相変わらずカビの生えたような森友問題です。

政治が政争を繰り返して、国家国民を顧みなくても、世界の情勢は刻々と動いているのです。

日本の政治が、日本国内だけを観て、口角泡を飛ばして政争を勝手にやっていても、日本の民間人たちが必死で働いて日本経済が世界第二位の黄金時代を迎えるまでに成長した時代は、とっくに終わっています。
そしていまは、まさに国難のときなのです。

与野党の対立を前提とした政治が、どれほど国民生活の安全を損ねるものなのか、私たちはもう一度考え直してみる必要があるのではないでしょうか。

そうそう、4度目の軍縮会議は、その5年後の1930年に、第二次ロンドン海軍軍縮会議という形で開催が呼びかけられました。
けれど、このときはさすがに日本は、参加を断っています。

今日お話した事項は、1918年の第一次世界大戦の終結から、1935年のロンドン軍縮会議までのおおまかな流れです。
わずか80〜90年前の出来事です。

そして日本は、第2次世界大戦という未曾有の国難に突入していきました。

本当に平和を愛するなら、日本が平和でありたいなら、私たちは歴史をきちんと学ぶべきなのではないかと思います。

ちなみに、米国が世界最強の国家の地位を確立したのが、第一次世界大戦による戦争特需による経済的利益と、それまで世界最強国家であった英国債の保有でした。

そして、日英同盟は破棄され、米英同盟が実現しました。

いま、中共は、米国に対する巨大な債権国です。
もし、中共が、かつて米国がそうしたように、日米同盟に水をさして、中米同盟の確立という方向に向かったら、日本はどうなるのでしょうか。

もちろん、そうならないであろう理由はたくさんあります。
けれど、そうなる理由も、たくさんあるのです。

国際関係は、常に流動的です。
ということは、未来を築く力は、いま生きている人の力で動くということです。

そのことを忘れないようにしたいものです。

ねずさん

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